金田一耕助ファイル3    獄門島 [#地から2字上げ]横溝正史   目 次  プロローグ 金田一耕助島へいく  第一章 ゴーゴンの三姉妹  第二章 にしき蛇のように  第三章 |発句屏風《ほっくびょうぶ》  第四章 吊り鐘の力学  第五章 お|小夜聖天《さよしょうてん》  第六章 夜はすべての猫が灰色に見える  第七章 見落としていた断片  エピローグ 金田一耕助島を去る     プロローグ 金田一耕助島へいく  |備《びっ》|中《ちゅ》|笠《かさ》|岡《おか》から南へ七里、瀬戸内海のほぼなかほど、そこはちょうど岡山県と広島県と香川県の、三つの県の境にあたっているが、そこに周囲二里ばかりの小島があり、その名を|獄《ごく》|門《もん》|島《とう》とよぶ。  獄門島。——  このいまわしい名の由来については、昔から郷土史家のあいだに、いろいろと説があるようだが、そのなかで、いちばん|妥《だ》|当《とう》と信じられているのは、元来、この島は北門島とよぶのが正しいという説である。そして北門島という名の由来については、つぎのような考証があげられている。  藤原|純《すみ》|友《とも》の昔から、瀬戸内海の名物といえば海賊であった。往時、|赤《あか》|間《まが》|関《せき》をとおって日本の心臓部に流入する大陸文化の貿易船は、つねに勇敢な|瀬《せ》|戸《と》|内《ない》|海《かい》の|海《かい》|賊《ぞく》になやまされなければならなかった。これらの海賊の勢いにはときに盛衰があったとはいえ、遠く|奈良朝《ならちょう》の時代から、江戸時代の初期にいたるまで、連綿としてその伝統はうけつがれているのである。わけてもその勢力のいちばんさかんだったのは、|吉《よし》|野《の》朝時代で、六十年にわたる南北朝の抗争史に、瀬戸内海の海賊が、いかに大きな役割をつとめていたか、だれでも知っているとおりである。  これらの海賊は俗に|伊《い》|予《よ》海賊とよばれ、つねに伊予の海岸線から|燧灘《ひうちなだ》、|備《びん》|後《ご》灘へかけての|島《とう》|嶼《しょ》を根拠地としていたが、現今の獄門島は、当時かれらの一味が、北の固めとしていたところで、かれらはこれを北の門とよんでいた。そこから北門島の名が起こり、それがいつか転じて、獄門島となったのである。——と、こういうのである。  しかしこれには異説があって、これはそれほど歴史的な子細があるわけではない。江戸時代の初期、この島から|五《ご》|右衛《え》|門《もん》という、身長六尺七寸という大男が現われ、それが全国的に|喧《けん》|伝《でん》された。それ以来、この島は五右衛門島とよばれるようになっていたが、いつかそれが転じて獄門島となったのであるというのである。  北門島と五右衛門島。——そのいずれが正しいのか、私はいまつまびらかにしえないが、しかしそれが獄門島という、不吉な|訛《なま》りをもってよばれるようになった由来については、だいたい諸家の説が一致しているようである。  それはこうだ。  旧幕時代この島は、中国地方の某大名の|飛地領《とびちりょう》になっていた。そのころここは全島赤松におおわれた、|花《か》|崗《こう》|岩《がん》からなる一孤島であり、住むものとてはそのかみの海賊の子孫といわれる、ごく少数の漁師たちが、きわめて原始的な方法で、すなどりに従事しているばかりであった。そこでこの島の開発を思い立った大名は、ここを|流《る》|刑《けい》場とさだめたのである。それ以来、領内の罪人たちのうち、死一等を減じられたひとびとが年々歳々この島へ送りこまれ、そういうところから、いつかここは獄門島と、不吉に訛ってよばれるようになった、ということである。  それにしても、江戸時代三百年を通じて、この島へ送られてきた不幸な人々は、いったい何人あったであろうか。それらのなかにはのちに|赦《しゃ》|免《めん》されて郷里へかえったものもあったろうが、なかには|生涯《しょうがい》をここに送って、島の土となったひとびとも少なからずあったにちがいない。それらのひとびとの多くは、海賊の子孫といわれる土着の漁師と|婚《こん》|姻《いん》して子孫を残した。また、のちに赦免されて郷里へかえった人たちのなかにも、ここにいるあいだに、島の娘と|契《ちぎ》りを結んで、子どもを残していったものもあるにちがいない。  明治になってからは、|流《る》|人《にん》の制はやんだけれど、元来島の住民というものは、きわめて排他心が強いうえに、環境に制約されるところも多いから、めったに他の島々と縁組みをしないものである。だからいま、獄門島に住んでいる三百戸、千数百人のひとびとは、これことごとく海賊と流人の子孫であるといっても、まずまちがいはないのである。  こういう島で犯罪が起こった場合、その捜査がどんなにやっかいなものであるか、それについては、かつて瀬戸内海のある島で、数年間小学校の先生をしていたKさんという人が、私にこんな話をしてくれたことがある。 「私のいた島は人口千人ぐらいでしたが、それが二重三重、ひどいのになると、五重六重と縁組みしているんです。だから、いってみれば全島がひとつの大家族みたいなもので、そういうところへ他国もんのお|巡《まわ》りさんが入り込んだところで、なにができますものか。なにか事件が起きると、全島一致結束してあたるから、お巡りさんも手の下しようがない。かれら同士のあいだに起こったいざこざ、たとえば物がなくなったとか、金を盗まれたとかいうような訴えにしたところで、お巡りさんが調べあげて、やっと犯人の目星をつけた時分には、向こうのほうでちゃんと和約が成立していて、いや、あれは盗まれたのじゃなかった、たんすの奥にしまい忘れていましたので……と、いうような調子ですから、のんきといえばのんきですが、また、場合によってはこれほどやっかいなことはありません」  ふつうの島でさえそのとおりだから、ましてや獄門島のような特殊な島、海賊の末よ、流人の子孫よと、まわりの島々から、|擯《ひん》|斥《せき》されるところからつねに他国人に対して、人一倍はげしい敵意をいだいているこの島で、もしも事件が起こった場合、警察当局がどのように手を焼くか、それは思いなかばに過ぎるものがあるだろう。  ところがそこに事件が起こったのである!  しかも、ああ、それはなんという恐ろしい事件だったろうか。えたいの知れぬ悪夢のような人殺し、|妖《よう》|気《き》と邪知にみちみちた、計画的な一連の殺人事件、まことにそれこそ獄門島の名にふさわしい、なんともいいようのないほど、異様な、無気味な、そしてまた不可能とさえ思われるほど、恐ろしい事件の連続だったのである。  しかし、これを読まれる諸君が早合点をしてはいけないから、ここに一応ことわっておくが、獄門島とて絶海の一孤島ではないのである。たかが瀬戸内海のことだから、どんなにかけ離れているといったところで知れている。そこには電気も来ているし、郵便局もある。日一回、本土から来る定期の連絡船もある。その連絡船は備中笠岡から出るのである。  それは終戦後一年たった、昭和二十一年九月下旬のことである。いましも笠岡の港を出た、三十五トンの巡航船、白竜丸の胴の間は種々雑多な乗客でぎっちりとつまっていた。それらの乗客の半分は、ちかごろふところぐあいのいいお百姓で、かれらは|神島《こうのしま》から白石島へ魚を食いに出かけるのである。そして、あとの半分は、それらの島々から本土へ物資を仕入れに来た、漁師や漁師のおかみさんたちである。瀬戸内海の島々は、どこでも魚は豊富だけれど、米はいたって不自由だから、島の人々は魚を持って、米と交換して来るのである。  すりきれた、しみだらけの、薄ぎたない畳敷きの胴の間は、それらのひとびとと、それらのひとびとの持ちこんだ荷物とで、足の踏み場もないほどであった。汗のにおいと、魚のにおい、ペンキのにおい、ガソリンのにおい、排気ガスのにおい、どのひとつをとってみても、あまり愉快でないにおいが、|錯《さく》|綜《そう》して、充満しているのだから、気の弱いものなら、|嘔《おう》|吐《と》を催しそうな空気だけれど、漁師と百姓、いずれも神経の|強靭《きょうじん》な人たちばかりである。そんなことにはおかまいなしに、この辺の人間特有のかん高い調子でしゃべりまくり笑い興じて、その騒がしいことといったらお話にならない。  ところがそういう胴の間の片すみに、ただ一人ちょっと風変わりの男が乗っていた。その男は、セルの|袴《はかま》をはいている。そして頭にはくちゃくちゃに形のくずれたソフトをかぶっている。いまどきは家にいるときの百姓だって、洋服あるいは洋服に類したものを着ている。ましてや旅に出るとあれば、|猫《ねこ》も|杓子《しゃくし》も洋服を着る。現にこの胴の間につまっている乗客でも、男で和服を着ているのはこの男のほかにもうひとりしかいなかったが、これはお坊さんだから致し方があるまい。  こんな時代に、あくまで和服でおしとおすこの男は、どこかしんにがんこなものを持っているのだろうが、見たところ、いたって平凡な顔つきである。がらも小柄で、|風《ふう》|采《さい》もあがらない。皮膚だけはみごとな南方やけがしているが、それとてもあまりたくましい感じではない。年齢は三十四、五というところだろう。  胴の間の|喧《けん》|騒《そう》もどこ吹く風といわぬばかりに、その男は終始窓ぎわによりかかって、ぼんやり外をながめている。瀬戸内海の潮は|碧《あお》くすみわたって、あちこちに絵のような島がうかんでいる。しかしこの男はそういう景色にもかくべつ心を動かすふうでもなく、いかにも眠たげな眼つきである。  船は神島から白石島、北木島へと寄るたびに、降りる客は多かったが、乗る客とてはほとんどなかった。そして笠岡を出てから三時間、|真《ま》|鍋《なべ》島を出たころには、さしも喧騒をきわめた白竜丸の胴の間にも、たった三人の乗客しか残っていなかった。そして、そのときになってはじめて、例の男がはっと顔色を動かすようなことが起こったのである。 「おやまあ、あんたは千光寺の|和尚《おしょう》さまじゃござりませんか。ちっとも気がつきませんでした。あんたどこへおいでなさりました」  |仰山《ぎょうさん》な男の声に、はっと眠気をさまされたという顔色だった。  振り返ってみると、声をかけたのは四十五、六の、一見して漁師とわかる男であった。軍隊からの払い下げらしい身に合わぬカーキ色の洋服を着ていた。しかし、例の男が注意をひかれたのはその男ではない。その男から千光寺の和尚さんと呼びかけられたもうひとりの男のほうである。  その人は、六十——いやひょっとすると七十にちかいのかもしれぬ——と思われるような年ごろだった。しかし、背の高い、肉の厚い体つきは、壮者のようにみずみずしく、眼も鼻も口も大きな顔立ちが、いかにもどっしりした重量感をひとにあたえる。大きな眼はきれいに澄んで温かみもあるがその代わり、どこかひとをひやりとさせる鋭さもあった。白い着物のうえに|道《みち》|行《ゆ》きを着て、丸めた頭には浮き織りの縁なし|頭《ず》|巾《きん》をかぶっている。  和尚は|眼《め》|尻《じり》にしわを寄せて柔らかに笑うと、 「おや、竹蔵か。わしもおまえが乗っていることを、ちっとも知らなかった」  ゆったりとした口の|利《き》き方である。 「なんしろえらい人で……和尚さん、あんたどこへおいでなさりました」  竹蔵はもう一度同じことを尋ねた。 「わしかな。わしは|呉《くれ》まで|吊《つ》り|鐘《がね》をもらいに行ってきた」 「吊り鐘——? ああ、戦争で供出したあの吊り鐘でござりますな、あの吊り鐘がまだありましたか」 「ふむ、|鋳《い》つぶされもせずに無事に生き残っていよったよ」 「それをもらいに……そしてその吊り鐘はどこにござります」 「はっはっはっは、わしがいかに力持ちじゃて、あの吊り鐘はさげてかえるわけにはいかんぞな。ただ手続きをして来ただけよ。そのうちに、島の若いもんに行ってもらわにゃならん」 「ほんに。……なんならわしが行ってきてもよござります。それでも吊り鐘が無事にもどって、おめでとうござりますな」 「そうじゃて。吊り鐘の復員というところじゃ」  和尚はにっこり笑ったが、すると竹蔵がにわかにひざをすすめて、 「そうそう、復員で思い出しましたが、分家の|一《ひとし》さんもちかく復員するそうでござりますな」 「分家の一さんが」  和尚は急に相手の顔を見直した。 「それがどうしてわかった。部隊から知らせでもあったのかな」 「いや部隊からではござりませぬが、一さんと同じ部隊にいるというもんが一昨日——いや一昨々日だったかな、ひょっこり島へやってきましてな、一さんからことづかったが、無事に生きているから安心してくれ、体も達者じゃ、いずれつぎの便か、つぎのつぎの便でかえるから……と、こう言ってまいりましたのじゃ。それで|早《さ》|苗《なえ》さん、大喜びでな、ごちそうをするやら、物をもたしてかえすやら——」 「ふむ、するとその男はかえったのかな」 「はい、かえりました。一晩泊まって……。だいぶしこたま物をもろうていったという話でござりまする。これで本家の|千《ち》|万《ま》さんが生きていると、いうことはござりませんな」 「ふむ、本家が生きていればいうことはない」  和尚は眼をつむって、口のなかのものを吐き出すような調子でつぶやいたが、例の男がそばへにじり寄ってきたのはそのときだった。 「ちょっとお尋ねいたします。あなたは獄門島の|了然《りょうねん》和尚じゃありませんか」  和尚は眼をひらくと、ぎろりと相手の顔を見直した。 「ふむ、わしは了然じゃが、あんたは?」  男はスーツケースをひらくと、中から一通の封筒を取り出し、その封筒の封を切って、なかから細かく折りたたんだ紙を出して和尚にわたした。それは手帳を引き裂いたようであった。和尚は不思議そうに手に取ると、 「金田一耕助君持参——」  と、読んで、すぐはっとしたように相手の顔を見直した。 「千万さんの筆じゃな!」  セルの男は黙ってうなずいた。 「金田一耕助というのがあんたのことかな」  セルの男はまたうなずいた。 「このあて名はわしと村長と医者の|村《むら》|瀬《せ》と三人連名になっとるようじゃが、わしがここでひらいてみてもええかな」 「どうぞ」  和尚は折りたたんだ紙をひらくと、薄い鉛筆の走り書きに眼をとおしていたが、読んでしまうとまたもとどおりに折りたたんで、 「その封筒をわしにおくれ。これはわしがあずかっておく」  和尚は紙片を封筒におさめると、ふところから大きな紙入れを出してあいだにはさんだ。それからゆっくりセルの男を振り返ると、 「つまりなんじゃな。あんたはしばらく、どこか静かなところで静養したい。それには獄門島こそおあつらえむきな場所じゃというので、本家の千万さんが、わしと村長の|荒《あら》|木《き》と、医者の村瀬を紹介してよこしたのじゃな」  セルの男はうなずいたが、 「どうでしょう、ごやっかいになれましょうか。米なら多少用意していますが……」 「いや、そんなことはどうでもええ。いかに島が不自由じゃて、おまえさんひとりの食い|扶《ぶ》|持《ち》ぐらいどうにでもなる。ほかならぬ本家の紹介じゃて、だれもほっておきはせん。好きなだけ|御逗留《ごとうりゅう》なされ。じゃが……しかし、金田一さん」 「はい」 「本家はどうしたのじゃ。いや、|鬼《き》|頭《とう》|千《ち》|万《ま》|太《た》はどうしてかえってこんのじゃ」 「き、鬼頭君は……」  セルの男は少しどもった。どもったきりことばがとだえた。 「戦死なされたのでござりますか」  竹蔵がおびえたようにおずおず横から口を出した。 「いや、戦死ではありません。終戦後も——ことしの八月まで生きていられたのです。それが、復員船のなかで……」 「死なれたのでござりますか」  セルの男は無言のままうなずいた。 「いずれ公報がありましょうが、ぼくは鬼頭君の依頼で、お知らせにいくところなんです」 「あれまあ、運の悪い。……」  竹蔵は|頓狂《とんきょう》な声でさけぶと、両手で頭をかかえてうなだれてしまった。しばらく三人は無言のまま、それぞれの視線のさきをぼんやりながめていたが、やがて和尚が吐き出すような調子でこういった。 「本家は死んで分家は助かる、これも是非ないことじゃ」  巡航船白竜丸は、白い|水《み》|尾《お》をあとにひきながら、単調な音を立てて走っている。瀬戸内海の水は|碧《あお》く、おだやかに澄んでいるが、波のうねりに、あらしのちかいのを思わせるものがある。おりおり遠く、ドカーンと物の爆発するような音がきこえた。      第一章 ゴーゴンの三姉妹  金田一耕助。——もし諸君が「本陣殺人事件」を読んでいてくだされば、この男がどういう人物であるか御存じのはずである。  金田一耕助が岡山県の農村の、旧本陣一家で起こったあの不思議な殺人事件のなぞを解いたのは、昭和十二年のことであり、当時かれは二十五、六歳の青年だった。その後かれはなにをしていたか。——なにもしなかったのである。日本のほかの青年と同じように、かれもまたこんどの戦争にかりたてられ、人生でいちばん大事な期間を空白で過ごしてきたのである。  最初の二年間かれは大陸にいた。それから南の島から島へと送られて、終戦のときにはニューギニアのウエワクにいた。  この一戦で部隊は全滅にひとしい打撃をうけて敗走した。その後、他の部隊と合流して、部隊の編成替えがあったが、そのとき、いっしょになったのが鬼頭千万太であった。鬼頭は、かれより四つ若かったが、かれもまた昭和十年に学校を出ると、すぐ大陸へ持っていかれ、耕助と同じようなコースをたどって、ニューギニアまでやってきたのであった。  東北生まれの金田一耕助と、瀬戸内海生まれの鬼頭千万太とは、どういうものかうまが合った。  かれらはいつも行動をともにしていた。鬼頭千万太は一度かなりひどいマラリアにやられたことがあって、どうかするとそれが再発した。そんな場合いつもつききりで介抱してやるのが金田一耕助だった。  昭和十八年以来そこには一度も戦闘はなかった。アメリカ軍はもう、そんじょそこらに残っている小部隊には眼もくれず、大きく飛躍していたのである。こうして敵の後方ふかく取り残された耕助たちは、友軍との連絡もなく、希望のない、|暗《あん》|澹《たん》たる日々を雑草とたたかってくらした。  そうしているうちに戦友は、熱病と栄養失調とで続々とたおれていった。補充のつかぬ前線では、ひとり死ねばひとり減る。  部隊はしだいに残り少なとなり、生き残った連中はいよいよ絶望感にむしばまれていった。軍服も|軍《ぐん》|靴《か》ももうボロボロになっており、だれもかれも島の|俊寛《しゅんかん》といったていたらくだった。  そこへ終戦が来たのである。  金田一耕助はいまでも不思議でならないのだが、そのときの鬼頭千万太の異様なよろこび。これで生きてかえれる! と、絶叫したあの男の、なにかしら肩の重荷をおろしたような、暗い密室から解放されたようないきいきとした歓喜。それはあまりにも極端で、あまりにも異常だったのである。  だれしも終戦をよろこばぬものはなかった。また、だれしも|蛆《うじ》|虫《むし》のように死んでいくことに|嫌《けん》|悪《お》を感じないものはなかった。しかし、鬼頭千万太ほど深刻に死を恐れる男はほかになかったのである。マラリアが再発するごとに、子どもが|闇《やみ》におびえるように、かれは死のかげにおののいた。体も大きくがっしりとして、気性も強く、ほかのあらゆることに対しては、だれよりも勇敢だったこの男にしては、それはたしかに不自然だった。あまりにも強い、露骨なこの男の生への執着には、どこか無気味なところさえあった。それにもかかわらずこの男は死んだ。しかもあと五、六日で故国の土を踏めるという、復員船のなかで……。そして、そしていま金田一耕助は、かれの死を遺族のものに伝えようと、獄門島へ向かっているのである。  金田一耕助は思い出す。かれはここへ来るまえに、パトロンの久保銀造(「本陣殺人事件」参照)のところへ立ち寄ったが、そのとき銀造はつぎのようなことをいったのである。 「耕さん、あんたが獄門島へ行くのは、ただ戦友の死を伝えるためだけかな。それならばよいが。……もし、そのほかにあんたがなにか目的を持っているのなら、なにか心に、いだいていることがあるのなら、わしはあんたを、引き止めたいと思うよ。獄門島って耕さん、あそこはいやな島だよ。恐ろしい島だよ。耕さん、あんたはあそこへなにしにいくのかね」  金田一耕助を理解することもっとも深い銀造はそういって、気遣わしそうに、探るようにかれの顔色をうかがっていた。…… 「夏草やつわものどもが夢の跡——じゃな」 「え、なに、なにかおっしゃいましたか」  和尚の声にふと|瞑《めい》|想《そう》をやぶられた耕助は、あわててそう尋ねた。和尚は窓によりかかって、碧くないだ海路はるかに眼をやりながら、 「なに、あの音よ」 「あの音……?」  耕助がききかえしたとき、はるか遠くで、また、ドカーンと爆発するような音が空にひびきわたった。 「ああ、あれ、……機雷を爆破しているんですね」 「遠くのやつは機雷、ちかくのやつは、ほら、向こうに見えるあの島の、軍事施設をこわしているのじゃ。まったくつわものどもが夢の跡じゃな。|芭蕉《ばしょう》のおきなに見せたいて」  変なところで芭蕉がとび出したので、耕助があきれたように和尚の横顔を見ていると、和尚もこちらへ向きなおった。 「このへんはまだええほうで、ここから西へ行くと、|呉《くれ》がちかいだけに、島という島は穴ぼこだらけで、まるで、|蜂《はち》の|巣《す》じゃそうな。どこかの島では毒ガスを秘密につくっていたそうなが、いまになってその毒ガスの始末に手を焼いているちゅう話じゃ。わしらの島にも、防空監視所たら、高射砲陣地たらいうもんができてな、兵隊が五十人ほど入りこんで来よったが、そいつらが山をほじくりまわして穴ぼこだらけにしおった。それはまあええとして、戦争がすむと後始末もしおらんで、さっさと引きあげていきおったで、どだいしまつにおえん。国破れて、山河ありというが、これじゃ国破れて山河形容を改むるじゃな。——ほら、あれが獄門島じゃ」  金田一耕助は、そのとき白竜丸の窓から見た、獄門島の光景を、ずっと後にいたるまで忘れることができなかった。瀬戸内海は半分晴れて半分曇っていた。そこから西へかけては、秋空高く澄んで、|西《にし》|陽《び》にかがやきわたっているのに、獄門島の上空から東へかけては、鉛の粉をなすったように、|陰《いん》|鬱《うつ》な雲がおもっくるしく垂れさがっていた。獄門島はそういう空を背景に、海上から|屹《きつ》|然《ぜん》とそびえ立ち、おりからの西陽をうけてかっと輝きわたっていたのである。いったいこのへんの島々は、瀬戸内海が陥没するまえは、山のてっぺんだったらしい。だからどの島も平地というものがいたって少なく、海岸線からいきなり、|崖《がけ》がそびえ立つようなところは珍しくなかったが、獄門島はことにそれが極端であった。全体として、それほど高い山はなかったけれど、島そのものがいきなり海から躍り出したように、数十|丈《じょう》の|断《だん》|崖《がい》が島をめぐってつらなっているのである。そしてその崖のうえから、赤松におおわれた丘が|摺《すり》|鉢《ばち》を伏せたように盛りあがっており、その丘の中腹に点々として白壁の家が見える。それらの白壁の家は、いまにも襲いかかってきそうな|暗《あん》|澹《たん》たる空のもとで、しかも西陽にかっと照り映えている。金田一耕助はなぜかその光景が島全体の運命を暗示しているように思われて、冷たい|戦《せん》|慄《りつ》が背筋をつらぬいて走るのを禁じえなかったのである。 「ほら、あの高いところに見えるのがわしの寺じゃ。それからその下に、大きな白壁の家が見えるじゃろ。あれがこれから、おまえさんの訪ねていこうという鬼頭の本家じゃ」  和尚は窓から指さして教えたが、ちょうどそのとき巡航船が、大きく崖を曲がったので、それらの寺や家々は、すぐ一同の視界からかくれてしまった。崖を曲がると、そこにやや|平《へい》|坦《たん》な入り江があらわれ、ゆるやかな起伏のあちこちに、漁師の|苫《とま》|屋《や》が散在しているのが見えた。入り江の奥から一|艘《そう》の舟が、ゆったりとこちらのほうへ|漕《こ》ぎ寄せてきた。|回《かい》|漕《そう》|店《てん》からの迎えの舟なのである。まえにもいったように、このへんの島々は、平地というものがいたって少なく、わずか三十五トンの小蒸気船でさえ横着けになることは困難なので、どの島にも小さな回漕店があり、それが沖の巡航船まで客を送り迎えするのである。  |艀《はしけ》はちょうどよい時刻に、沖の巡航船までたどりついた。 「和尚さんおかえりなさい。おや、竹蔵さん、おまえもいっしょか。吉本さん、この荷物をな、白石の志村までとどけておくんさらんか。それからついでに美代ちゃんによろしくいってな。はっはっは」  三人が艀に乗ると、巡航船はすぐ方向転換をして、ポ、ポ、ポーと、蒸気の輪を空中に吐き出しながら、なごやかな海面をきって遠ざかっていった。そのあおりをくらいながら艀はゆっくり漕ぎもどしていく。 「和尚さん、そのお客さんはおまえさんのところへおいでンなったのかな」 「ああ、この方かな。この方は本鬼頭のお客さんじゃが、しばらく島に|御逗留《ごとうりゅう》じゃ、心安くしてあげておくれ」 「さようで、それはまあ……ときに、和尚さん、|吊《つ》り|鐘《がね》はどうなりました」 「吊り鐘か、吊り鐘はもらい下げることにしてきた。いずれ二、三日うちに、若いもんに取りにいってもらうつもりじゃが、そのときにはよろしく頼みますぞ。なんしろ重いもんじゃで、またひと騒ぎじゃ」 「それはお安い御用でござりますが、ほんにやっかいなことでござりますな。こんなことならはじめから、出せといわなきゃあええに」 「まあ、そう言うたもんでもない。|戦《いくさ》に負けると、なにもかもちぐはぐじゃで」 「ほんに。……へえ、着きました」  艀が|桟《さん》|橋《ばし》に着くころから、獄門島はすっかり雨雲におおわれて、はや、二つ三つ大粒の雨が落ちてきた。 「和尚さん、あんたは運がええ。ちょうどじゃった。もうちっと遅れると、ずぶぬれになるところでござりました」 「ほんに、こりゃ本降りになりそうじゃな」  桟橋へあがると、道はすぐ|爪《つま》|先《さき》あがりになっている。 「竹蔵」 「へえ」 「おまえすまんがひとあしさきに本家へ行ってな、和尚がお客人をつれていくと言うてきてくれんか」 「へえ。ようござりますとも」 「ああ、それから村長と村瀬んとこへ寄って、本家へ来てくれるように言うておくれ、和尚のことづけじゃと言うてな」 「へえへえ、承知いたしました」  竹蔵が小走りに走っていくあとから、ふたりも足を急がせた。そのへんにいあわせた人たちも、途中で出会った連中も、和尚を見るとみんなていねいに頭をさげてあいさつをする。それからそのあとで、不思議そうに金田一耕助のうしろ姿を見送った。  諸君がもし、こういう島へ入ったら、|僧《そう》|侶《りょ》の勢力というものが、いかに強大なものであるかを知られ、おそらく一驚せずにはいられないだろう。|板《いた》|子《こ》一枚下は地獄の漁師たちにとっては、信仰は絶対的なものであり、その信仰を支配する僧侶は、|生《せい》|殺《さつ》|与《よ》|奪《だつ》の権を握っているも同然だった。こういう島では、村長さえ、お寺の坊主に頭があがらなかった。小学校の校長のごときは、しばしば坊主の|好《こう》|悪《お》によって、任免されるのであった。  漁師村を出外れると、道は急にけわしくなる。その坂のつづら折れを登っていくと、そこに広大な屋敷があった。下から見ると、それはまるで小さな城郭のように見える。坂から谷へかけて、|花《か》|崗《こう》|岩《がん》の|石《いし》|垣《がき》が長く高く築きあげられ、そのうえに腰板をはった白壁の|長《なが》|屋《や》|塀《べい》がずらりとつづいている。塀のうちには|幾《いく》|棟《むね》にもわかれた|瓦屋根《かわらやね》が、複雑な|勾《こう》|配《ばい》をつくってそびえていた。これが獄門島の主権者、網元の鬼頭家なのである。  和尚と金田一耕助の二人が、その長屋門に差しかかったとき、向こうからあたふたと駆け着けてきた男があった。古い、色の変わった|山《やま》|高《たか》帽子をかぶって、二重回しの|袖《そで》をこうもりのようにひらひらさせながら、|白《しろ》|足《た》|袋《び》をはいた足で、小石をけとばすように走ってくる。 「ああ、和尚、いま竹蔵の使いがあったものじゃで……」 「|幸《こう》|庵《あん》さん……話はなかへ入ってしよう」  その男は、鉄縁の眼鏡をかけ、どじょうひげと|山《や》|羊《ぎ》ひげがだらしなくひんまがっている。大急ぎで着換えたと見え、二重回しの下は、|紋《もん》|付《つ》きの|羽織袴《はおりはかま》であるらしかった。年配は五十五、六、金田一耕助は和尚のいまのことばによって、これが島の漢方医、村瀬幸庵であることを知っていた。  トンネルのような長屋門を入っていくと、そこに改めて、広い、りっぱな玄関がある。三人がその玄関へ入っていくと、足音をきいて奥から走り出た女が、大きな|衝《つい》|立《たて》のまえに手をつかえたが、金田一耕助は、そのとたん、思わず大きく眼をみはった。この不吉な名を持った島の、しかも古めかしい網元の屋敷に、こんな美しい人がいようとは、夢にも思いもうけなかったからである。  その人、年齢は二十二、三か、パーマをかけた髪をふっさりと肩に波打たせ、ゆるく仕立てた焦茶色のスーツを着ている。ただそれだけで、装飾といえば白いブラウスの|襟《えり》にむすんだ、細いリボンの赤がひと筋。 「いらっしゃいませ」  手をつかえて見上げた|瞳《ひとみ》に、深い|愛嬌《あいきょう》をたたえている。ふっくらとした|頬《ほお》に、大きなえくぼのあるのも温かみのある感じだった。 「早苗さん、お客さんを御案内してきた。娘たちはうちにいるか」 「はい、奥に……」 「そうか、じゃあがろう。金田一さん、さあおあがり、幸庵さん、いまに村長も来るはずじゃで、奥へ|行《い》て待つことにしよう」  和尚はまるで自分の家のように、先に立って式台のうえにあがった。娘はけげんそうに耕助のほうを見たが、そこで耕助の視線に会うと、燃えるように頬を染めながら、和尚の手から急いで道行きを受け取った。 「和尚、それにしてもいったいなんの用じゃ。大急ぎで本家へ来いというものじゃで、わけもわからず駆け着けてきたが、こちら、どういう|御《お》|人《ひと》じゃな」 「幸庵さん、あんた、竹蔵から聞きなさらなんだかな」 「いいや、なにも聞きゃせんがな。ただ、大急ぎで……」 「まあ、ええわな、奥へ行て話しよ。そうそう、早苗さん、さっき竹蔵から聞いたが、|一《ひとし》さん、達者じゃそうなな」 「はい、おかげさまで……」 「まあ、よかった。せめてそれで……ああ、村長が来たようじゃ」  村長の荒木|真《ま》|喜《き》|平《へい》という人は、漢方医の村瀬幸庵と同じ年輩だが、幸庵さんの|鶴《つる》のようにやせているのに反してこれはまた、背の低い、ずんぐりとした、太いというより横に平たい感じの男で、これはまた大急ぎで着換えてきたとみえて、古ぼけたモーニングを着ている。 「和尚さん、なにか急用じゃそうなが」  さすが村長だけあって、ゆったりとした口の|利《き》きかただった。 「うむ、あんたの来るのを待っていた。さあ奥へ行こう」  村長が靴をぬいであがったとたん、突然、盆をひっくりかえしたように、さあッと滝のような雨が玄関先に落ちてきた。 「ほほう。こら、ひどい雨じゃ」  漢方医の幸庵さんがどじょうひげをひねりながらつぶやいた。  同じ雨は一同のとおっていく縁のそとにも降っていて、広い庭は太い氷柱を立てつらねたように真っ白になっている。一同は間もなく、奥の十畳へとおされた。 「早苗さん、ここはええでな。娘たちになるべく早くこっちへ来るように言うておくれ。どうせお化粧にひまがかかるじゃろが、はっはっは。さあみんなお座り。えろう暗いな。幸庵さん、電気をひねったらどうじゃな」  電気がついたとたん、耕助は床の間にかかっている二つの写真に眼をとめた。どちらも軍服姿の若者だったが、ひとりはたしかに復員船の中で死んだ鬼頭千万太である。してみるともう一人のほうは、さっきから問題になっている分家の一という青年であろうか。|面《おも》|差《ざ》しがどっか早苗に似ているところを見ると、どうやら二人は兄妹らしい。 「さて……と」  和尚は座がきまると、村長と漢方医の顔を見くらべながら、 「あんたがたに来てもろうたのはほかでもない。こちら金田一さんちゅうてな、千万さんの戦友じゃげな」  ほほうというように山羊ひげが、ぎろりと耕助を見直した。村長はだまって口をへの字なりに結んでいる。 「それで、千万さんからこういう手紙をことづかって来なさったのじゃが……」  村長と幸庵さんは、かわるがわる紹介状に眼をとおすと、 「で……? 千万さんは?」 「死んだそうじゃよ。復員船のなかで……」  突然、幸庵さんはがっくり肩を落とした。山羊ひげがぶるぶるふるえた。村長はううんとうなると、への字なりに結んだ口が、おそろしくひんまがった。このときの三人の緊迫した沈黙を、耕助はその後長く忘れることができなかった。なにかしらそこには、骨を刺すような無気味なおびえと恐れがあった。眼に見える鬼気が、潮のようにみなぎりわたる感じであった。  縁の外には相変わらず、滝のような雨が落ちている。……と、そのときだった。 「早苗ちゃん、お客さん、こっちゃ?」  と、|蓮《はす》っ|葉《ぱ》な声がとおくのほうから筒抜けにきこえてきたかと思うと、どこかの障子をあける音がして、 「あら、こことちがうわ」 「向こうやわ。きっと、向こうの十畳よ」 「|雪《ゆき》|枝《え》ちゃん、お客さんてだれやろ」 「|鵜《う》|飼《かい》さんやない?」 「あほらしい、鵜飼さんなら玄関から来やはらへんわ、あの方、裏からそっと会いにきてくれやはるわ」 「だれに?」 「だれにて、わてにきまったるやないか」 「あほらし。あら、わてに会いにきてくれやはんねンし」 「姉ちゃん、待って、……わての帯、これでええのン」 「それでええのやないの。よう結べてあるわ」 「だって、わて、なんや|気色《きしょく》が悪いわ。|月《つき》|代《よ》姉ちゃん、ちょっと結び直してえ」 「花ちゃん、それでええ言うたら。ぐずぐずしてると、お客さん、かえってしまやはるわ。あら、雪枝ちゃん|狡《ずる》いわ、狡いわ、あんたひとりで先へいくのン」  がやがや、ばたばた、騒々しい声と足音がしだいにこっちへ近づいてくると、やがてそれはぴったりと、障子のかげにとまって、なにやらひそひそ話をしている。あんな人知らんなあとか、あんまりええ男じゃないとか、そんな声がとぎれとぎれにきこえて、くすくす忍び笑いの声がするので、さすがの耕助も赤面せざるをえなかった。  和尚は苦笑いしながら、 「これこれ、娘たち、なにをそこでごちゃごちゃ言うているんじゃ。早うこっちへ来て、お客さんにあいさつせんかい」 「わっ、きこえたア」  ひとしきりけらけらと笑いころげると、やがてひとりひとり取りすまして、座敷のなかへ入ってきたのは、|舞《まい》|妓《こ》のような|振《ふ》り|袖《そで》に、たかだかと帯をしめあげた三人の娘。敷居ぎわにべったり座って頭をさげたとき、髪にさした花かんざしが、幻のようにヒラヒラゆれた。  金田一耕助はそのとたん、いきをのんで思わず大きく眼をみはった。 「金田一さん。これが千万太の妹でな。月代、雪枝、花子——十八をかしらに三人年子じゃて」  この美しい、しかしどっか尋常でない、三輪の狂い咲きを眼のまえに見たとき、金田一耕助は、ゾーッと冷たい|戦《せん》|慄《りつ》が、背筋をつっ走るのを禁ずることができなかった。彼はいまはじめて、自分をここへつれてきた使命の、容易ならぬことを知ったのである。  むんむんするような復員船の熱気のなかで、腐った魚のように死んでいった鬼頭千万太。その千万太が、最後の呼吸とたたかいながら、あえぎあえぎ、くりかえしくりかえし言い残していったことば……。 「死にたくない。おれは……おれは……死にたくない。……おれがかえってやらないと、三人の妹たちが殺される……だが……だが……おれはもうだめだ。金田一君、おれの代わりに……おれの代わりに獄門島へ行ってくれ。……いつか渡した紹介状……金田一君、おれはいままで黙っていたが、ずっとまえから、きみがだれだか知っていた……本陣殺人事件……おれは新聞で読んでいた……獄門島……行ってくれ、おれの代わりに……三人の妹……おお、いとこが、……おれのいとこが……」  鬼頭千万太はそこまで言って、がっくり息が絶えてしまったのである。  臭い、煮えくりかえるような復員船の熱気のなかで……     太閤様の御臨終 「それで、|旦《だん》|那《な》は千光寺にいなさるんですね。寺ならまあのんきでようがしょうが、その代わり、さぞ不自由なこってしょう」 「そうでもないよ。不自由にゃ慣れてるからね。それにいまどき、どこへ行ったところでいいことはなさそうだから」 「ははははは、そういえばそんなものだ。あっしもこのあいだちょっと、大阪へ行ってきましたが、都会はひどうがすな。いまどき、まちがっても都会住まいをするもんじゃねえと、つくづく思いますよ」 「|親《おや》|方《かた》、|郷《く》|里《に》はどちらだね。島の生まれじゃなさそうだね」 「あっしですかい。あっしゃ渡り者。日本国じゅう歩いてまさあ。そンなかでもいちばん長くいたのが横浜だから、やっぱり東の人を見ると懐かしい。旦那はあっちの方でしょう」 「ぼくか。ぼくもきみと同じ渡り者さ。ニューギニアまで流れてきたからね」 「ちがいねえ。ははは、しかし、ありゃ戦争のためだからしかたがねえとして、やっぱり東京のほうでしょう」 「ふむ。兵隊にとられるまでは東京に住んでいたが、かえってみたらきれいさっぱり焼けていた。だから、当分こうして島から島へと流れて歩くつもりさね」 「けっこうな御身分——と、いいてえが、どっか体のぐあいでも悪いンですかい。見たところ、そのようでもねえが」 「別にどこって悪かあないがね。やっぱりしんがくたびれてるんだろうよ」 「そりゃ、ま、無理もありませんや。まったく馬鹿な戦争をしたもんで。——まあ、せいぜい寺を食いつぶしておやんなさい。なに、構うもんですか。旦那にゃ島一番の網元がついているんだから。ときに、わけますか」 「いや、そのままでいいんだ。そのまわりを少し短く刈ってもらえばいい」 「|蓼《たで》食う虫もすきずきということがあるが、こりゃたいへんな頭だな、|櫛《くし》も通らねえから驚く」 「まあそういうなよ。こうなるまでにゃ骨が折れたんだから。兵隊に行って丸坊主にされたときにゃ悲しかったね。毛を刈られた|緬《めん》|羊《よう》みたいで格好がつかなかった」 「ははははは、これだけ伸ばしときゃ、頭から|風《か》|邪《ぜ》をひく心配はねえ」  獄門島にたった一軒しかない床屋の親方の清公は、横浜に長くいたというだけあって、江戸弁が自慢らしかった。しかし、その江戸弁たるや、金田一耕助の東京弁同様、はなはだ怪しげなもので、多分にスフが入っている。しかし……と、ところどころ水銀のはげた鏡をにらみながら、耕助は考えるのである。自分は今日、そのつもりで来たのではないか、この清公をつかまえてきいてみれば、少しは島の様子がわかるのではないか。  耕助が島へ着いてから、もう十日あまりになるが、その間におけるかれの立場は、まことにへんてこなものであった。鬼頭千万太の添書があるから、どこへ行っても粗略にはされない。しかしそれはただ表面だけのことで、親切らしい、愛想のよいいたわりの底には、だれもかれもが堅い|鎧《よろい》で身をまもっている。むろんそれはこういう島へ入ってきた、他国人のだれもが、はじめのうちきっと一度は受ける感じであろうが、耕助にはその鎧の下に、なにかしら、ふつう一般の他国人に対する警戒を超えたものがあるように思えてならないのだ。  鬼頭千万太が死んだという事実は、電流のように獄門島をつらぬいて、いまそこに一種の恐慌状態をまき起こしている。だれもかれもが妙に不安な、落ち着かない顔つきをしている。それはちょうど物慣れた漁師たちが、水平線のかなたにうかんだ黒雲のなかから、暴風雨のにおいをかぎわけたときのように、どうにもならない運命の影におののいているようにも見えるのだ。  なぜそうなのだろう。鬼頭千万太の死がなぜそのように大きなパニックを巻き起こすのだろう。そして、かれらはなにをあのように不安そうに見まもっているのだろう。耕助はそのことと鬼頭千万太の臨終のことばを結びつけてみる。獄門島へ行ってくれ。……妹たちを助けてくれ。……妹たちが殺される。……いとこが……いとこが……。 「いったい、鬼頭さんというのは、よほどの物持ちかね」  頭を終わって、顔にかかった。耕助は、せっけんをなすりつける親方の指の気持ちわるさに顔をしかめながら、それでもことばだけは軽かった。 「そりゃもう、島の一番の網元ですからね。いや、この島ばかりじゃありますめえよ。ちかまわりの島で、あれくらいの網元ってのはほかにねえって話でさあ」 「網元ってものは、そんなにかせぐものかね」 「そりゃ、あなた、たいへんなもんでさあ」  網元について、床屋の清公の語るところによるとこうである。漁師にも三階級ある。いちばん下は船も網も持っていない。それこそ裸一貫の体がもとでの連中で、これは農村における小作に相当する。そしてこの階級がいちばん多いことはいうまでもない。そのつぎは船も網も持っているが、どちらもいたって小規模なやつで、せいぜい二、三人で打てる|打《うた》|瀬《せ》|網《あみ》、船もトロール船よりまだ小さい。そういう連中で、これは農村における自作農である。  さて、そのうえに君臨するのが網元で、これは農村でいうと大地主であり、しかもにらみの|利《き》くことは地主以上である。 「あっしゃまえに農村に住んでいたこともありますが、地主というやつもボロイもんでさあ、地主と小作の分けまえは、ところによって違ってますが、たいてい米の出来高の四分六分、つまり、地主はふところ手のくわえ|煙管《ぎせる》で、四分は自分のふところに入るんですからね。しかし、小作のほうでも裏作はまるどりということになってますから、これでいくらか助かるわけです。ところが網元と漁師の関係というものは、そんなもんじゃねえンで」  網元は船を持っている。網を持っている。漁業権を持っている。その代わりかれらはなにもしないで、漁獲の全部をふところに入れる。漁師は日当いくらというのがふつうだそうである。 「なるほど、それじゃ都会の資本家対労働者と、同じ関係なんだね」 「そうなんで。そりゃまあ。|大漁《たいりょう》のときにゃ振る舞いも出るし、祝儀も出ます。また、不漁のときだって、決まった日当は払わにゃならねえ。しかし、なんたって捕れたものを全部ふところへ入れるンだから大きゅうがす。漁師どもにしてみれば仕事に出るにも網元の船と網がなけりゃどうにもならねえわけだから、しぜん頭はあがりませんや。網ですか。いろいろありますね。|鯛《たい》|網《あみ》、|壺《つぼ》網、|鰯《いわし》網……鰯網たって、ここいらのは関東のような鰯を捕るンじゃなくて、いりこ[#「いりこ」に傍点]ってやつですな。とにかくそういう大仕掛けな網は、みんな網元が持ってるわけです。それに八|梃艪《ちょうろ》の二、三杯も持ってなきゃならねえ。だからもとでのかかってることもかかってますがね」  それに漁師ってやつが、|板《いた》|子《こ》一枚下は地獄の観念が去らないから、どうしても|刹《せつ》|那《な》主義的である。飲む、打つ、買うの三拍子、そこで前借ということになる。こうして漁村における網元対漁師の関係は、農村における地主対小作以上に、強い封建的な|絆《きずな》で結ばれているのがふつうなのである。 「その代わり網元のほうでも、よほどしっかりしていなきゃいけませんや。なにしろ相手が百姓とちがって、荒っぽい漁師ですからね。めんどうも見てやらなきゃならねえが、甘やかすのは禁物です。つまりにらみが利いてなきゃならねえわけで、そこへ行くと昨年亡くなった鬼頭の隠居、|嘉《か》|右衛《え》|門《もん》さんなんか偉いもんでしたね」  話題がやっと鬼頭家へめぐってきたので、耕助はいくらか緊張したが、しかし、口先だけは相変わらず軽かった。 「その嘉右衛門さんというのは、千万太君のお父さんかね」 「なに、|祖《じ》|父《い》さんでさ。去年七十八で死にましたが、元気なものでしたね。体は小さかったが、|肝《きも》ったまの大きな人で、いい旦那でしたよ。島では|太《たい》|閤《こう》さんといっていて、なかなか死にそうにはなかったが、やっぱり|戦《いくさ》に負けたンがこたえたんですかね。ポックリ往生しましたよ」 「それじゃ終戦後亡くなったんだね。それで千万太君の両親というのはどうしたんだね」  耕助のもっとも疑問とするところはそこだった。このあいだ、千万太の死を知らせにいったとき、座敷へ現われたのは月代、雪枝、花子という三姉妹と、早苗という娘、ほかに五十前後の、みっともない顔をした老婆が御飯のときちょっと顔を出したが、広い屋敷にはそれ以外、男気の感じられなかったのが不思議であった。千光寺の和尚も、 「ここに|逗留《とうりゅう》してもろうてもよいのだが、女ばかりの世帯だから……」  と、そういって耕助を、自分の寺へつれてかえったのである。 「千万さんのおふくろさんは、千万さんが生まれると間もなく亡くなったそうですよ。それで|後《のち》|添《ぞ》いをもらったんですが、このひともだいぶまえに亡くなりました」 「ああ、それじゃあの三人のお嬢さんは、千万太君とは腹ちがいなんだね」 「へえ、そうですよ」 「それで、千万太君のお父さんは……?」 「|与《よ》|三《さ》|松《まつ》の旦那ですかい。ええ、その人はまだ生きていますよ。生きていますが御病気でね。だれのまえへも出ねえんです」 「病気? どこが悪いんだね」 「どこってその……あまり大きな声じゃいえねえが、つまり、その……気が狂ってるんですね」  耕助は思わず大きく眼をみはった。 「気が狂ってる……それでどこかへ入院してるのかい」 「いえ、入院しちゃいません。あの家にいるんですよ。なんでも|座《ざ》|敷《しき》|牢《ろう》がこさえてあってその中に入れてあるそうですが、ええ、もう久しいもんです。かれこれ十年にもなりますねえ。あっしなんざ、もう顔も忘れっちまったくらいですからねえ」  それを聞いて耕助は、はじめて思い当たるところがあった。このあいだ、鬼頭家の座敷に座っているとき、かれは一度、ただならぬ叫び声を聞いたのである。それはまるで、野獣の|咆《ほう》|哮《こう》にも似た、あらあらしく、物狂おしい叫び声で、耕助もそれには少なからずどぎもを抜かれたものである。 「ふうむ、それでその気ちがいというのは暴れるのかい」 「いえ。ふだんはしごくおとなしいンですがね、どうかすると手に負えねえことがあるそうです。ところで妙なもンで、あそこに早苗さんという娘さんがいるでしょう。ありゃ気ちがいさんの|姪《めい》に当たるんですがね、これが一言二言声をかけると、ケロリと、おさまっちまうんです。それにひきかえ現在のわが子の娘たちが行くと、これがいよいよ手に負えなくなるンだそうですから、困ったもんでさあ」 「そりゃ……しかし、妙だね」 「なに、別に妙でもなんでもありませんや。あの三人の娘というのが……このほうがかえって妙でさあね。自分のおやじを、まるで動物園の|虎《とら》かライオンみたいに、おもちゃにしては喜んでるってしろものですからね。気ちがいさんの寝てるところを、格子の外から|物《もの》|差《さし》でつついたり、|紙礫《かみつぶて》を投げつけたり、それで三人、きゃっきゃっと喜んでるってえンですから、話を聞いただけでも気味が悪くなりまさあ。どうもあの娘たちは変ですぜ」  あの三人の変なことには、耕助もすでに気がついている。兄の死でさえがかれらにとっては、自分たちの髪の格好、帯の結びかたほども気にならないらしかった。和尚がまじめな話をしていても、うつむいてくすくす笑ったり、|袖《そで》をひっ張ったり、ひじで突っついたり、それで三人が三人ともきれいな娘であるだけに、いっそう不健全で病的で、見ているほうでも気持ちが悪くなるのだった。  これはたいへんな娘たちである。と、耕助は思った。ゴーゴンの三姉妹であると耕助は考えた。ゴーゴンとはギリシャ神話に出てくる怪物である。もとは美しい処女であったが、ミネルバと美をきそったがために、姉妹三人頭髪ことごとく|蛇《へび》となり、|鷲《わし》の羽と|真鍮《しんちゅう》の|爪《つめ》をもった怪物に化せられた。鬼頭家の三姉妹には、どこかそういう気味の悪い|妖《よう》|怪《かい》|味《み》が感じられるのだった。 「ところで、あの早苗さんというのは、千万太君の|従妹《いとこ》かい」 「へえ、そうです。あの人と、あの人の兄さんに一さんというのがありますがね。これはビルマへ行ったそうですが、幸い無事で、近くかえってくるそうですよ」 「ああその話ならぼくもきいた。戦友が知らせに来てくれたんだそうだね。ところで、あの人たちには両親はないのかい」 「早苗さんの親御さん……?」  それはうわさをするさえ|滑《こっ》|稽《けい》であると、いわぬばかりの親方のくちぶりだった。 「早苗さんの両親というのは、ずっと先に亡くなったらしい。あっしがここへ来てから、もう十二、三年になりますが、その時分もう、一さんも早苗さんも、本家のほうへ引きとられていましたからね。お父つぁんは、なんでも、海で死んだんだという話です」 「ふうむ、するとあの家にゃ、いまだれだれがいるんだい。気のちがっている御主人に、三人の娘と早苗さんと……それから五十くらいの婆さんがいるが、あれはだれだい」 「ああ、お|勝《かつ》つぁんですか。ありゃ去年亡くなった隠居の茶飲み友だち、まあ、ひらたくいえば|妾《めかけ》ですね。いまでこそああいうふうに見っともなくなっちまいましたが、あっしがここへ来たころにゃ、三十五、六の、ちょっと|渋《しぶ》|皮《かわ》のむけた|年《とし》|増《ま》でしたね」 「なるほど、するとあの家にいまいるのは、気の狂った御主人と、三人の娘さんと早苗さん、それにお勝さん……とそのお勝さんがみんなのめんどう見てるわけだね」 「なに、あのお勝つぁんが、ひとのめんどう見れるもんですか。ありゃあなた、気がいいばかりでなんの役にも立ちゃしません。そこをまた見こんで、隠居が手をつけたんでさあ。しっかりものの妾をもつと、あとはいざこざが残りやすい。嘉右衛門さんという人は、そんなことにもなかなか抜け目のない人でしたよ」 「ふうむ、するとあのお屋敷は、いったいだれがきりもりしているんだい」 「早苗さんですよ」 「早苗さん? だってきみ、あの人はまだ……」 「だから、みんな感心してるンでさ。偉いもんですよ。あの人は……年齢は二十二、三でしょうが、なかなかどうして、気性のしっかりした娘さんでね。荒くれ男を|屁《へ》とも思わねえ。もっとも仕事のほうは潮つくりの竹蔵さんがついていますがね」 「竹蔵さんてのは、こっちへ来る船でいっしょだったが、潮つくりというのはなんだね」  潮つくりというのは、すなわち潮の加減を見る役で、兵隊でいえば連隊長みたいなものであると、親方の清公は説明した。 「潮つくりの赤旗ひとつで船は動くんですからね。こいつの旗の振りかたが悪いと、第一、網がひろがりませんや。だからむずかしい役で、秘伝みたいなものがあって、網元の相場なども、よい潮つくりを持ってるかどうかで決まるといわれてます。だから網元でも潮つくりばかりは大事にします。竹蔵さんなんか、このへん切っての潮つくりといわれてますが、親の代から|本《ほん》鬼頭の出入りで、こればかりは|分《わけ》鬼頭がどんなに悔しがっても歯が立ちません」 「分鬼頭ってのがあるのかい」 「へえ、本鬼頭と分鬼頭、いまじゃこの二軒が島の網元なんです。せんには一軒|巴屋《ともえや》ってのがあったんですが、四、五年まえにつぶれっちまいましてね。ところでこの本鬼頭と分鬼頭、もとはといえば親類筋ですが、代々仲が悪くって、これがあるから嘉右衛門さまも安心して目をつむれなかったろうというこってす」 「なるほど」 「なンしろ、こっちは|肝《かん》|心《じん》の|息《むす》|子《こ》は気がちがってる。大事な孫は二人とも兵隊にいって、生死のほどもわからねえ。と、来てるンですから、太閤さんの御臨終で、|修《しゅ》|羅《ら》の|妄執《もうしゅう》晴れなかったろうという評判です」 「ははははは、きみはたいへんなことを知ってるね。するとさしずめ分鬼頭の御主人というのが、家康公というわけかい」 「そうです、そうです。しかもこの家康公には|淀《よど》|君《ぎみ》がついてるんだからたいへんだ。旦那の|儀《ぎ》|兵《へ》|衛《え》さんも儀兵衛さんだが、おかみさんのお|志《し》|保《お》さんというのがすごい」 「ああ、あのお志保さん」 「お会いになりましたか」 「ああ、ぼくが島へついたつぎの朝、千光寺へお参りにきたといってやってきたぜ」 「そうれ、そういう女です。あの女が、なに、寺参りなどする柄かい。千万さんの死んだということを、どこかできいたもンだから、あなたのところへ確かめに行ったにちがいねえ」 「そういえば、千万太君の臨終の模様を根掘り葉掘りきいてたね。しかし、そりゃア親類だから。……それにありゃ、ずいぶんきれいなひとだね」 「そこがそれ、淀君でさあね。あの女は、さっきもいったもう一軒の網元、巴屋の娘ですがね。これが千万さんにぞっこん|惚《ほ》れて嫁になるつもりでいたんでさあ、いや、一説によるとあの女の惚れてたなァ、千万さんじゃなくて、一さんだって話もありますが、そんなことはどっちだっていい。どっちにしたってそんな、つぶれそうな家の娘など、嘉右衛門さんが嫁にするもんですか。そこで、こいつ脈がないとみてとると、|阿《あ》|魔《ま》、本鬼頭とは敵同士の分鬼頭へ、さっさと嫁にいきゃアがった。ところで分鬼頭の旦那の儀兵衛さんというのは、今年六十いくつ、お志保さんはまだ二十七、八、三十にゃなってねえでしょう。もちろん|後《のち》|添《ぞ》いでさア。儀兵衛さんにゃ子がなくて、先のおかみさんの|甥《おい》を養子にしてたンですが、去年お志保さんに子どもが生まれるととうとう養子を追い出してしまいやアがった。いや、|外《げ》|面《めん》|如《にょ》|菩《ぼ》|薩《さつ》|内《ない》|心《しん》なんとかってのは、あの女のこってすぜ。旦那なども、だから、面がいいからって鼻毛をのばしてるてえと……」 「わかった、わかった、大いに警戒するからもう少しお手柔らかに願いたいね。そうゴシゴシこすられると痛くてたまらない……」 「へえ、痛うがすか、これで……?」 「痛うがすかじゃないよ。もう少しせっけんをはずんでおくれよ。ときに親方、鵜飼さんというのはだれだね」 「鵜飼さん?」  親方は急にかみそりの手をやすめると、うえから耕助の顔をのぞきこんだ。 「旦那はまた、いろんなことを知ってるンですね」 「いや、そういうわけじゃないけどさ」  耕助は内心ちょっと|狼《ろう》|狽《ばい》を感じたが、親方はしかし、それほど深く怪しんだわけでもなかったらしく、 「あの鵜飼って男ですがね、これがまたべらぼうな野郎で……やあ、いらっしゃい」  親方の声の調子がにわかに変わったので、耕助が薄眼をひらいてみると、入り口の腰障子のそばにだれかひとが立っているらしかった。 「いえ、もうすぐ終わります。ほかにどなたもお約束はありませんから、まあ、入って一服おすいなすって」  それから親方はとってつけたように、 「しばらくお眼にかかりませんでしたねえ、鵜飼さん、どこかお悪かったんですかい。お顔の色が悪うがすぜ。分鬼頭のおかみさんに、かわいがられすぎるんじゃありませんか。ははははは、こいつは、冗談だが……」  耕助は思わずピクリと体を起こすと、鏡のなかにうつっている、若い男と眼を見交わした。  鵜飼章三——この名は後に知ったのだが、——かれはまるで、|鏡花《きょうか》の小説にでも出てきそうな世にも美しい少年だった。     近づく足音  |爪《つま》|先《さき》あがりの道を、一歩一歩のぼっていくにしたがって、眼前の海がしだいにひろくなってくる。十月に入ってから、耕助にも海の色がすっかり変わったような気がする。今年は台風もなく、雨も少なかったので、海の澄みかたはまたひとしおだった。|広《ひろ》|重《しげ》の|藍《あい》をとかしたような瀬戸の内海は、潮の加減かところどころ、|蛇《じゃ》|紋《もん》のような|縞《しま》を織り出していて、そのあいだに、|塩《し》|飽《あく》諸島の島々が碁石のようにならんでいる。  耕助は学生時代、|鴎《おう》|外《がい》の「即興詩人」を読んで、イタリアの海の美しさに酔うたことがあるが、ちかごろ朝夕接する瀬戸内海の風景は、珠玉をつらねた鴎外の文章よりも美しいと思わずにはいられなかった。ただここにはアヌンチャタのような女はいない。マリアのような|可《か》|憐《れん》な女|乞《こ》|食《じき》もいない。さらに、アントニオのような美少年は……?  耕助は、そのとき、卒然として、いま会った鵜飼という少年のことを思い出した。水銀のはげた鏡のうえに、ものの|怪《け》のようにうつった|妖《あや》しいまでに美しい、少年の顔を思いうかべた。  その少年は、頭を短く刈っていた。生えぎわの美しさは、|白《おし》|粉《ろい》をつけた子役の額のように、|蒼《あお》くかすんで、におっていた。肌は白くて、上質の練り絹のような、おんもら[#「おんもら」に傍点]とした光沢を持っていた。|瞳《ひとみ》は、黒くて、ふかく澄んでいたが、その底に、なんとなく頼りなげなうったえを秘めている。鏡の中の耕助と、眼を見交わして、とっさに反らした瞳のなかには、|刹《せつ》|那《な》の動揺がひらめいた。あの眼つきなのである。あれが女の保護欲をそそるのである。  耕助はなんとなくため息をついた。そして一歩一歩、かみしめて味わうように、だらだら坂を踏みしめながら、いま見た少年のことを考える。  少年は|縞《しま》|物《もの》の|対《つい》の|羽《は》|織《おり》と|袷《あわせ》を着て、紫しぼりの|兵《へ》|児《こ》|帯《おび》をひろびろとしめていた。そういう姿がとんと|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》役者のようであったが、役者ほどの軽薄さはなかった。それは当人自身が、そういう姿にはじらいを感じているからであろう。まじまじと——それはけっして悪意でも|軽《けい》|蔑《べつ》でもなかったのだが——耕助に見つめられて、真っ赤になった少年の様子には、世にも切なげなはじらいの色があった。してみると、と、耕助は考える。ああいう役者のような姿も、当人自身の好みではないのだろう。当人の好みでないとすれば——そこで耕助は、さっき床屋の親方の、最後にいったことばを思い出した。そしてもう一度かれはほっとため息をついた。  この島へ来てから、おれはどうも驚かされることが多いようだ、と、耕助は考える。まず最初が早苗さんだ、と、耕助は指を折る。つぎにゴーゴンの三姉妹と、耕助はさらに指を折り、そのつぎが、寺へたずねてきた、お志保さんの、|臈《ろう》たき|年増女《としまおんな》の美しさだ、と、耕助は三本目の指を折る。そして今日のあの美少年。——と四本目の指を折った耕助は、さて、五本目にはどういう驚きが待ちうけているのだろうか。……と、そう考えた拍子に千万太の最後のあのことばが、また背柱をつらぬいて走る|戦《せん》|慄《りつ》とともに、頭のどこかでつぶやき出した。  島へ行ってくれ……獄門島へ行ってくれ……妹たちが殺される……いとこが……いとこが……  窒息しそうな復員船の一室である。耐えがたい熱気と臭気。|枯《こ》|痩《そう》しつくした千万太の顔、|苦《く》|悶《もん》、うわごと、すさまじい最後の嘆願。……  耕助は悪夢をふるい落とすように体をゆすって、それからぼんやり眼をあげた。ポンポンポンポン、眼の下の入り江に連絡船が入ってくる。このあいだ、耕助の乗ってきた白竜丸である。入り江から三、四|艘《そう》の小舟が、バラバラと|漕《こ》ぎ出した。小舟はすぐ白竜丸にとりついた。連絡船と小舟のあいだで、なにやら声高に応答しているらしいが、声までは聞こえなかった。やがて連絡船のなかからかつぎ出されたものを見て、耕助は思わず眼をみはった。  |吊《つ》り|鐘《がね》だった。 「ああ、吊り鐘がもどってきたな」  耕助は船着き場を眼で探してみたが、和尚の姿はどこにも見えなかった。そこでまた、かれは一歩一歩坂をのぼり出した。ほんとうをいうと、この道はちがっているのである。寺へまっすぐかえるつもりなら、床屋を出てから、左へ行くべきだった。それを右へとったのは、分鬼頭の屋敷がこっちにあるからである。  本鬼頭と分鬼頭とは、谷をへだてて向かいあっている。千光寺を|将棋《しょうぎ》の|駒《こま》の王将とすると両鬼頭家は飛車と角の位置にあたっていた。両家のまえを走っている二つの道は、いくうねりかした後に、やがて谷のいちばん奥で一つに合している。そしてそこからまた、つづら折れの道をのぼったところに、千光寺の高い、急な石段がそそり立っているのである。  お志保さんでも出ていないかな。——分鬼頭のまえへさしかかったとき、耕助は、わざと歩調をおとしてみたが、そうは問屋がおろさなかった。その代わりかれは、ゆっくり、屋敷の構えを見てとることができた。  |花《か》|崗《こう》|岩《がん》でたたんだ|崖《がけ》、腰板うった白壁の|塀《へい》、|長《なが》|屋《や》|門《もん》、すべてが本鬼頭と同じだが、規模の大きさにおいて、だいぶ劣るのは是非もない。塀のうちにそびえている、|紋瓦《もんがわら》の|勾《こう》|配《ばい》にも、本鬼頭ほどの雄大さはなかった。土蔵もそれほどたくさんはなさそうだった。  分鬼頭のまえをのぼると、道が急に右へ曲がっている。それをたどっていくと、また左へ道が曲がっているが、その曲がり個所にちょっとした台地があって、そこに立つと、眼下に付近の海面を見晴らすことができる。|天《てん》|狗《ぐ》の鼻と島の人がよんでいるところである。その台地にお|巡《まわ》りさんが、一人立って、双眼鏡で海のうえをながめていた。  耕助の足音をきくと、お巡りさんは双眼鏡を持ったまま、こちらのほうをふり返った。 「やあ!」  と、いうような微笑が、ひげだらけのお巡りさんの顔にひろがった。  島には、駐在所が一軒しかない。お巡りさんはひとりである。しかも、そのお巡りさんは陸上と水上の両警察を受け持って、モーター・ボートを一艘持っている。漁区の監視、漁期の注意、漁師の鑑札調べなど、島のお巡りさんは陸上よりもむしろ水上のほうに仕事が多いのである。獄門島のお巡りさんは、|清《し》|水《みず》さんといって、四十五、六のいつも無精ひげをはやした好人物である。耕助とはもうなじみになっていた。 「なにかありましたか、海のうえに……?」 「なにね、また、海賊が現われたから、警戒を厳重にしろと、電話でいってきたもんですからな」  清水さんはひげのなかから、白い歯を出してわらった。 「海賊——?」  耕助は思わず眼をみはったが、これまた、すぐにわらい出した。ちかごろ、瀬戸内海に海賊が現われるということは、久保銀造のところに滞在しているあいだに、耕助も新聞で読んだことがある。 「どうも、時代がだんだん逆行してきますね」 「歴史はめぐるですか、はっはっは、しかしこんどのやつはだいぶ大規模らしい。十数人の一団で、みんなピストルを持っているそうです。いずれ復員軍人の……」 「……は、ちと耳が痛いですな。ここにもひとりおりますからね」 「やあ、こいつは……どうです、一本」  海賊などどうでもよいと見えて、清水さんは、そこに腰をおろすと、ポケットから手巻き|煙草《た ば こ》を出してすすめた。 「いや、ぼくも持っていますから……そうですか。では一本……」  耕助も清水さんに並んで天狗の鼻に腰をおろした。 「散歩ですか。いや、散髪をしてきたんですね。すいてましたか。すいてたらわしもちょっと、行ってきてもよいのだが……」 「行ってらっしゃい。いま、鵜飼君がやってますが、もうじき終わるでしょう」 「鵜飼君——?」  清水さんは驚いたように耕助の顔を見直して、 「あんた、あの人物を御存じかな」 「いえ、いま会ったのがはじめてですよ。床屋の親方が、鵜飼さんといってたから、そういう名前だろうと思ったんです」  清水さんは無言のまま、煙草をくゆらしている。妙な|渋面《じゅうめん》をつくっているのは、煙が眼にしみたからであろうか。 「ありゃア、また、実にきれいな人物ですね。しんとんとろりとよい男——てンですからね、ありゃ……」  清水さんの渋面はいよいよ険しくなった。 「あれで、やっぱりこの島のもんですかね」  清水さんは黙って一本煙草を吸い終わると、吸い殻をていねいに靴先で踏みにじっておいて、それから改めて耕助のほうをふり返った。 「金田一さん、わたしはね、いま妙な予感を持っているんですよ。あなたがたにいうと笑われるかもしれんが、虫の知らせというやつですな。なにかいまに起こるんじゃないか、この獄門島に、恐ろしいことが起こるんじゃないか、そんな気がしてならないんです。たとえばあの鵜飼という男ですがね。あなたはいま、あいつを美少年とおっしゃった。なるほど美しいにはちがいないが、少年というのはどうですかな。あれで二十三か四になっているはずですからね。むろん、この島のもんじゃない。国は|但《たじ》|馬《ま》だとかききました。おやじは小学校の校長をしているというんだが、そんなこと、うそかほんとうか、わかったもんじゃない。ところで、但馬の国の人間が、どうしてこんな島へ来たかというと、戦争のためですよ。戦争があいつをここへ連れてきたんです」  清水さんはうしろを振り返って千光寺の背後にそびえている山を指さすと、 「あなたは、あの山に登ったことがありますか。まだなら一度のぼってごらんなさい。昔、あの山のてっぺんに海賊の|砦《とりで》があり、物見台があったそうで、いまでもところどころ|趾《あと》がのこっていますがね。ところが、歴史はくりかえすで、戦争中そこにまた物見台と砦ができた。防空監視所と高射砲陣地というやつですな。山中、|孔《あな》だらけにして、兵隊がおおぜいやってきた。鵜飼章三というのはそういう兵隊のひとりなんですよ」  耕助はにわかに興味を催した。あとを促すように無言のまま清水さんの顔を見ていると、清水さんはのどの|痰《たん》を切るような音をさせ、 「そうです。あいつあれでも兵隊だったんです。年齢は若いがあのとおり、骨の細い、|脾《ひ》|弱《よわ》そうなつくりだから、前線へは持っていかれなかったんですね。カーキ色の軍服を着ているのが、いたいたしいような兵隊で、……ところで、監視所や、高射砲陣地にいる兵隊は、いろんな物を徴発によく山を下って、部落へやってきたもんです。部落でも相手が兵隊さんだと思うから、できるだけの|便《べん》|宜《ぎ》をはかる。無理な注文もきいてやる。——で、はじめのうちはよかったんですが、戦争末期になると、兵隊のほうでもだんだんずうずうしくなってくる。戦局不利で多少やけ気味も手伝ったんでしょう。徴発というより半分略奪ですな。部落の連中もそうはよい顔ができなくなった。気の荒い漁師のことで、中には|激《げっ》|昂《こう》するやつも出てきます。そういう空気が山へ伝わったものか、兵隊のほうでも多少戦術をかえて、徴発の使者にはかならず、あの鵜飼章三をよこすようになったというわけです」 「なるほど」  耕助がうれしそうにがりがり頭をかきまわしたので、せっかく床屋の親方がきれいになでつけてくれた頭が、たちまちもとのとおり|雀《すずめ》の|巣《す》になった。 「つまり、平たくいえば色仕掛けで、御婦人連の歓心をかおうというわけですね」 「さよう、さよう。ところで兵隊どもの物資徴発の対象となるのは、なんといっても両鬼頭です。で、鵜飼章三がいちばんしげしげ出入りをしたのもこの御両家です。その時分、本鬼頭の嘉右衛門さんはまだ生きていたが、これがしっかりものだから、相手がたとい兵隊とはいえ、そう理不尽な要求に応ずる道理がない。にべもなくはねつけるんだが、すると、かげへまわってよろしくやるのが、あそこの三人娘というわけなんです」 「なるほど、隊長の作戦まんまと図に当たったというわけですな」 「当たったも当たったり、大当たり、しまいには鵜飼さんのおいでになるのを待ちかねて、三人のほうから山へ押しかけていったもんです。村ではいろいろ評判が立った。三人が三人とも鵜飼さんに、その、なんですな、してやられたというんですな。むろん、中にゃ、かりにも軍律きびしい兵隊である。そんな馬鹿なことのあるべきはずはないと、反対するものもありましたが、なに、それが隊長の命令であった。隊長の命令によって、鵜飼さんは、三人に、その、つまりけしからんことをしたというんですな。真偽のほどはわかりません。しかし終戦前後には、物資のみならず、かなりの金まであの三人が持ち出して、山へ運んだというのはほんとうらしい。隊長がそいつを握って、さっと復員してしまったというのも、これまたどうやらうそではないらしいんです」 「つまり、鵜飼君は道具に使われたというわけですね。ところであの男は復員しなかったんですか」 「むろん、復員しました。郷里の但馬へかえったんです。これで嘉右衛門さんもほっと|安《あん》|堵《ど》の胸をなでおろしたんですが、ひと月もたたないうちにまた舞いもどってきたんです。なんでも、郷里には継母がいて、とてもいたたまれないからといって、分鬼頭のほうを頼ってやってきたんです。本鬼頭の嘉右衛門さんが、卒中で倒れたのはそれから間もなくのことでしたよ」  清水さんはそこでぽっつりことばを切った。耕助も無言のまま、眼下の海を見下ろしている。なにかしら救いがたい重っくるしさが胸のうえにのしかかってきて、口をきくのも大儀であった。清水さんはまたことばをついで、 「亡くなった嘉右衛門さんは、太閤さんのような人でした。島じゅう、だれ一人、嘉右衛門さんに|楯《たて》つくものはなかった。ただ一人、分鬼頭のお志保さんをのぞいては……。鵜飼のおふくろが継母だというのはほんとうでしょう。その継母にいじめられるから、家にいづらいというのもうそじゃないかもしれない。しかし、それだからって、あの男が、分鬼頭を頼ってくる筋はひとつもない。また、あの男にそれだけのずうずうしさがあろうとは思えない。だから、復員するまえに、お志保さんが約束をしておいたか、あとから手紙で呼び寄せたか、どちらにしても、万事がお志保さんのほうから出ていることはいうまでもありますまい。あのとおり、役者のように着飾らせて、ただ遊ばしているところから見ても、お志保さんの目的はわかっている。隊長の故知にならって鵜飼を道具に使おうというんです。鵜飼を踊らせて、月、雪、花の三人娘を操って、本鬼頭の家を、めちゃめちゃにたたきつぶしてしまおうというのが、あの女の腹なんです。嘉右衛門さんもそれを知っていた。知っていたが、さりとてこればかりは苦情を持ち込むべき筋合いのものではない。いかに太閤さんでも、他人が他人の世話をするのを、いかぬというわけにはいきません。たといいかぬといったところで、すなおにきくようなお志保さんじゃない。思いあがった太閤さんも、朝鮮征伐ではじめて不可能にぶつかったが、嘉右衛門さんもお志保さんではじめて|加《か》|茂《も》川の水と、山法師と、さいころの目のほかにも、ままにならぬものがあることを知ったんです。それがあの人の卒中の原因だから、|修《しゅ》|羅《ら》の|苦《く》|患《げん》が思いやられますよ」  海は|蒼《そう》|茫《ぼう》として暮れかけている。風もにわかに冷たくなった。しかし清水さんと耕助はたがいに感染しあったように、ぶるると身をふるわせたのは、たそがれどきの風の冷たさが身にしみたせいではなかったろう。  獄門島の空をおおうている、|妖《よう》|気《き》をはらんだ黒雲の正体。——耕助はしだいにはっきりそれを見定めていく。するとかれの耳底には神経衰弱者の耳鳴りのように、ちかづく足音がひびいてくるのである。おどろおどろと、岩をかむ波の音のように、遠雷のとどろきのように……。  それから間もなく、清水さんにわかれて寺へかえってくると、|方丈《ほうじょう》には了然和尚をなかにはさんで、村長の荒木真喜平と、医者の村瀬幸庵さんが、重っくるしく押しだまったまま|鼎《かなえ》に座っていた。耕助の足音をきくと、 「ああ、金田一さん」  と、和尚が沈んだ声で呼んで、 「今日、とうとう公報が入ったそうな」  と村長のほうへ、あごをしゃくった。そのあとにつづいて、村長の荒木さんがこう付け加えた。 「あんたのおことばを疑うたわけじゃないが、やはり公報が入らんうちは、|一《いち》|縷《る》の望みにすがっていたい気持ちでいたが……」 「これで、なにもかもはっきりした。公葬は禁じられているにしても、とにかく一日も早く葬式を出したほうがええじゃろうな」  暗い顔をして、山羊ひげをふるわせたのは幸庵さんだった。  耕助はそのときふたたび、あの不吉な、おどろおどろと近づく足音を、耳鳴りのように感じたのである。     |臈《ろう》たき人  千光寺は山の中腹にある。いや、中腹というよりは、八合目にあたっている。千光寺を抱く山は、寺の背後より急に険しくなって、そこから東にある、島いちばんの高峰、|摺《すり》|鉢《ばち》|山《やま》につづいている。つまり千光寺は島の西側にあることになる。千光寺の|境《けい》|内《だい》に立つと、獄門島の部落を、ほぼ完全に|俯《ふ》|瞰《かん》することができる。つまり獄門島の全部落は、島の西側に集結していることになる。  いったい、こういう離れ島では、昔からつねにそなえなければならぬものがある。それは海賊の来襲である。だから、どの島へ行っても、いざといえばたちどころに集結できるように、部落は小ぢんまりと、ひとところに、背すりあわせて集まっているのである。獄門島もその例に|漏《も》れない。  千光寺の石段のうえに立って見ると、まず眼にうつるのは、右側に見える本鬼頭の屋敷である。うえから見るとこの屋敷は、|甍《いらか》の迷路のように見える。つぎからつぎへとつづく|瓦《かわら》の波は、内部の複雑な、非生産的な構造を思わせるに十分である。それでいて、どっしりと重量感をもっているのはさすがだった。 「なにしろ死んだ嘉右衛門さんというのが、|普《ふ》|請《しん》道楽だったからな。つぎからつぎへと建てまして、とうとう、あんなややこしい家にしてしもうた」  了然和尚があるときそういって、いちいち指して教えてくれた。 「あれが|母《おも》|屋《や》、あれが離れ|家《や》、あれが部屋、あれが土蔵、あれが魚蔵、あれが網蔵。あれが……」  それらの建物は、屋敷の背後にある谷の|勾《こう》|配《ばい》にしたがって、幾重にもかさなり合っている。ちょっと累々層々たる感じである。 「和尚さん、左の奥のほうの、いちだん高いところにある、あのこけらぶきの家。——あれはなんですか」 「うん、あれか、あれは、|祈《き》|祷《とう》|所《しょ》」 「祈祷所? 祈祷所たあなんです」  耕助が尋ねると、 「祈祷所は祈祷所だあね。だが、そのことはいつかまた話そう」  耕助はならんで立っている和尚の顔をふりかえった。苦いものでも吐き出すような和尚の口ぶりに、ちょっと、どぎもを抜かれたからである。  この祈祷所は、ほかの建物からはるかはなれた屋敷のすみの、いちだん高いところに、松の大木におおわれてたっている。屋根のこけの、風雨にうたれた黒さから見て、もうかなり古いものらしい。耕助はきっと、屋敷|稲《いな》|荷《り》といったふうなものであろうと思った。  さて本鬼頭と谷ひとつへだてた左側にはこれまた谷を背にして、分鬼頭の屋敷がある。うえから見てもこの家は、本鬼頭にくらべるとだいぶ落ちる。重量感においてもひどく見劣りがするし、累々層々たる感じからいえば、足下にもよれない。谷をへだててこの二軒が、背中合わせに立っているところは、うえから見ても、なんとなく暗示的だった。 「|木《き》|曾《そ》殿と背中あわせの寒さかなじゃな」  あるとき和尚は、この二軒を指さしてこんなことをいった。この和尚はときどき、突拍子もないときに、突拍子もない俳句を口ずさむくせがある。  さて、まえにもいったとおり、両鬼頭のまえを走っている二つの道は、やがて谷の奥でひとつに合している。そしてそこから改めてひとつの道が、つづら折れとなって、山の高所へむかっている。このつづら折れを下から幾曲がりかしていくと、何度目かの折れ目に、小さいお堂がひとつ建っている。|狐格子《きつねごうし》をのぞいてみると、中は二畳ぐらいの板敷きになっていて、その奥の白木の壇に、|唐《から》|子《こ》のような感じのする、えたいの知れぬ像がまつってある。格子のうえにかかげた額を見ると、|地《じ》|神《がみ》様。——  島にも百姓はいる。米は作らないが、|藷《いも》や野菜類をつくる。漁師も男は絶対に|鍬《くわ》はとらないけれど、女房連には畑をつくるものがある。だからやっぱり、地神様をおまつりする必要があるわけだ。この地神様をすぎて、幾曲がりかすると、やがて道がまっすぐになり、正面に見えるのが医王山千光寺の高い石段である。石段の下にはお定まりの|不許葷酒入山門《くんしゅさんもんにいるをゆるさず》の石ぶみ。石段は約五十段あって、そのうえに、山をきりひらいて千光寺が建っている。「医王山」と額のあがった山門を入ると、境内は思いのほかひろく、右側にまず|庫《く》|裏《り》がある。庫裏の玄関さきには|雲《うん》|板《ばん》がかかっていて、訪問客はこれをたたく趣向になっている。庫裏の左側、すなわち山門を入った正面に本堂があり、本堂につづいて左側に細長い禅堂が建っている。千光寺は|曹洞宗《そうとうしゅう》であるから、昔は奇特な|雲《うん》|水《すい》が、よく座禅を組みに来たということだが、ちかごろはせち辛くなったせいか、絶えてそういう|沙《さ》|汰《た》もなく禅堂も手持ち無沙汰のようである。  この禅堂と本堂をつなぐ渡り廊下のまえに、みごとな梅の古木がある。千光寺自慢の梅で、高さは渡り廊下の屋根をこえ、南にのびた枝は五間に達する。幹はひとかかえはあろう。周囲に|柵《さく》を設け、幹のそばには立て札が立ててあり、なにやら|曰《いわ》くが書いてあるらしいが、雨に打たれてくろずんで、耕助には一字も読めなかった。  さて、この寺にはいま三人の男が住んでいる。ひとりはいうまでもなく耕助だが、あとのふたりは和尚の了然さんと、|典《てん》|座《ぞ》の|了沢《りょうたく》君である。典座というのは|厨房《ちゅうぼう》をつかさどる僧のことだそうで、大きな寺にはこのほかに|知《し》|客《か》だの|知《ち》|浴《よく》だのと、いろいろむずかしい名前の役があるそうである。しかし、千光寺ぐらいの寺では、典座が湯殿もうけもてば、客の接待もやる。島の人々は了沢君のことを、|典《てん》|座《ぞ》さんとよんでいるが、耕助の耳にはそれがてんぞうさんと聞こえるので、はじめそういう名前かと思っていてわらわれた。  典座の了沢君は二十四、五である。色の|蒼《あお》|黒《ぐろ》い、やせこけた青年で、おそろしく無口である。蒼黒い顔に、眼玉をギロリと光らせているので、ここへ来た当座、耕助はすくなからず圧迫を感じた。あるいは自分という|闖入者《ちんにゅうしゃ》に敵意をふくんでいるのではあるまいかと恐れた。しかし、それは耕助の誤解であった。日をへるにしたがって耕助はこの若い僧がたいへん親切な、ゆきとどいた神経をもった人物であることに気がついた。かれが無口で無愛想なのは、敵意をふくんでいるのではなく、性来の内気のせいであることがわかった。了沢君が和尚につかえること、あたかも、子どもが慈父につかえるごときものがある。  了然和尚はこの了沢に、寺を譲るつもりらしい。いま|鶴《つる》|見《み》の|総《そう》|持《じ》|寺《じ》へ認可申請中だとのことである。本山から免許状みたいなものが来しだい、伝法の儀式をやるという。曹洞宗では温かい手から手へ法脈を伝えるといって、老師が生きているあいだに、弟子に法統をつがせるのだそうな。ちなみに、了然和尚は、|釈《しゃ》|迦《か》|牟《む》|尼《に》|仏《ぶつ》八十一代目の法弟だということである。そうすると了沢君はお釈迦様から八十二代目の仏弟子ということになるが、 「私のような修業の浅いものに、とても一寺をあずかる資格はありません。和尚さんはまだあのようにお元気だのに、どうしてそんなことを思い立たれたのか」  と、典座の了沢君は、かえってちかごろ、和尚をうらみ顔である。 「金田一さん、金田一さん」  その了沢君が|方丈《ほうじょう》から呼んだので、 「はあ。——お支度ができましたか」  と、耕助はのっそり立って書院を出た。方丈へ来てみると、了沢君はすでに|緋《ひ》の衣に|杢《もく》|蘭《らん》の|袈《け》|裟《さ》をかけて、すっかり支度ができていたが、了然さんは、まだ白い行衣のままで、足袋のこはぜをはめながら、 「金田一さん、あなたを使うてはすまんが、ちと、ひとはしり行ってきてくださらんか」 「はあ、どこへでも行きます。どこへ行くんですか」 「やっぱり分鬼頭のほうへも知らせておかんと、あとで角が立つようでも困るで。——儀兵衛さんは痛風で寝てるちゅう話じゃが、お志保さんでもええ。今夜の|通《つ》|夜《や》に出てくれるように、ひとくち言うて来てくださらんか」 「承知しました。お安い御用です」 「その足で、あんたは本鬼頭のほうへ行ってもらえばええ。わしもすぐに了沢といっしょに出かけるで。了沢や、|提灯《ちょうちん》を出しておあげ」 「和尚さん、提灯なんざ要りませんよ。まだ六時半にもなりませんよ。外は明るいから」 「いや、そうじゃない。分鬼頭へ行ったりしてると、もどりは暗うなる。山道は危ないで」 「そうですか。それじゃ拝借していきます」  何年にも提灯などさげて歩いたことのない耕助は、なんだか、|滑《こっ》|稽《けい》な気がしたが、和尚のせっかくの好意だから、いなむわけにはいかなかった。了沢君の出してくれた提灯をぶらさげて寺を出ると、なるほど、そろそろあたりは小暗くなりかけていた。  今日は十月五日、前にも述べたようなことがあってから、三日目のことである。  本鬼頭ではいよいよ、千万太戦病死の公報が入ったので、本葬を行なうことになり、今夜がお通夜だった。こういうとりしきりのいっさいは、千光寺の和尚と、村長の荒木真喜平と、医者の村瀬幸庵さんの三人が、相談のうえできめるのである。耕助はいまにして、かれの携えてきた千万太の紹介状のあて名が、なぜこの三人になっていたかわかるのである。この三人こそは、獄門島の三長老であり、本鬼頭にとっては三|奉行《ぶぎょう》であった。嘉右衛門隠居亡き後は、本鬼頭の大事は、すべてこの三人の合議によって決せられる。  石段をおりて、つづら折れを半分ほどくだったところで、耕助は、ばったりと、下からあがってきた男に会った。 「あ、お寺のお客さん、和尚さんは?」  四十五、六の小づくりの男であった。小づくりではあるが、筋金の入っていそうな体をした男で、|木《も》|綿《めん》の|紋《もん》|付《つ》きを着ていたが、|袴《はかま》ははいていなかった。どこかで見たような男だと思ったが、とっさのことで耕助には思い出されなかった。|風《ふう》|体《てい》からおして、鬼頭家からの迎えのものだと思ったので、 「お迎えですか。御苦労さま。和尚さんはいまお支度の最中です。すぐ見えるでしょう」 「そして、あなたは?」 「あちらのほうの鬼頭さんへ」 「分鬼頭へ?」  男はちょっと驚いたように|眉《まゆ》をひそめて、 「なにか御用で——?」 「和尚さんに頼まれて、今夜のお通夜のことを知らせにいくんです」 「和尚さんに頼まれて——?」  男はけげんそうに、いよいよ眉をひそめたが、すぐ思いなおしたように、 「それは御苦労さまで。では、またのちほど」  男はくるりと|踵《きびす》をかえすと、すたすたと坂をのぼっていった。そのうしろ姿を見送って、耕助ははじめて相手を思い出した。島へ来る途中、連絡船のなかで出会った男、床屋の親方の話によると、この辺きっての潮つくりといわれる竹蔵だった。  ああ、あの男か。あの男なら、もっとあいさつのしようがあったのに。——あまり姿がかわっていたので、すっかり見違えたのである。  つづら折れをおりきると、耕助は道を左へとった。かれはちょっと、心の騒ぐのをおぼえるのである。島へ来てから約二週間、本鬼頭のほうへちょくちょく出入りをしているが、分鬼頭へ足を踏み入れるのは、今日がはじめてである。  島の駐在所の清水さんは、昨日こんなことをいって注意してくれた。  こういう島へ入ったら、漁師相手の話にもよくよく気をつけなければならない。どこの漁村も同じことで、網元が二軒あれば二派、三軒あれば三派とわかれて、たがいに|鎬《しのぎ》をけずるものだが、この島では、網元同士とくに仲が悪いから、二派にわかれた漁師たちの、いがみあいもまた格別である。どっちをひいきにしても、どんなとばっちりをくらうか、知れたものじゃない。だから、私なんざ、当たらず触らず、中立を保っているんです。それから清水さんはまたこんなことをいった。本鬼頭の千万さんが死んだので、村長も幸庵さんも、青息吐息である。これで一さんの身に、もしものことがあってごらんなさい。天下は分鬼頭のものになる。そうなっちゃあのふたり、とてもただではすみません。なにしろ、あのふたりときたら、嘉右衛門さんの息がかかりすぎている。現に儀兵衛さんは、村長追い出しの下工作として、助役を手なずけているようである。また、県から学校出の医者をひっぱってくるという話もある。なにしろ都会があのとおりだし、引き揚げや復員で、よい医者がごろごろあまっていますからな。そこで和尚はどうなのかと耕助が尋ねると、和尚は大丈夫と、清水さんが語調を強めてこたえるには、和尚さんは大丈夫ですよ。和尚さんは網元以上です。網元が何軒あろうが、どんなにいがみあっていようが、島の信仰を|牛耳《ぎゅうじ》っている和尚は網元のうえに君臨している。村長や幸庵さんの首がつながっているのも、和尚の信用を博しているからである。和尚は島ではオールマイティーである。しかし他のものは、今後儀兵衛さんやお志保さんの鼻息をうかがわなければ、うまくやっていけないだろう。  その分鬼頭へ赴く耕助は、ちょっと敵地へ足を踏み入れる感じである。敵地——? いや、そんなことのあるべき道理はない。自分はどっちの鬼頭家にも、かくべつ因縁があるわけではない。だが、そのとたん耕助はまた、千万太の臨終の声を思い出し、すると、|忽《こつ》|然《ぜん》として、|潮《しお》|騒《さい》のような、遠雷のような、峰の松風のような、おどろおどろの物音を、耳底深くきくのである。 「はあ、あの、旦那さんはおやすみですが、あなたさまはどちらさまで——?」 「ぼくは千光寺にごやっかいになっている、金田一というものですが、和尚さんにことづけを頼まれて来たんです」 「あ、そう、少々お待ちなさいまし。奥さまにそう申し上げますから」  どうも少々変である。耕助ははじめて獄門島へ着いた日のことを思い出した。本鬼頭の玄関で、早苗に三つ指つかれたときも、耕助は少なからず面食らった。しかし、あのときは、面食らったとはいうものの、早苗の人柄からして、それはけっして不自然ではなかった。ところがいまの少女である。どう見ても三つ指つく柄ではなかった。舌たらずの標準語も、いかにもしゃべりにくそうで気の毒だった。お志保さんを奥さんというのも滑稽にひびいた。おかみさんでけっこうじゃないか。 「あら、いらっしゃいまし」  不意をつかれて耕助はどきりとした。この女は猫のように、足音もなく歩くすべを心得ているにちがいない。耕助が|瞳《ひとみ》を転じてふりかえったときには、女はすでに|衝《つい》|立《たて》の向こうに、一種のポーズをつくって|婉《えん》|然《ぜん》として立っていた。  お志保さんは美しい。まったく|臈《ろう》たきばかりの美しさである。顔が美しいのみならず、姿の美しいことも無類である。体の線に、なんともいえぬなよなよとした、やわらかなふくらみがある。耕助が思うのに、この女はあきらかに南国系ではない。秋田とか越後とか、とにかく北国系の美人が、京の水でみがきにみがかれたというタイプである。はじめて千光寺で会ったときも、耕助は驚きの眼をみはったものだが、いまこうして、ほの暗い古風な玄関の衝立の向こうに、婉然として立っているところを見ると、いまさらのように、|妖《あや》しい胸騒ぎを感じずにはいられなかった。  お志保さんは、|銀杏《いちょう》|返《がえ》しとも、|鬘下地《かつらしたじ》ともつかぬ、耕助などにはわからぬ髪の結い方をしていた。そしてまた着物や帯なども、これまた耕助などにはわからない、凝ったものであるらしかった。そういう姿で、衝立の向こうに立っているところは、とんと終戦後はやる、きものの本の口絵写真のように見えたことである。 「いらっしゃいまし」  お志保さんはもう一度いった。それから衝立のかげからすらりと出ると、ちょっと頭に手をやって、くずれるように、しかしたくみに体の線をたもちながら、ふんわりとそこへ座った。それからもう一度、 「いらっしゃいまし」  といって、瞳でわらいながら、 「和尚さんのことづけですって?」  と、小首を美しくかしげた。お志保さんは少し酔っているらしかった。  耕助はあわててつばをのんだ。それから、例のくせで、いくらかどもりながら、早口で和尚の口上をつたえた。どもったことで、耕助はいよいよあわてた。そこでがりがりともじゃもじゃ頭をかきまわした。戦争も、かれのくせを、|矯正《きょうせい》することはできなかったとみえるのである。 「まあ」  と、お志保さんは美しい眼を鈴のように張った。それからにっこりわらうと、 「そのことなら、昨日ちゃんと、本家から通知がありましたわ。でも、なにしろこちら、主人が寝ているものですから、——手がはなせないんですよ、気むずかしくって——」  それだのにお志保さんは酔っている。 「で、そのこと、昨日申し上げておいたはずなんですよ。いずれ主人がよくなりましたら、ごあいさつにお伺いしますって。和尚さんには、そのこと通じてなかったのでしょうか」 「ああ、そ、そうですか。じゃ、きっと、和尚さん、忘れたんですね。し、失礼しました」 「いいえ、こちらこそ。——でも、和尚さん、ひどいわねえ」 「はあ?」 「だって、あなたをお使いによこすなんて」 「なに、ぼ、ぼくはどうせ遊んでいるんですから」 「金田一さん」 「はあ」 「あなたは、これから本家へいらっしゃる?」 「ええ、行きます。なにか御用がありましたら——」 「いいえ、それじゃお引き留めできないわね。じゃまた、改めてお遊びにいらっしゃいな。あなた本家へちょくちょくいらっしゃるんでしょう?」 「ええ、行きます、千万太君の本があるから、借りにいくんです」 「こっちには本がありませんけれど、でも、なにかお相手はできますわ。たまにはいらっしてくださいよ。分鬼頭にだって、鬼や蛇が住んでいるわけじゃありませんのよ」 「はあ、いや、そんなわけじゃ——、じゃ失礼します」 「あら? そう、では和尚さんによろしく」  分鬼頭の長屋門を出たとき、耕助はわきの下にびっしょり汗をかいていた。玄関を出ようとするとき、奥からきこえてきた男たちの笑い声が、少なからずかれの自尊心を突き刺したのである。むろん、それは偶然だったろう。かれをわらったわけではなかったろう。しかし、それでも耕助は、いやあな気持ちを|払拭《ふっしょく》することはできなかった。その笑い声は酔っ払っていた。だから儀兵衛が痛風にしろ、痛風でないにしろ、少なくとも酒の相手はできるのである。ひょっとすると、自分も飲んでいるのかもしれない。——  寺へのぼるつづら折れまで引き返してきたとき、うえからおりてきた三人づれにばったり出会った。先頭に立った了沢君は提灯をともしていた。そのあとから、了然和尚と竹蔵が、話しながらついてきた。 「ああ、金田一さん、すまんすまん。分鬼頭へは本家から通知が行ってたんじゃそうな」 「はあ、御主人が御病気で、手がはなせないからというようなごあいさつでした」 「ああ、そう、まあええ、まあええ」  本鬼頭のまえまで来ると、死んだ嘉右衛門さんの|妾《めかけ》だったというお勝つぁんが、長屋門のまえに立って、うろうろあたりを見回していた。 「お勝つぁん、どうかしたんか。なにをうろうろしてるんじゃ」 「あ、竹蔵さん。花ちゃんを見やあしなかった?」 「花ちゃん。花ちゃんはさっきそこらをうろうろしてたがな」 「それが、急に見えなくなって。——和尚さん、いらっしゃいませ。さあさあどうぞ」 「お勝つぁんや。花子が見えんのかな」 「いえ、あの、ついさきまでそこらにいたんですが、——どうぞ奥へおいでになって」  竹蔵とお勝つぁんをそこに残して、三人が玄関へ入ると、奥からラジオがきこえてきた。兄のかえりを待ちわびて、早苗が復員便りをきいているのである。      第二章 にしき蛇のように  ちかごろでは、|田舎《いなか》でもお|通《つ》|夜《や》を文字どおりやるところは少ない。たいていは九時か十時、おそくとも十一時にはおひらきになる。本鬼頭のお通夜も、十時過ぎにはおひらきになったが、そのころにいたるも、花子の姿が見えないので、一同の不安はしだいに大きくなった。 「お勝さん、おまえさんが三人のお召し換えを手伝ったんだろ。そのときに花ちゃん、まだ家にいたんだね」  村長の荒木氏は、なにか心が騒ぐ|風《ふ》|情《ぜい》だった。 「ええ、ええ、いましたとも、花ちゃんをいちばんに着換えさせて、それから月代ちゃんや雪枝ちゃんのお手伝いをしたんです。ねえ、そうだったねえ」  月代と雪枝はこっくりとうなずいた。このふたりは片時もじっとしていない。|袂《たもと》をいじったり、|衣《え》|紋《もん》をつくろったり、かんざしを気にしたり、そして、しょっちゅう|肘《ひじ》でつつきあっては、うつむいてくすくすわらっている。お勝のことばに顔をあげてうなずくと、すぐまた、首をすくめてくすくすわらった。 「月代や雪枝は、それから花子がどこへ行ったか知らんのか」  和尚はにがにがしげに|眉《まゆ》をひそめている。 「わて? 知らんわ。あの|娘《こ》、いつもちょこちょこしてんのやもん。わて、きらいやわ」 「ほんまにあの娘、うるさいわ」 「お勝さん、それ何時ごろのことだな」 「さあ、夕方のことですが、——」  と、お勝つぁんはおどおどと首をかしげて、 「そうそう、わたしが着換えを手伝うているとき、早苗さんが向こうのお部屋で、ラジオをかけたが、まだ、ドードー・ニュースやったので、すぐスイッチを切ったようです」 「すると六時十五分ごろのことですね」  耕助がそばから口を出した。 「そのときには、花ちゃんはまだいっしょにいたのかね」  村長の荒木氏は、いよいよ不安が|昂《こう》じてくる模様である。 「さあ、なんでもその時分までいたように思いますが……」  はっきりわからないというのが、ほんとうのところらしかった。 「早苗さん、あんたは覚えておらんかな」 「あたし?」  黒地の、あっさりとしたツー・ピースを着た早苗は、月代や雪枝とはよい対照である。大きな、つぶらの眼をパッチリとひらくと、|下《しも》ぶくれの顔を少しななめにかしげて——そういうふうに上眼を使うと、まつげが驚くほど長い。しぜんにゆるくカールした髪が、肩のあたりに波打っているのもかわいかった。 「よく覚えていませんけど。——ええ、おばさんが向こうのお部屋で、みんなの着換えを手伝っていらしたわ。そのときはたしかに花ちゃんもいっしょだったわ。それからあたし、ラジオのことが気になったもんだから、茶の間へ行ってスイッチを入れたんです。そしたらまだ、労働ニュースがはじまったばかりのところだったので、スイッチを切ってかえってきたら、——そうそう、そのときには花ちゃん、たしかに見えませんでした」  してみると、花子が見えなくなったのは、六時十五分前後のことになる。いまはもう十時半、一同が心配するのも無理はなかった。 「とにかく、ここで評議をしてたってはじまらん。ひとつ心当たりを探してみたらどうでござります」  末席から、思いあまったように声をかけたのは、潮つくりの竹蔵だった。耕助はさっきから気がついていたのだけれど、こういう評議がはじまったころから、かれはなんとなく、そわそわと落ち着かなかった。 「心当たりって、竹蔵さん、おまえどこかに心当たりがあるのかな」 「いえ、そういうわけじゃござりませんが、ひょっとすると、分鬼頭のほうへでも——」  一同は思わずどきっとしたように眼を見交わしたが、そのときである。さっきからこっくりこっくり居眠りをしていた幸庵さんが、びっくりするほど、大きな|胴《どう》|間《ま》|声《ごえ》をはりあげた。 「分鬼頭の、あの色男なら、夕方、寺のほうへのぼっていったぞな」 「え? もし、幸庵さん、そりゃほんまでござりますか。もし、幸庵さん、幸庵さん、寝ちゃいけません。あの色男、ほんまに寺へあがっていきましたか」  ズブズブに酔っていても幸庵さん、|生《なま》|酔《よ》い本性たがわずである。竹蔵にひざをゆすぶられると、パッチリと眼をひらいて、 「おお、ほんまじゃとも。ここへ来る途中、つづら折れをのぼっていくのが見えたて。もっとも、もうそろそろ暗くなりかけてたから、はっきりわからなんだがの」  だらしなく、山羊ひげのよだれをふきながら、そして体をふらふらさせながら、これだけいうと幸庵さん、ふうっと|鯨《くじら》が潮を吹くように、酒臭い息を吐き出して、ごろりと横になってしまった。|羽《は》|織《おり》も|袴《はかま》もくちゃくちゃになるのを、いっこうおかまいなしである。 「ちぇっ、こんなになるまで、飲まなきゃええのに」 「まあええ、しかたがない、これがくせじゃで。しかし、村長、花子のことじゃが、ほっとくわけにもいかんじゃろ」 「お勝さん、花ちゃんはきょう、鵜飼という男と会う約束でもあったのかな」  村長はにがにがしげに眉をひそめた。 「さあ、そんなことわたし——月代ちゃんや雪枝ちゃん、あんたそんなこと知ってる?」 「わて知らんわ。鵜飼さんが花ちゃんと? あほらし、そんなことあらへんわ。ねえ、雪枝ちゃん」  月代はいかにも馬鹿らしそうに、そんなこと問題ではないという顔色である。 「わてら知らん。花ちゃん、うそばっかり吐いているわ。どっかの奥のほうで寝てんのやないの」  雪枝はいまいましげに下くちびるをつき出した。 「お勝さん、もう一度家の中を探してみたら?」 「さっきも探してみたんですが、——じゃ、もう一度探してみましょう」  お勝さん——勝野というのが正しい名前だそうだが、だれも彼女を、勝野さんなどと、もったいらしくよぶものはなかった。なるほど、よくよく見ると、これで昔は相当、美人だったにちがいないと思われる節がないでもないが、いまではもう、すっかり意気地がなくなっている。いつも眼に涙をためて、しょぼしょぼしたところは、どぶ|鼠《ねずみ》のような感じである。おそらく、十何年かの、精力絶倫の嘉右衛門隠居との|同《どう》|棲《せい》で、生理的にも、性格的にも、あらゆる活力を吸いとられてしまったのであろう。  お勝が立つと、 「あたしも探してみるわ」  早苗も席を立って、お勝のあとから出ていった。 「それでいよいよ、家の中におらんとすると、手分けをして探してみにゃならんが、竹蔵さん、あんた分鬼頭へ行ってくれるか」 「へい、行ってもようござりますが、わたしはちょっと——」 「ぐあいが悪いかな」 「あそこのおかみさんは苦手だなあ」 「了沢、それじゃおまえいっしょについていけ。竹蔵さん、了沢がいっしょならええじゃろ」 「へえ、了沢さんがついていってくれるなら——」 「私は村を探してみましょう」  村長はいった。 「幸庵さんの眼がさめるとええのじゃが、この調子じゃあてにならんな」  そのときだった。突然、奥のほうでけたたましい悲鳴のようなものがきこえた。たしかに、早苗の声らしかった。おりがおりだけに、一同はぎょっと腰をうかしかけたが、それにつづいてきこえてきた、床を踏み鳴らすような物音と、野獣のようなうなり声をきくと、かえって腰をおちつけて、 「ああ、今夜病人がえろう暴れるようじゃな」  和尚がつぶやいた。 「ええ、そうよ。今朝から気ちがいさん、とてもきげんが悪いわ」 「わてらがわきへ行くと、|猿《さる》みたいに歯をむき出しておこるわ、わてきらい、あんな気ちがい」  耕助はそれではじめて了解した。床屋の親方の話によると、千万太の父の与三松は、気が狂って、もう長いこと、|座《ざ》|敷《しき》|牢《ろう》にいるということである。その気ちがいがあばれ出したのだろう。|狼《おおかみ》の|遠《とお》|吠《ぼ》えのようなあらっぽい|咆《ほう》|哮《こう》と、がたぴしと格子をゆすぶる音をきいていると、耕助は心がさむざむと凍えると同時に、いまさらのように、この一家のうちにのしかかっている、暗い重圧を思わずにはいられなかった。  間もなくお勝がかえってきた。少しおくれて早苗も入ってきた。早苗の顔はすっかり血の気をうしなって、|円《つぶら》な眼が、ものにおびえたように大きく拡大していた。 「早苗さん、病人が悪いようじゃな」 「え——? ええ、そう、このごろなんだか気があらくなって。——おばさん、花ちゃんは?」  早苗の声は消え入りそうであった。顔の|蒼《あお》さや、妙におどおどした眼の色にも、尋常でないものがあった。ところで花子は結局どこにも見えなかったのである。一同の不安はいよいよ決定的なものになってきた。 「それじゃ、村長、あんたは村のほうを探しておくれ。竹蔵と了沢は、分鬼頭へ|行《い》て、鵜飼という男に会って、花ちゃんを見なんだかきいてみてくれ。わしは寺へかえってみる。まさか、いまごろ、寺にいるはずはないと思うが」 「和尚さん、ぼくにもなにか、できることはありませんか」  耕助が横から口を出した。 「金田一さん、あんたはわしといっしょに来ておくれ。——ああ、いや」  と、和尚は幸庵さんに眼をとめて、 「すまんがあんた、幸庵さんを送っていってやってくださらんか。これじゃどうも、途中が危ない」 「承知しました」  手くばりがきまって、一同が席を立ったのは、もうかれこれ十一時だった。表へ出ると、外はかなりの風である。空は真っ黒に曇っていた。長屋門を出ると、村長だけは一同に別れて坂を下っていった。ほかの五人はひとかたまりになって、坂をのぼっていったが、坂をのぼりきったところで、耕助だけは別れなければならなかった。幸庵さんの家は、そこから左へ行ったところにある。 「それじゃお客さん、すみませんがお願いいたします」  それまで幸庵さんをかついできた竹蔵が、耕助の肩へ酔っ払いを渡した。 「金田一さん、気をつけておいで、転ぶと危ないぞな」 「なに、大丈夫です」  幸庵さんの家は、そこから二町ほど行ったところにある。泥酔しているとはいえ、正気を失っているわけではなく、ひょろひょろしながらも、幸庵さんは、自分で歩く意志を持っているのだから、荷物のほうは大したことはなかったが、夜道の暗いのには耕助も弱った。うっかり|提灯《ちょうちん》を吹っ消されたら、|崖《がけ》から転げ落ちないものでもない。右に提灯、左に幸庵さんをかかえた耕助は、向かい風とたたかいながら、それでもやっと幸庵さんの家までたどりついた。 「あれまあ、旦那さんの——まあまあまあ」  幸庵さんは男やもめで、婆やとふたり暮らしである。その婆やの|仰山《ぎょうさん》に驚いたり、礼をいうのをきき流して、耕助はすぐに引き返した。風はしだいに吹きつのってくる。ひとりになると、波の音の高いのが、にわかに耳につき出した。空は墨を流したように真っ暗である。うしろから吹きつける風に追われるように、耕助は小走りに走っていた。  なにかある? いや、なにかあったにちがいない。この|闇《やみ》、この風——花子のような幼い娘が、こういう晩に、いまごろまで外で遊んでいるとは思えない。なにかある。いや、なにかあったのだ。——  耕助ははげしい胸騒ぎを感じながら、間もなく、さっき一同と別れた三つまたまで来た。そこを突っきって東へ進むと、暗い夜道の向こうにポッツリと提灯の灯が見えた。こっちへやってくるのは、どうやら竹蔵と了沢のふたりづれらしかった。  耕助は間もなく、あのつづら折れのふもとまで来た。そこで待っていると、向こうから来たのは果たして、竹蔵と了沢だった。 「どうでした。わかりましたか」 「いや、知らんというんで。——」 「鵜飼という人はいるんですか」 「へえ、もうさっき寝たといいます。起こしてもろて、話をきこうと思うたんですが、なにしろ剣もホロロのあいさつで。——」 「おかみさんが出てきたんですか」 「いいや、女中で——なんしろ私はあそこの家は鬼門なんで」  竹蔵は苦笑いをしていた。  潮つくりの名人竹蔵を、自己の陣営にひきこもうとして、お志保が躍起になっていることは、耕助もこのあいだ、床屋の親方からきいた。本鬼頭に義理を立てて、竹蔵はあくまでそれを突っぱねている。分鬼頭では儀兵衛もお志保も、それですっかりきげんを損じているのである。 「竹蔵さん、あんたこれからどうします」 「さあ、このままほうっておくわけにゃいきません。本家は女ばかりだから——早苗さんがかわいそうだ」  竹蔵はうめくようにいった。そして不安そうにガタガタ胴ぶるいをした。 「ああ、和尚さんがあそこへかえっていく」  いままで提灯をもったまま、黙ってふたりのそばにひかえていた了沢が、そのとき、ふっとつぶやいた。なるほど真っ暗なつづら折れのなかほどを、提灯がひとつ、ポッツリと宙に浮いたように歩いていく。それを見ると竹蔵は、急に心をきめたように、 「もう一度和尚さんに会うてみよう、わしゃどうしてよいかわかりませんで」 「それがいいでしょう。じゃ、いっしょに行きましょう」  三人は肩をならべて、つづら折れにさしかかった。さきへ行った提灯も、こちらに気がついたのか、提灯を高くさしあげて振ってみせた。耕助がそれにこたえて提灯をふると、向こうの提灯はまたぼつぼつと歩き出した。だれからともなく足をはやめて、三人はそれを追うていた。海から吹きつける風が、はげしく赤松の枝を鳴らして、西を向いて歩くときには、|面《おもて》もあげられないくらいだった。  ひと曲がり、ふた曲がり、三曲がり。——前を行く提灯は見えたりかくれたりする。三人が例の地神様のお堂をすぎたころには、まえの提灯はすでに石段にさしかかっていた。和尚は年寄りだから、この石段はかなり難儀なのである。ゆっくり登る和尚の体のかげになって、提灯が見えつかくれつした。三人が石段の下の一本道にさしかかったころ、和尚はやっと石段を登り切ったとみえて、提灯のあかりがふうっと見えなくなった。  ところが三人が石段の下までさしかかったときである。いったんかくれた提灯が、小走りに、また石段のうえに現われた。 「了沢、了沢」  和尚の声だった。なんとなく気ぜわしい呼び方だった。 「はあい!」  了沢が下から叫んだ。だが、和尚はなんにもいわずに、それきりまた山門のなかへひっこんでしまった。 「和尚さん、どうかなさったかな。ひどくあわてていなさったが」  耕助はふっとはげしい胸騒ぎを感じて、物もいわずにふたりの先に立って石段を駆け登っていた。耕助の気持ちが伝染したのか、了沢も竹蔵も、無言のまま耕助のあとについて駆け登った。  また、和尚が石段のうえに現われた。提灯を振りながら、 「了沢、了沢!」  こんどはまえより、いっそうあわてていた。声がうわずって、ふるえているようだった。 「はあい、和尚さん、なんでござります」 「金田一さんはいるか」 「はあい、金田一さんも竹蔵さんもいっしょでござります」 「なに、竹蔵? 竹蔵、はよ来てくれ、たいへんじゃ、たいへんじゃ」  和尚はまた山門のなかへ駆けこんだ。三人はふっと顔を見合わせたが、あとはいっきに、ものもいわずに駆け登った。  耕助がいちばんに、山門のなかへとびこむと、提灯の灯が禅堂のまえをうろうろしている。 「和尚さんどうなすったのです」 「おお、金田一さん、あれを見い、あれを見い」  金切り声をふるわせながら、和尚はたかだかと提灯をさしあげた。そのとたん、あとから来た了沢と竹蔵とが、きゃっと悲鳴をあげて立ちすくんだ。耕助は悲鳴こそあげなかったが、驚いたことは、かれらに劣らず驚いたのである。一瞬かれは、棒をのんだようにそこに立ちすくんでしまった。  本堂と禅堂をつなぐ渡り廊下のまえに、千光寺自慢の梅の古木があることは、まえにもいっておいたはずである。秋のことだから、むろん花もなく、葉も枯れていたが、南をさしたその枝から、世にも恐ろしいものがぶらさがっていたのである。  花子は自分のしめていた帯で、ひざのあたりをしばられていた。その帯の一端は、美しいにしき蛇のように梅の枝にからみつき、結びついている。すなわち花子は梅の枝から、彼女自身が怪奇なにしき蛇のように、まっさかさまに|吊《つ》るされているのである。彼女は眼をひらいている。くゎっと大きくひらいている。提灯のあかりを受けて、きらきらかがやくその|瞳《ひとみ》が、さかさまにじっと一同を凝視している。まるでみんなの驚きをあざわらうように。——  そのときどうっと、海から吹きつけて来る暗い風が、千光寺をとりまく森をざわざわと鳴らした。どこかで絹を裂くような、けたたましい鳥の声が、|暗《くら》|闇《やみ》の恐ろしさをつんざいた。そのとたん、さかさに吊るされた花子の体がゆさゆさ揺れて、がっくり解けた黒髪のさきが、からす蛇のように地をのたくった。和尚はあわててふところから|数《じゅ》|珠《ず》を取り出した。 「|南《な》|無《む》|釈《しゃ》|迦《か》|牟《む》|尼《に》|仏《ぶつ》、南無釈迦牟尼仏。——」  それからふかいため息とともに、口の中でなにやらもぐもぐつぶやいたが、このひとことが、のちのちまでも耕助の心のなかに強くのこったのである。  耕助の耳には、たしかにそれが、つぎのようにききとれたのであった。 「気ちがいじゃが仕方がない[#「気ちがいじゃが仕方がない」に傍点]。——」     てにをは[#「てにをは」に傍点]の問題 「気ちがいじゃが仕方がない。——」  いったいそれはどういう意味だろう。了然さんは犯人を知っているのだろうか。……耕助はどきっとした気持ちで、さぐるように和尚の顔を見たが、和尚は黙然として数珠をつまぐっている。  竹蔵も了沢も、毒気を抜かれたような顔をして、ただまじまじと、あのまがまがしい逆さづりのにしき蛇を見まもるばかり。風はいよいよ吹きつのってきて、寺を抱いた赤松林がものすさまじい音を立てている。花子の黒髪が、また、さやさやとからす蛇のように土のうえをのたくった。  耕助はようやく正気を取りもどした。と、同時に職業意識——と、いうよりも、持って生まれた|詮《せん》|索《さく》本能が、|猛《もう》|然《ぜん》として頭をもたげた。  提灯をかかげて死体の位置や、梅の枝にゆわいつけられた帯の結び方を、納得のいくまであらためると、そこではじめて竹蔵のほうをふりかえった。 「竹蔵さん、あんた、すまないが、幸庵さんを呼んできてくれませんか。もうたいがい、酔いもさめているでしょう」 「へえ」  竹蔵は夢からさめたように眼をこすった。それから和尚のほうをふりかえって、 「和尚さん」  と、声をかけた。  ところがそのときの和尚の様子というのがまことにどうも変てこであった。了然さんはそのとき、禅堂のほうをむいて立っていたのだが、竹蔵の声が耳にはいらないようであった。なにかしら、|茫《ぼう》|然《ぜん》たる眼つきであった。 「和尚さん、もし和尚さん」  竹蔵がかさねて声をかけると、そのとたん了然さんは、からんと音を立てて、手に持っていた重い|如《にょ》|意《い》をとりおとした。 「な、なんじゃな、竹蔵——」  了然さんはあわてて如意をひろいあげたが、なんとなく、声がふるえているようであった。 「金田一さんがああおっしゃりまするで、わたしはひとはしり、幸庵さんを呼びに|行《い》て参じます」 「ああ、ふむ、そのことか。……御苦労じゃが、それでは、行てきておくれ」  了然さんはあわててつばをのみこむと、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏と二度ばかり、口のなかでつぶやいた。 「それで……」  と、竹蔵はさぐるように和尚の顔をながめながら、 「本家のほうはどうしたものでござりましょう。知らせてやらいでも、ようござりますか」 「本家か……ああ、ふむ、それじゃ本家へも寄ってな、花子が見つかったということだけ、知らせてやってきておくれ。殺されたなどというな。金田一さんや」 「はあ。……」  耕助もさぐるように和尚の顔を見ていた。 「花子は……殺されたんじゃろな」 「それはそうでしょう。まさか……自殺とは見えませんからな」  耕助はわれにもなく笑いのこみあげてくるのを、あわてて奥歯でかみ殺すと、照れかくしに、がりがり頭をかきまわした。 「ああ、ふむ、それじゃて、じゃがな竹蔵、そのことはまだ本家にいうな。女ばかりじゃで、おびえるとかわいそうじゃ」 「さようでござります。それじゃひとはしり行て参じまする」 「ああ、ちょっと待て。……ついでに村長にも知らせてな、ここへ来てもろうておくれ。ときに金田一さんや、駐在所はどうしたもんじゃろ。知らせいでもよいかな」 「清水さんなら留守ですがね」 「留守……?」 「ええ笠岡の本署から召集がきたといって、ひる過ぎモーター・ボートに乗って出かけていきましたぜ。しかし、竹蔵さん」 「へえ」 「念のために、駐在所へもよってみてください。もし清水さんがかえっていたら、こっちへ来てくれるように」 「へえ承知しました。それじゃ和尚さん、行て参じます」  風はますます吹きつのってくる。裏山の赤松林が、物すごい音を立てて騒いでいる。その風のなかを竹蔵が、|弥《や》|次《じ》|郎《ろ》|兵《べ》|衛《え》のように|紋《もん》|付《つ》きの大手をひろげて、あたふたととび出していくと間もなく、ポツリポツリと大粒の雨が落ちてきた。とうとう風が雨を持ってきたのである。 「畜生ッ!」  耕助は暗い空を仰いで、いまいましそうに舌打ちした。 「金田一さん、どうかしたかな」 「雨が……」 「雨……? ああ、ふむ、本降りになりそうじゃな。じゃが、雨が降ると……?」 「朝まで降らなければいいと思っていたんです。降ると足跡がめちゃめちゃになってしまう」 「足跡……?」  和尚は急に気がついたように息をはずませた。 「すっかり忘れていた。金田一さん、ちょっとこっちへ来てみておくれ」 「はあなにか……」 「あんたに見てもらいたいものがあるで。了沢や、おまえもいっしょにおいで」 「和尚さん、この|死《し》|骸《がい》は……このままにしておいてもよろしゅうござりますか」  さっきから、石のように押しだまっていた了沢が、そのときはじめて、おずおずと口をひらいた。 「ああ、それ……金田一さん、どうしたもんじゃろ。おろしてもええかな」 「さあ。もうしばらくそのままにしておきましょう。清水さんがかえっているかもしれませんから」 「ああ、ふむ、そうじゃな。了沢や、花子はそのままにしておいて、おまえもこっちへ来てごらん」  おそろしい梅の古木のそばをはなれて、三人が玄関のまえまで来たときだった。|満《まん》を|持《じ》した弦を、切ってはなしたように、一時にどうっと太い雨が落ちてきた。 「畜生ッ!」  耕助はいまいましそうに空を仰いだ。 「ああ、ふむ、あいにくの雨じゃな。ところで金田一さん」  和尚は玄関の|廂《ひさし》の中へ駆けこみながら、 「さっきわしは、あんたがたより、ひとあしさきにかえってきたな。そのときわしはこの玄関から入ろうとしたのじゃが、ここはなかから戸締まりがしてあることを思い出した。そこで……こっちへおいで。足もとが危ないで、気をつけな」  軒づたいに横へまわると、うしろの|崖《がけ》とすれすれに、勝手口の戸があった。戸は少しあいていて、中は真っ暗だった。 「玄関が締まっていたで、わしはこっちへまわってきた。ところが、……ほら、ごらん」  和尚は提灯をさし出した。 「なんですか」 「|南京錠《ナンキンじょう》がねじ切ってあろうがな」  耕助と了沢のふたりは、思わずぎょっといきをのんだ。ねじ切られた南京錠は、勝手口の柱にぶちこんだ、|輪《わ》|釘《くぎ》に半分ひっかかってぶらさがっている。 「了沢や、ここの戸締まりをしたのはおまえじゃったな。そのときまさかこんなことは……」 「和尚さん、そんなことはありません。わたしはちゃんと戸を締めて、錠をおろしていきました」 「和尚さん、そしてこの戸をひらいたのは……?」 「それはわしじゃ。錠をひらこうとして|鍵《かぎ》を取り出すと、このとおりねじ切られていたで、びっくりして戸をひらいてみた。すると……ほら、あれを見い」  半分ひらいた戸のすきから、和尚は提灯をつっこんだが、見ると、あがり口のたたきのうえに大きな泥靴の跡がべったりとついている。 「和尚さん、ど、泥棒……?」  了沢はまたいきをのんだ。 「そうじゃろ。見い、あの足跡はまだ新しい。そこでわしはびっくりして、おまえたちを呼びに行ったのじゃ」 「ああ、それであなたはすぐとび出してこられたんですね」 「ああ、ふむ、それであんたがたを呼びに行ったんじゃが、なんとなくあたりが気になるものじゃで、念のため、提灯であちこち探しているうちに、ふと眼についたのが……」  と、和尚はいきをのんで、 「花子の死体じゃ」 「和尚さん、それじゃあなたはまだ、中へ入ってみられないんですね」 「もちろん、そんなひまはありゃせんがな」 「それじゃ、これから中へ入って調べてみましょう」 「ああ、ふむ、了沢、おまえさきに入って電気をおつけ」 「和尚さん」 「なんじゃ、どうした、了沢、ほ、ほ、ほ、おまえふるえているのか。|臆病《おくびょう》なやつじゃな」 「だって、和尚さん、泥棒、まだ中にいるんじゃありませんか」 「了沢さん、大丈夫ですよ。ほら足跡は、いったん入って、また外へ出ている。しかし、私がさきへ入りましょう」 「いえ、私が入ります」  了沢はさきへ入って、台所の電気をつけたが、そのとたん、あっというような叫びをあげた。 「了沢や、どうかしたかな」 「和尚さん、泥棒め、土足のままであがったとみえて、ほら、こんなに泥靴の跡がついております」 「わっ、えらいことをしおった。そして、なにかなくなっているものがあるかな」 「いま調べているところでございます」 「和尚さん、その提灯を貸してください」  耕助の持ってきた提灯は、さっき竹蔵がぶらさげていった。そこで和尚の提灯を受け取ると、耕助は勝手口の外を調べてみたが、そこはすぐ鼻先がたかい崖になっていて、一日じゅう、ほとんど日の目を見ることがないので、いつもじめじめ土がしめっている。その土のうえに、大きな靴跡がところどころくっきりのこっているのである。耕助は自分の経験からして、それを|軍《ぐん》|靴《か》の跡と判断した。足跡は外からやってきて、また外へ出ているが、|露《ろ》|地《じ》を出ると、そこはもう地面が堅いので、どんな足跡も見つけることはむずかしかった。それにこの雨。—— 「畜生ッ!」  盆をひっくりかえしたように落ちてくる、太い雨脚をにらみながら、耕助はいまいましそうに舌打ちしたが、それから勝手口へひきかえしてくると、台所にはもう、和尚も了沢も見えなかった。 「和尚さん、了沢さん」  呼んでみると、 「はあい、こっちでござります」  |方丈《ほうじょう》のほうから、了沢の声がきこえた。そこで提灯をぶらさげたまま、方丈をのぞいてみると、了沢がひとり、押し入れをひらいて中を調べていた。 「なにかなくなったものがありましたか」 「さあ、いまのところ別に……」 「和尚さんは?」 「本堂のほうを調べにおいでになりました」  そのとき本堂のほうから、和尚の声がきこえてきた。 「了沢や。ちょっとあかりを見せてくれ」  さいわい耕助の提灯は、まだろうそくを消さずにあった。それをかかげて駆けつけると、あかあかと電気のついた本堂の、南を向いた|蔀《しとみ》をひらいて、和尚は|勾《こう》|欄《らん》のうえから、きざはしの下をのぞきこんでいた。 「和尚さんなにかありましたか」 「ああ、ふむ、ちょっと提灯を貸してごらん」  和尚は提灯を勾欄からさし出したが、見ると|賽《さい》|銭《せん》|箱《ばこ》のそばに、煙草の吸い殻がふたつ三つ、それにマッチのすりかすが五、六本散らかっている。 「了沢さん、あなたかね、ここを掃除したのは?」 「私は毎朝、お掃除をいたします。それにお参りの人だって、こんなところで煙草を吸う人はありません」 「すると泥棒め。勝手口から忍びこむまえ、この階段に腰をおろして、しばらく煙草を吸うていたんですね」  さいわいそこは軒がふかいので、吸い殻もマッチもまだ雨にぬれていなかった。耕助は、懐紙を出して、そのうえに吸い殻とマッチを全部ひろい集めたが、すぐ、うれしそうにがりがり頭をかきながら、和尚のほうをふりかえった。 「和尚さん、ごらんなさい。この吸い殻はひどく暗示的ですよ。ほら、手巻きの煙草ですが字引きの紙で巻いてある」 「ああ、ふうむ、英語の字引きじゃな」 「そうですよ。英和辞典のコンサイスですよ。煙草の紙にゃこいつ手ごろなんです。ところで和尚さん、この島で英語の字引きを持っているのは……?」 「さあ。……まず本家ぐらいのものじゃろな。あそこなら、千方さんも一さんも学校へ行ったで、英語の字引きぐらいあるじゃろ」 「本家では、しかし、いま、煙草を吸う人がありますか」  不意に和尚が、ぎょっとしたように息をのんだ。急に目を大きくみはって、勾欄の|擬《ぎ》|宝《ぼう》|珠《し》を握っていた、太い大きな手がはげしくふるえた。 「お、和尚さん、ど、ど、どうかしましたか」  了然さんの息遣いがあまりはげしかったので、耕助も驚いて思わずどもった。 「ああ、うむ、いや、しかし、そ、そんな……そんな馬鹿なことが……」 「和尚さん、ど、どうしたんです。あそこにだれか、煙草を吸う人があるんですか」 「ああ、ふむ、わしは一度、早苗という娘が煙草を巻いているのを見たことがある。そういえばそんなふうな、ごちゃごちゃと字を書いてある紙じゃった。そのときわしが、だれが吸うのかと尋ねたら、……」 「だれが吸うのかと尋ねたら……?」 「早苗のいうのに、|伯《お》|父《じ》さまが……」  耕助は思わずあっと息をのんだ。懐紙を持った手がはげしくふるえた。 「お、和尚さん、早苗さんの伯父さんというのは、あの座敷牢にいるという……」 「そうじゃ、気ちがいじゃ。そのときわしはこう言うたのを覚えている。早苗や、気ちがいさんに煙草をあてがうのはよいが、マッチを渡してはならんぞとな。すると早苗が、はいそれはよう気をつけておりますと……」  と、そのとたん、すさまじい音を立てて、天井裏を|鼠《ねずみ》が走ったので、和尚も耕助も了沢も、われにもなく、ぎょっとばかりとびあがった。風はますます吹きつのって、横なぐりに降る|土《ど》|砂《しゃ》|降《ぶ》りの中に、花子の体がずぶぬれになって、ゆっさゆっさとゆれている。地面に垂れさがった黒髪のさきから、滝のように雨が流れている。了沢はふるえながら、 「南無……」  と、歯の根をガチガチ鳴らした。 「和尚さん、和尚さん、するとあなたは、今夜ここへ来たのは、座敷牢にいる、本家の御主人だとおっしゃるのですか」 「ば、馬鹿な! わしはなにもそんなことはいやあせん。あんたが煙草のことをきくものだから……」  耕助はそういう和尚の顔をきっと見ながら、 「和尚さん、しかしあなたはさっき、妙なことをおっしゃいましたね」 「わしが……? いつ……?」 「さっき、……花子さんの死体を見つけたとき……」 「花子の死体を見つけたとき、あのとき、……? あのとき、わしがなにかいったかな」 「はい、おっしゃいました。はっきりはわかりませんでしたが、たしか、気ちがいじゃが仕方がない……と、そんなふうにききとれましたよ」 「気ちがいじゃが仕方がない……? わしがそんなことをいったかな」 「ええ、たしかにおっしゃいましたよ、私は変に思ったんです。気ちがいとは、本家の御主人のことだろうが、あの人がどうしたというんだろうと思ったんです。和尚さん、あなたはなにかこんどの事件に、本家の御主人が関係しているとでも……」 「気ちがいじゃが仕方がない。わしがそんなこと言うたかな。気ちがいじゃが仕方がない……気ちがいじゃが仕方がない……」  不意に和尚は、くゎっと大きく眼をひらいた。耕助の顔をまともから、にらみすえるように、はげしくにらんだ。大きな肩が波打って、くちびるのはしがものすさまじく|痙《けい》|攣《れん》した。と、思うとつぎの瞬間、和尚は大きな両手をひらいて、ひしとばかり顔をおおうと、二、三歩うしろへよろめくようにあとずさりした。 「和尚さん!」  耕助も思わずいきをはずませる。 「なにか……思いあたることが、ありましたか」  和尚は顔をおおうたまま、しばらく無言のまま、はげしく肩をふるわせていたが、やがて両手を顔からとると、耕助の視線を避けるように、まぶしそうに眼をそらして、 「金田一さん」  と、ひくい声で呼んだ。 「はあ」 「あんたは勘違いをしとるんじゃ。なるほどわしはそんなことをいうたかしれん。しかし、それは本家の主人と、なんの関係もないことじゃ」 「しかし、……しかし……和尚さん、それじゃあれはどういう意味なのです。気ちがいというのは、だれのことです」 「金田一さん、それはいえん。それは……それは恐ろしいことじゃ」  和尚はそこで、はげしく身ぶるいをするとやがて、ほうっとため息をついた。そして気が抜けたような調子で、こんなことをいった。 「金田一さん、世の中にはな、あんたなどの思いも及ばぬ恐ろしいことがある。そうじゃ、まったく常人の常識では考えも及ばぬ恐ろしい、変てこなことがある。気ちがい……そのとおりじゃ、まったく気ちがいの|沙《さ》|汰《た》じゃ。しかし……いまはいえん。いつかまた、あんたに打明けるときもあろうが、いまはいえん。いまはなんにもきいてくださるな。よいか、尋ねてもむだなことじゃで。……おお」  と、和尚は本堂の手すりから身を乗り出して、 「どうやら幸庵さんが来たらしい。提灯の灯が見える。どれその間に禅堂のほうも調べておこう。ついでのことじゃで」  禅堂と本堂とは、まえにもいったとおり、わたり廊下でつながっている。その禅堂は横が三間、縦が六間の細長い建物で、東を向いて建っている。わたり廊下の突き当たりにある板戸をひらくと、中央に廊下が縦にはしっていて、左右に畳が一枚ずつ、横にならべて敷いてある。その畳一枚に一人ずつ、座禅を組むのだそうである。畳は右に十枚左に十枚と敷いてあるが、ちょうど五枚目のところがまた廊下になっていて、二つの廊下の交差点、つまり禅堂の中央に仏像が安置してある。医王山という山号からでもわかるとおりその仏像は薬師|如《にょ》|来《らい》である。この横の廊下の左側が、禅堂の入り口になっていて、その外は庭になっており、そこにあの恐ろしい梅の木があるはずである。入り口の左右には、武者窓みたいな窓がずらりと並んでいた。  了然さんは提灯の灯で、禅堂のすみからすみまで調べたのち、入り口の戸を調べてみた。その戸は中から、ぴったりとかんぬきがおりていた。 「ああ、ふむ、どこも異状はないな。了沢や、方丈のほうに、なにかなくなっているものはないか」 「和尚さん、まだよく調べておりませんが、見たところ、別に異状はなさそうでござります」 「ふむ、妙な泥棒じゃな。もっとも貧乏寺じゃで、盗むほどのものはなかったのかもしれん。どれ、そろそろ幸庵さんの来る時分じゃ。向こうへ行って待っていよ」  耕助は黙々として考えこんでいる。なにかしら、しつこく気にかかるものがある。それはてにをは[#「てにをは」に傍点]の問題だった。  和尚はああいうふうに弁解する。しかし、あれは和尚の|詭《き》|弁《べん》であって、気ちがいとは、やはり本家の主人、与三松のことにちがいない。しかし、与三松にしろ、だれにしろ、犯人は気ちがいである。気ちがいだから、あんな変なことをしたのだという意味ならば、了然さんのあのときもらしたことばは、 「気ちがいだから仕方がない。……」  で、あるべきはずだ。しかし、耕助の耳にしたのは、たしかにそうではなくて、 「気ちがいじゃが[#「じゃが」に傍点]仕方がない。……」  と、いうのであった。  なぜだろう。なぜだろう。……     今晩のプログラム  土砂降りの中を、|傘《かさ》をじょご[#「じょご」に傍点]にして駆けつけてきたのは、幸庵さんに村長の荒木真喜平氏だった。竹蔵もうちへ寄ってきたとみえて、紋付きをふだん着に着換えて駆けつけてきた。三人ともずぶぬれになって、幸庵さんのどじょうひげも、だらしなくしおたれていた。  山門のところで和尚に会うと、 「和尚さん!」  と、幸庵さんは|頬《ほお》の筋肉をピクピクふるわせたが、それきりあとはことばが出なくて、大きなのど仏がぐりぐり動いた。村長の荒木さんはくちびるをかたく結んだまま、ただ、黙って和尚の顔をながめていた。一瞬|鼎《かなえ》に立った三人のあいだには、無気味な沈黙がながれたが、やがて、和尚は身をひらくようにして、 「二人とも御苦労じゃった。では、ひとつ、花子を、見てやっておくれ」  あらましのことは竹蔵から聞いてきたとみえて、和尚が身をひらくとすぐに二人は梅の木のほうへ駆けつけた。幸庵さんはよたよたと、村長さんはしっかりしたあしどりで。——了然さんがそのあとからついていこうとすると、 「和尚さん」  と、うしろから竹蔵が呼びとめた。 「おお、竹蔵、御苦労じゃったな。本家の様子はどうじゃった」 「へえ、月代さんや雪枝さんはもう寝ていましたが、早苗さんはひどく心配そうな顔で——」 「あの子は利口だから、だいたい、察しがついたのじゃないかな」 「そのようでございます。いっしょに来るというのを無理にとめて、お勝さんによく頼んできました」 「竹蔵さん、清水さんはどうでした」  そばから、耕助がことばをはさんだ。 「へえ、清水さんはまだおかえりじゃないそうで」 「そうですか。御苦労さまでした」  梅の木のそばでは、幸庵さんと村長さんが、凍りついたようにしいんと立っていた。医者のくせに幸庵さんはひっきりなしにがたがたふるえているが、村長の荒木さんは、表情のない顔で、ただ、まじまじと死体をながめている。和尚がそばへ行くと、村長はふりかえって、 「和尚、いつまでこんなところに、ぶらさげとくわけにはいきますまい。もうそろそろ、おろしたらどうじゃな」 「ああ、ふむ、金田一さんがな、清水さんに見てもらうまでは、このままにしといたほうがええと言われるで、いままで控えていたのじゃが、朝までほっとくわけにもいくまい。あんたがた、あんたと幸庵さんに見てもろとけばもうええじゃろ。なあ、金田一さん、もうおろしてもええじゃろな」 「いいでしょう。私も手伝いましょう」 「いや、竹蔵、おまえやっておくれ」 「へえ、承知しました。ところで、どこへかつぎこみましょうか」 「そうじゃな、取りあえず本堂のほうへはこんでもらおうか。了沢や、|蓆《むしろ》がどっかにあったろ。本堂のほうへ敷いておけ」  竹蔵と耕助の手で、死体はすぐおろされた。本堂のほうへかつぎこむと、 「さあ、幸庵さん、これからはおまえの役目だ。ひとつよくみてやっておくれ」  幸庵さんもさすがに医者であった。梅の木からおろされて、本堂の蓆にねかされた死体を見ると、もうふるえてはいなかった。|亀《かめ》の甲より年の功の、慣れた手つきで死体をあらためていたが、 「幸庵さん、死因は——?」  と、そばから耕助が尋ねると、 「絞殺されたのじゃな。ほら、ごらん、のどのところに、手ぬぐいでしめたような跡がある。しかし……」  と、幸庵さんは死体を少し起こしてみて、 「そのまえに、なにかでひどく頭をぶん殴られたんじゃな。うしろあたまんところに、大きな裂傷ができているで。血はほんのちょっぴりしか出ていんが、これで気をうしのうたのじゃな」 「そうすると、ぶん殴られて、気をうしのうているところを、絞殺されたということになりますか」  耕助が念をおすように尋ねた。 「ま、そうじゃな、|下《げ》|手《しゅ》|人《にん》は」  と、幸庵さんは古風ないいかたをして、 「ぶん殴ってたおしただけでは心もとなかったので、念のために絞殺したのじゃな。絞殺したのは手ぬぐい——日本手ぬぐいというようなしろものじゃないかと思う」 「ところで、殺されてからどれくらいの時間がたっていますか」 「さあて、もっと詳しいことを調べてみんとわからんが、だいたい五時間か六時間、それよりも長うもなければ短うもあるまい。ときにいま何時じゃな」  耕助が腕時計を見ると、ちょうど十二時半であった。 「ふむ、するときょうの——、いや、もう昨夜ということになりますかな、昨夜の六時半から七時半までのあいだということになるな」  それは自分の推定ともぴったり一致しているので、この古風な山羊ひげのお医者さんも案外正確なことをいうわいと耕助は改めて相手を見直したことだ。  金田一耕助は医者ではない。しかしまんざら医学の心得がないでもなかった。  久保銀造の後援で、アメリカのカレッジで勉強していたころ、耕助は夜間だけ、病院に勤務して、看護夫見習いみたいなことをやっていたことがある。それはむろん、銀造の補助だけを当てにしているのが、うしろめたくて、いくらかでも、自力でかせぎ出そうという意識もあったのだろうが、それと同時に、そのころすでに、後年身のなりわいとなったところの、あの風がわりな職業が念頭にあって、多少なりとも、医学的な経験をつんでおきたいという、殊勝な心がけの手伝っていたことも争われない。  そういう経験があるうえに、数年間の前線生活だ。耕助はいやというほど、人間の死ぬところを見てきた。爆死もあれば病死もあった。それらの死体を、つねに注意ぶかく見まもることを忘れなかった耕助は、死後硬直の状態について、一種の鋭い勘を持っていた。そして、花子の死について、その勘の教えるところは、幸庵さんの推定と、ぴったり一致しているのである。  すなわち、花子は十月五日の、午後六時半から七時半までのあいだに殺されたのである。その点については、もうまちがいのないところだけれど、では、花子はいつこの寺へのぼってきたのか。それについて耕助はもう一度、宵からの記憶をたぐってみる。  生きている花子の姿を、最後に人が見たのは、労働ニュースのはじまる時刻であった。それは六時十五分後のことだが、そのとき花子は家をぬけ出して、この千光寺へあがってきたのだろう。  ところで、耕助が寺を出たのは、ちょうど六時二十五分であった。そのことは、和尚が提灯を持っていけといったことから、腕時計を見たので、耕助はよく覚えている。耕助はそれから山を下っていったが、つづら折れのなかほどで、下からあがってきた竹蔵に出会った。あれはたぶん六時二十八分ごろのことであったろう。  耕助はそれから竹蔵に別れて分鬼頭へ行った。  そこでちょっと手間どったが、分鬼頭を出て、つづら折れのふもとまで引きかえしてきたところで、うえからおりてきた和尚と了沢と竹蔵の三人づれに出会った。そして四人つれだって本鬼頭へ行ったのだが、そのとき早苗が復員だよりをきいていた。その復員だよりも耕助たちがつくと同時に終わったようだ。  ところで、その時分のラジオのプログラムによるとこうである。 [#ここから1字下げ] 一、六時十五分——労働ニュース。 一、六時三十分——気象通報、今晩の番組。 一、六時三十五分——復員だより。 一、六時四十五分——カムカムの時間。 [#ここで字下げ終わり]  耕助ははからずも、自分たちの行動が、正確に、時間の目盛りにのっていることを発見して、大いに満足だった。  さて、この時間表によって子細に点検していくと、だいたい、つぎのようなことがわかるのである。  すなわち耕助が寺を出た六時二十五分から、一同が本鬼頭へついた六時四十五分までの間は、いつもだれかが千光寺から本鬼頭へいたるまでの道を、歩いていたことになるのである。もっとも、そのうちただひとつギャップはある。和尚や了沢や竹蔵の、寺を出た時刻が正確にわかっていない。ひょっとすると、それは、耕助か分鬼頭への道へそれてから後だったかもしれない。と、すればそのあいだだけ、つづら折れのふもとから、寺までの道は、だれも歩いていないことになる。  だが、それだってかまわない。耕助が分鬼頭のほうへ曲がると同時に、花子がつづら折れをのぼりはじめたとしても(そんなことは事実なかったが)寺へつくまでは、女の足で少なくとも十分はかかる。そのあいだには和尚の一行が寺を出ていなければならぬはずだ。それでなければ、分鬼頭から引きかえしてきた耕助と、つづら折れのふもとで出会うことができないからである。さて、和尚がその十分のあいだに寺を出たとすれば、当然、途中で花子に出会っているはずだが、それが出会っていないところをみると花子がつづら折れをのぼっていったのは、その時刻でないことがわかる。  それならば、花子はいつ寺へのぼっていったのか。花子が家を出たのを、きっちり六時十五分として、耕助が寺を出た六時二十五分までには、十分という間がある。その間に花子が寺へやってきたとしても(それは女の足でも、急げば全然不可能なことではないが)それならば、その時分、まだ寺にいただれかが、気がついていなければならぬはずである。  耕助のいる書院は、寺の奥のほうになっているのでだめだけれど、和尚の居間になっている方丈からだと、山門はまる見えだし、それにまた、つづら折れもふもとのほうなら見渡すことができるのである。現にあのとき、方丈の障子はあけっぱなしになっていたから、花子が山門を入ってきたとしたら、和尚か了沢か、どちらかが気がつかなければならぬはずである。  そういうことから考えると、六時十五分ごろ家を出た花子は、まっすぐにこの千光寺へやってきたのではなかったのだろう。一度どこかへ立ち寄って、みんなが出払ったところを見はからって、寺へのぼってきたのだろう。  だが、そうするとここに問題になるのは、 [#ここから1字下げ] 一、花子は途中どこへ寄ったのか。 二、いや、それよりも花子はなんのために、寺へのぼってきたのか。 [#ここで字下げ終わり]  ところが、あとのほうの疑問は、それからすぐに解けたのである。  花子の|死《し》|骸《がい》を調べていた幸庵さんは、まだほかにどこか傷はあるまいかと、着物の前をはだけていたが、すると花子のふところの奥ふかくから、ぽろり出てきたものがある。  それは一通の手紙であった。しかもふところの奥ふかく抱いていたので、あの土砂降りにもかかわらず、大してぬれてもいなかった。 「手紙ですな」  うしろからのぞきこんでいた村長さんが、思わずいきをはずませた。 「どれどれ」  と、和尚が手にとって、 「なんじゃ、いやになまめかしい封筒じゃな」  と、電気の光ですかしていたが、 「金田一さん、わしの眼にはおぼつかない。あんたひとつ読んでみておくれ」  耕助が手にとってみると、それは女学生などが使う模様入りの小型の封筒で、表には、月代さまへ、裏には、御存じより。 「なんじゃ、月代さま——? するとそれは姉の月代へあてた手紙かな」 「変ですね。月代さんへあてた手紙を、どうして花子さんが持っていたのでしょう」 「ああ、ふむ、ともかく中を読んでおくれ。御存じよりというのはたいがいだれだかわかっている。いやらしい、おおかた分鬼頭のおかみの入れ知恵だろうが、あの女のいいそうなことじゃて」  さて、中の文句というのはこうであった。 [#ここから2字下げ] 今宵七時、千光寺境内にて相待ち候、寺は無人となるはずにつき、こころおきなくつもる話を。 月代さま [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]御存じより  読んでいくうちに、耕助は身うちがむずがゆくなるような、不快とも|滑《こっ》|稽《けい》とも説明しにくい感じに打たれた。まるでそれは、江戸時代の人情本にでもありそうな書きぶりではないか。 「鵜飼君ですね」 「そうじゃて、しかし、その文句はお志保が入れ知恵して書かせたにちがいない。あの女よりほかに、そんないやらしい文句を書くやつはありゃせん」 「だれか、鵜飼君の筆跡を知っている人がありますか」  だれも知っている者はなかった。 「いや、だれも知ってる者はのうても、鵜飼のやつが書いたにちがいない。花子はその手紙につられて、寺へあがって来おったのじゃ」 「しかし、和尚さん、これは月代さんにあてた手紙ですよ」 「そんなことは問題じゃありゃせん。月代にあてた手紙を、なにかのはずみで、花子が手に入れ横どりしおったのじゃ。そして姉にわたすかわりに、自分でこっそりやってきたのじゃ。そうそう、幸庵さん、あんたは宵にあの色男が寺へのぼってくるのを見たといったな。それは何時ごろのことじゃったな」 「さあ。何時ごろて、和尚さん、わしゃいちいち時計を見やあせんがな。本家へいく途中、曲がりかどのところでこっちを見ると、あいつがつづら折れのほうへ曲がる姿が、ちらっと見えた」  幸庵さんが本鬼頭へやってきたのは、耕助たちより少しおそかったから、六時五十分ごろのことだったろう。してみると、鵜飼章三は、耕助が分鬼頭を出てから間もなく、あとを追うて出てきたにちがいない。 「すると和尚さん、あいつが花ちゃんをおびき出して、そして、……そして、……ここで殺したのでござりますか」  それは潮つくりの竹蔵だった。 「鵜飼が……? 花ちゃんを……?」  幸庵さんがつぶやくようにいった。そして、改めて、了然さんや村長の荒木さんと顔見合わせた。鵜飼が花子をおびき出したということについては、だれひとり、疑いをさしはさむ者はなかったが、さて、かれが花子を殺したのか、——というだんになると、だれも即答できかねるという|風《ふ》|情《ぜい》なのである。  耕助はまだ鵜飼という男をよく知らない。しかし、たった一度会った印象だけれど、あの男は要するに、一種のマネキンであって、こういう荒っぽい殺人に、自ら手を下すとは考えられぬ。もっとも、人は見かけによらぬということばもあるが。…… 「和尚さん、鵜飼君は煙草を吸いますか」 「煙草——?」  和尚は驚いたように顔をしかめて、 「さあ、わしはあの男が煙草を吸うているのを見たことがないな。しかし金田一さん、煙草がどうかしたのかな」 「いえね、さっきのあの吸い殻、あれ、鵜飼君が吸い捨てたのじゃないかと思って。……鵜飼君なら、月代さんか雪枝さんか花子さんかだれかから、ああいう煙草をもらう場合がありうると思いますが」 「いいや、あいつは煙草を吸いません」  横からことばをはさんだのは竹蔵だった。 「いつかわたしが煙草をやろうといったら、自分は吸わないからと断わったのを覚えております。しかし、和尚さん」  と、ひざを乗り出した竹蔵は、じれったそうに握りこぶしで畳をたたいて、 「だれが花ちゃんを殺したにしろ、なんだってあんなところへぶらさげていったんでござります。しかも、あろうことかあるまいことか逆さまに、……和尚さん、花ちゃんを殺したやつは、なんだってまあ、あんなむごいことをしたのでござります」  ああそのことだった。いま、金田一耕助が頭をなやましているのもその問題だった。あれは犯人の単なるこけおどしであったのだろうか。小説家が、目先をかえるために、|強《し》いて悪どい場面を考え出すようにこの事件の犯人も、ただその場の気まぐれからああいう無残な情景を、肉と血でえがき出していったのだろうか。  いや、いや、いや。  金田一耕助は、そうは思わぬ。あそこにああして逆さまに、花子の体をつるしていったということに、なにかしら、深い意味があるのではあるまいか。気ちがいである。まったく気ちがいの|沙《さ》|汰《た》である。しかし、この獄門島全体が、どこか狂ったところがあるのだから、ああいう常軌を逸したやりくちにも、犯人にとっては、それは相当の深い理由とたくらみがあるのではなかろうか。  竹蔵のことばは、にわかに悪夢を呼びおこした。しいんと凍りついたように黙りこんだ一同のあいだを、冷たい|戦《せん》|慄《りつ》がちりちりと走りわたった。  そのときである。|庫《く》|裏《り》のほうから、けたたましい叫び声がきこえたのは。—— 「和尚さん。和尚さん」  それは了沢であった。 「和尚さん、和尚さん、泥棒が盗んでいったものが、わかりました。和尚さん、泥棒が盗んでいったのは——」  けたたましく呼ばわりながら、本堂へ駆け込んできた了沢君が、手柄顔に出してみせたのは、なんと、空っぽになった|飯《めし》|櫃《びつ》だった。 「和尚さん、この中にはまだ、半分ばかり御飯が残っていたのでござります。それがいま見ると、これこのとおり空っぽになって……」  泥棒はお櫃の御飯を盗んでいったのである。      第三章 発句屏風  惨劇の夜は霧の深い朝となって明けた。  夜明けまえに|土《ど》|砂《しゃ》|降《ぶ》りはあがったけれど、残りの雨はそのまま霧となって、じっとりと、獄門島をつつんでいる。濃いねずみいろの|靄《もや》の底に深く沈んだ医王山千光寺は、見果てぬ夢を追うひとの|瞳《ひとみ》のように、薄じろくぼやけていた。  明け方ごろ、とろとろとまどろんだ金田一耕助は、本堂のほうからきこえてくる、|勤行《ごんぎょう》の声に、ふと眼をさました。しめきった書院のなかは暗かったが、それでも、雨戸のすきから吹きこんでくる、朝の冷たいほの明かりが、部屋のすみずみに|揺《よう》|曳《えい》している。腹ばいになって、|枕《まくら》もとの腕時計を見ると、もう八時をすぎていた。さすがに今朝は、和尚も朝寝をしたとみえる。  耕助は腹ばいになったまま、枕もとの煙草をとって火をつけた。|頬《ほお》|杖《づえ》をついて、煙草をくゆらしながら、勤行の声をきくともなしにきいていると、|木《もく》|魚《ぎょ》の音が、けさは特別うそさむく、|襟《えり》もとへしみいるようであった。  耕助はぼんやりと、昨夜のことを考えはじめる。できれば外にあらわれた、あのこけおどしの底から、真実のかけらでもつかみ出そうと考える。しかし、睡眠不足のせいか、ひとつことを考えつめる気力がなくて、とりとめもない想念が、目隠し鬼のように、よたよたと堂々めぐりをするばかりである。  耕助はそこでしばらく考えることはやめにする。思いきって起きようかとも思ったが、ほどよい夜具のぬくもりが、けだるい体に快くて、飛び起きるほどの決心もつかない。  それにあの、ポクポクと眠りを誘うような木魚の音が、だらけたいまの気持ちにとって、まことに快いのである。それはまるで、怠けろ、怠けろと、だらけた心を、いっそう誘惑するようであった。耕助はしばらくこの誘惑に身をまかせることにする。そこでもう一本、煙草に火をつけると、無精たらしく頬杖ついたまま、枕もとにある二枚折りの枕|屏風《びょうぶ》に、ぼんやりと睡眠不足の眼を走らせる。  この二枚折りの屏風というのは、二、三日まえの晩、夜が更けると島は寒いからの、と、いって、和尚が親切にわざわざ持ってきてくれたものである。おひなさまの屏風みたいにかわいいやつで、地紙には、昔の|俳《はい》|諧《かい》|書《しょ》をばらしたらしい、木版刷りの紙が、いちめんにはりつめてある。刷ってあるのは連句らしいが、妙にひねくれた書体だから、耕助には、「|哉《かな》」だとか、「や」だとかいう字のほかは、とんとちんぷんかんである。さて、この地紙のうえには、右に二枚、左に一枚と、つごう三枚の色紙がはりつけてある。色紙のうえには、いずれも一筆書きで、坊主だか茶人だかわからないような人物がかいてある。右の二枚にかいてあるのは、|宗匠頭巾《そうしょうずきん》をかぶって、黒い|十《じっ》|徳《とく》を着た人物である。ひたいに三本ほどしわらしいものがかいてあるところを見ると、かなりの老人らしい。ポーズはちがっているが、このふたりは同じ人間かもしれぬ。さて、左の色紙の人物はと見ると、これはまた、おそろしく行儀の悪い男だ。右の人物と同じく十徳を一着に及んでいるが、へそまで見えそうなほど前をはだけて、大あぐらをかき、|毛《け》|脛《ずね》まるだしである。このほうはなにもかぶっていなくて、丸めた坊主頭が、海坊主にそっくりである。さて、これらの肖像のうえには、それぞれ俳句らしいものが書いてあるが、これがまたすこぶる達筆ときているので、難解千万なこと地紙の俳諧書以上である。それほど難解なものを、読まねばならぬという義理合いは、どこにもなかったのであるけれども、ぼんやりとしていると、腹の底からいらいらしたものがこみあげてきそうなので、耕助は|臍《せい》|下《か》|丹《たん》|田《でん》に力をおさめて、一意専心、これを読むことに努力することにきめる。  まず、右上のやつだが、これは上五と下五が、ともに平仮名になっているらしい。——と、そこまではわかっても、その平仮名が問題なのである。耕助はしばらく、上五と下五を交互ににらんでいたが、俳人特有のひねった文字は、さながら、|五月雨《さみだれ》の泥をのたくるみみずの跡のごとく、|尾頭《おかしら》定かならずで、いっこうちんぷんかんぷんである。耕助はあきらめて、こんどは作者の名前へ眼をやった。すると、妙なことには、その名前とおぼしいやつがふたつある。これは妙だと思ってよくよく見ると、ひとつのほうの名前の下には、写すという字が書いてあった。これで、はじめてわかった。その色紙は、作者みずからが書いたものではなくて、なにがし宗匠の句を、別のなにがしが書いたものにちがいない。ところで、よく見ると、この別のなにがしなる人物の名は、他の二枚の色紙にも見え、どれにも下に写すという字が見える。すなわち、この三枚の色紙は、全部同じ人物によって書かれたものらしい。そこで耕助は、三枚の色紙のなかから、できるだけわかりやすい書体のやつを探し出して、やっとそれを|極《ごく》|門《もん》と判読した。 「なあるほど」  と、そこで耕助は満足らしく鼻を鳴らした。極門という雅号は、いうまでもなく獄門島をもじったものにちがいない。してみると、この色紙を書いたやつは、獄門島の住人にちがいない。と、そこまではわかったが、それだけではなんにもならない。そこで耕助は、いよいよほんとうの作者の名前を判読にかかる。この名前は平仮名三字になっていて、よく見ると、右の色紙二枚に、同じような字がある。してみると、宗匠頭巾に十徳という二つの肖像は、やっぱり同じ人間にちがいない。ところでその男の名前だが……と、苦心|惨《さん》|澹《たん》のあげく、やっと耕助が判読したのは「おきな」という三文字。 「なあんだ、|芭蕉《ばしょう》か」  地下の芭蕉翁にはお気の毒ながら、そのときの耕助の口調には、はなはだ|不《ふ》|遜《そん》なるものがあった。といって、耕助かならずしも、一部俳人たちが神とあがめる芭蕉のおきなを、|軽《けい》|蔑《べつ》したわけではなかったろう。苦心惨澹のあげく判読した名前が、あまりポピュラーな名前だったから、気抜けしたのかもしれぬ。  さて、それが芭蕉の句だとすると、また、判読のしようがある。耕助はあらためて上五と下五の平仮名のなかから、「お」という字、「き」という字、「な」という字はあるまいかと、|蚤《のみ》|取《と》りまなこで捜索したあげく、やっとその句を、つぎのごとく判読することができた。 [#ここから2字下げ] むざんやな|冑《かぶと》の下のきりぎりす [#ここで字下げ終わり]  耕助はこれでやっと、肩の荷がおりたような気がした。こうして一枚のほうがわかると、あとの一枚は案外すらすらと判読できた。 [#ここから2字下げ] 一つ家に遊女も寝たり|萩《はぎ》と月 [#ここで字下げ終わり]  ともに「奥の細道」に出てくる句だから、耕助も中学校の読本で習ったことがある。  こうして右の二枚は首尾よく判読できたが、さて、あとの一枚である。このほうは、肖像から見ても、芭蕉でないらしいことがわかる。芭蕉はこんなに行儀が悪くない。作者の名前を見ても、おきなでもなく、芭蕉でもなく、はせをでもないらしい。しかし、こうして右に芭蕉の句がはってあるからには、左のその句も、芭蕉に匹敵するような、昔の大家にちがいない。まさかそんじょそこらの|月《つき》|並《なみ》宗匠の句を、もったいなくも流祖おきなと相照応するようなことはあるまい。そう思って、あれやこれやと、記憶にある昔の宗匠の名をあてはめているうちに、耕助はやっとそれを|其《き》|角《かく》と判読した。 「なあんだ。其角か。ばかにまた、むずかしい字を書いたもんだな」  耕助は不平らしく鼻を鳴らした。それに其角という人物は、|師走《しわす》の橋のうえで|大《おお》|高《たか》|源《げん》|吾《ご》と禅問答みたいなことをやらかして、あとで大恥かいたというエピソードで知っているくらいのもので、句そのものはあまりよく知らないから、それから判読してかかるのは、ちと自信のない仕事であった。 「ええ——と、あのときの|発《ほっ》|句《く》はなんてたっけな。そうそう、年の瀬や水の流れと人の身は——か、それとはちがうな」  そこで耕助は、記憶のひきだしをさんざんひっかきまわしたあげく、やっと、其角の句とおぼしいやつを二、三ひっぱり出してみた。 「名月や畳のうへに松の影。涼しさはまづむさし野の流れ星。——どれもちがうな。|角《つの》|文《も》|字《じ》や|伊《い》|勢《せ》の|芒《すすき》の——あれはどういう句だっけ、伊勢の芒の——ええと——いや、どっちにしてもこの句じゃない。いったいこれはなんと読むんだろう」  耕助がやっと読めるのは、「の」という字と「を」という字と、「に」という字だけ、それにさんざん頭をしぼったあげく、やっとおしまいの二字が「|可《か》|那《な》」であるらしいことに気がついた。すなわちその句は、 [#ここから2字下げ] ○の○を○に○○可那 [#ここで字下げ終わり]  となるらしいのだが、○のところの漢字らしいのが、どう考えても、わからない。「○」ので行をかえてあるところをみると、これで上五になるらしく、すると「○」一字だけで四音になる漢字——|橘《たちばな》の——ちがうなこの字にはヘンがない。——  と、そんなことを考えているところへ、 「金田一さん、金田一さん」  と、|典《てん》|座《ぞ》の寮のほうで呼ぶ声がきこえたので屏風に対する耕助の執心は、いっぺんに雲散霧消した。 「金田一さん、金田一さん、まだおやすみですか」  そういう声は駐在所の清水さんであった。耕助はそれをきくと、あわてて寝床から飛び起きた。どういうわけか耕助は、そのとき、清水さんのひげ面に対して、なつかしさがむらむらとこみあげてくると同時に、はたとばかりに現実の世界へ呼びもどされた。其角などくそくらえであった。 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。いますぐ行きます」  気がつくと、朝のお勤めはまだつづいているが、もう終わりにちかいらしく、ゆるやかな|磬《けい》|子《す》の音が、ゴアアアアンと、冷たい空気をふるわせてくる。耕助は大急ぎで着物を着換え、夜具を押し入れへ突っ込むと、雨戸をひらいてはじめて深い霧に気がついて、驚いた拍子に三べんくしゃみをした。  素足ではもうひえびえとするような台所へ出てくると、清水さんがひげ面から、しろい歯を出してにっと笑いかけたが、どういうわけか、あわててもみ消すと、エヘンとせきをして、もったいらしく渋面をつくった。 「どうもすみません。すっかり朝寝坊しちゃって」 「いやなに、お疲れでしょう。なにしろ昨夜はたいへんでしたな」  そういう清水さんも睡眠不足らしく、しょぼしょぼした眼をおちくぼませている。 「ええ、あいにくの雨で……あなた、いまお帰りですか」 「ええ、いまさっき。こっちもたいへんでしたが、私のほうもたいへんでした。まるで、活動写真のようでしたよ」 「なにが?」 「なに、海賊船を追跡したんですよ。ポンポン、ピストルを撃ちあいましてね。このへんまできこえやしませんでしたかい」 「いいえ。じゃ、この近所でやったんですか」 「ええ、あの|真《ま》|鍋《なべ》島のへんでね。なにしろすごうござんしたよ。向こうは七、八人いたらしいが、必死ですからね、|窮鼠《きゅうそ》猫を|食《は》むというやつで、てんでんにポンポン、ピストルをぶっ放してくる。こっちもおとなしく、手をつかねているわけにはまいりません。双方はげしく撃ちあうというわけで、|屋《や》|島《しま》|壇《だん》の|浦《うら》以上の大合戦でした」  清水さんは大げさなことをいう。耕助は思わず吹き出して、 「そりゃたいへんでしたな。そして、海賊はつかまりましたか」 「それが、まんまと取り逃がしましたよ。あいにく、向こうの放った弾丸が、こっちの機関に命中しましてね、故障を起こしてえんこしてしまったんです。そのためにやっこさんたち、あと|白《しら》|波《なみ》と逃げちまったというわけです。十五トンぐらいの船でしたが、ひどくスピードの出るやつで」 「それはおあいにくさまでしたね。こっちというのはあなたお一人でしたか」 「いやなに、本署の船だからおおぜい乗っていましたよ。水島の倉庫を破って、繊維品や雑貨類を盗み出したやつがあるというので、それっと網を張っているところへひっかかったんです。そうそう、ところで、あんたを知ってるという人に会いましたよ」 「私を知っている人?」  耕助は驚いてきき直した。話の|接《つ》ぎ|穂《ほ》からすると、まるで海賊に親類があるようにきこえた。清水さんはまた渋面をつくると、疑わしげな眼で耕助の顔を見守りながら、のどの奥で|痰《たん》を切り、にわかにことばを改めた。 「金田一さん、私はあんたが好きだ。どういうものか虫が好いとる。だから内緒でそっと注意してあげるんじゃが——あんた、なにかうしろぐらいところがあるなら、いまのうちに|逃《ず》らかったほうがためですぞ」 「な、な、なんですって?」  さすがの耕助も、あまり意外な清水さんの親切にどぎもを抜かれた。 「ぼくにうしろぐらいところがあるなんて、だ、だれがいったんです」 「あんたを知ってるという人が——です。その人がね、獄門島になにか変わったことはないかときいたから、私はいまに、変てこなことが起こりゃせんかと思う、というようなことを話したです。それから金田一耕助という|風《ふう》|来《らい》|坊《ぼう》が——いや、ああ、——そのなんじゃ」 「いや、風来坊でけっこうですよ。それであなたが、金田一耕助という怪しげな風来坊が来てるということを、お話しになったんですね。すると——?」 「するとですね。その人がひどくびっくりしてな、なに、金田一耕助が来ている? そしてその金田一耕助というのはこれこれこういう|風《ふう》|貌《ぼう》の男ではないかと、その人の話す人相書きというのが、金田一さん、あんたにそっくりじゃ。そこで私がそのとおりだと答えると、その人はいよいよ驚いて、それはたいへんだ、あの男があだやおろそかのことで、獄門島みたいな離れ島へ来る気遣いはない。なにかきっと、大きなもくろみがあるにちがいない。清水君、気をつけにゃいかんぞ。その男から眼をはなしちゃいかんぞ。わしもそのうちに暇をみて、きっと一度行ってみるが……」  耕助はいよいよ驚いた。驚いたというよりあきれてしまった。まじまじと清水さんの顔を見つめながら、 「清水さん、そ、そしてその人は、いったいなんという人なんです」  清水さんはにわかに威厳をつくろった。|咳《がい》一咳、耕助の顔をまともににらみながら、 「|磯《いそ》|川《かわ》という警部ですよ。岡山県でも|古狸《ふるだぬき》といわれる、古い、腕|利《き》きの警部さんじゃよ」  耕助は突然、世にもうれしそうにガリガリと頭をかきはじめた。ガリガリ、ガリガリ、あまり猛烈に頭をかき回したので、ふけが霧のように散乱して、さすがの清水さんも|辟《へき》|易《えき》して、二、三歩あとへ退かざるをえない羽目になった。 「金田一さん、あんた磯川警部を御存じかな」 「し、し、知っていますとも、知っていますとも、そ、そ、それじゃ、あの人は健在なんですね」 「健在ですとも。警察のほうでも、だいぶ追放された人が出たが、あの人はどうやら無事らしい」 「そ、そ、そして、この島へ来るかもしれんというんですね」 「金田一さん」  清水さんはいよいよ疑わしげに、眼をしわしわさせて、 「あんた、どうした。泣いてるんじゃないか」 「いやあ、あっはっはっは」  耕助はあわてて指で眼をこすった。  もし諸君が「本陣殺人事件」を読んでくだされば、柄にもなく耕助がなぜ泣いたか、きっと同情をもって御了解くださるだろう。岡山県のさる農村で起こった、奇怪な密室殺人事件で、金田一耕助がデビューした際、いっしょに働いたのが磯川警部であった。だが、ただそれだけのことでは耕助といえども泣きはしなかったろう。問題は、あの事件と現在とのあいだに、ああいう大きな戦争をはさんでいるということである。多くの男は海の向こうのどこかへ持っていかれた。また残った者といえども、家を焼かれ四散して、ほとんど安否を知るよすがもないくらいであった。それがいまこの離れ小島で——耕助もなじみのうすい島の生活で、いくらか感傷的になっていたのだ——突然、旧知の消息をきかされたのだから、心機動揺して柄にもなくセンチメンタルになったのも無理はなかった。  清水さんは探るように耕助の顔を見ながら、 「金田一さん、あんた逃げいでも大丈夫かな」  と、心配そうに尋ねた。 「いや、逃げるのはよしましょう。逃げたところで、テンモーカイカイですからな。あっはっはっは」  耕助はうれしそうに笑った。清水さんはふうんと疑わしそうに鼻を鳴らして、 「実はな、金田一さん、今朝潮つくりの竹蔵から、昨夜の話をきいたとき、私はすぐにあんたをひっくくろうかと思った。昨夜磯川警部からきいたこともありますからな。あんたはたしかに警察の飯を食うたことのある人物ですな。それも警部の口ぶりからすると、よほどの大物にちがいない。……」  耕助はおかしさをかみ殺した。 「なるほど、なるほど、ごもっともで。しかし、まだ私をひっくくろうとなさらないところをみると、思い直されたとみえますね」 「それですて。私もいろいろ考えてみたが、たったひとつだけ、|腑《ふ》に落ちんことがありましてな。私の考えとあんたの立場はあべこべになっている。これが反対になっていたら、私は容赦なくあんたをひっくくるのだが」 「はて、反対というと?」  耕助は驚いて清水さんの顔を見直した。いったい、この好人物のお巡りさんの頭に、なにがえがかれているのだろう。  清水さんは困ったように、しわしわと眼をまばたきながら、 「あんたは、鬼頭の本家の千万さんの戦友でしたな。そして、千万さんの意をうけて、ここへ来られたのでしたな」 「そ、そうですよ」 「それが私には困るのですて。その反対に、あんたがもしも、分家の一さんの戦友で、一さんの頼みでここへ来られたんだったら、私の考えとぴったり合うから、すぐにもひっくくってしまうのだが」  耕助はまた驚いて、清水さんの顔を見直した。穴のあくほど凝視した。 「清水さん、それはいったいどういうわけです。分家の一さんの戦友なら、なぜ縛ってもよいのですか」 「金田一さん、おわかりにならんかな。本家の千万さんは死んでしもうた。これはもう公報が入っているからまちがいない。さて千万さんが死んだからには、鬼頭のものはいっさい一さんのものになるかというと、おっとどっこい、そうはいかん、そこにはまだ、月代、雪枝、花子という三人の娘がいる。これを片っぱしから順々に殺してしまわんことには——」  金田一耕助は、突然、背筋をつらぬいて走る冷たいものを感じた。かれはしばらく、かみつきそうな眼で、清水さんのひげ面をにらんでいた。それから押し殺したようなしゃがれ声でいった。 「わかりました。それではあなたのおっしゃるのはこうですね。私がもし、一さんの戦友で、一さんの意をうけてここへ来たものだとすれば、一さんから派遣された、一種の刺客としての疑いをうける可能性があるわけなんですね」 「そうです、そうです。私の考えたのはそれですて。しかしあんたは——」 「いや、ちょっと待ってください。しかしあなたのその考えにはちと納得のいきかねるところがありますよ。まず、第一に、ビルマにいる一君には、ニューギニアにいる千万太君の生死は絶対にわかりっこないということ。第二に、刺客をよこすとは、つまり共犯者をつくるなんてことは、とても危険なことですよ。それよりも自分がかえってきて、自分の手でこっそりやったほうが、よっぽど安全だと思いませんか」 「いや、私はそう考えません。むしろこれはいちばん安全なやりかたですよ。なぜって一さんがかえってきて、それから、鬼頭の娘たちが順ぐりに殺されてごろうじろ。すぐ一さんに疑いがかかる。しかし、いまなら、一さんはまだビルマにいるんだから、だれも絶対に疑やあせん。それにあんたも——あんたがかりに一さんの刺客として、じゃな——あんたも、鬼頭家にはなんのゆかりもない人だから、これまただれも疑うものはない。——」 「しかし、しかし、さっきもいったように、ビルマにいる一さんには、千万太君が死んだということは絶対にわかりようはない。——」 「だから、一さんはヤマをかけるんじゃ。千万さんの出征したことは一さんもよく知っている。こんな大きな戦争だから、千万さん、どこかで戦死しているかもしれんと考える。そこで一足さきにかえる戦友に万事を託す。もし千万さんが生きていればそれでよし、もし死んでいるようならば、自分がかえるまえに、生き残った三人の娘を殺してくれと。——いやいや、ひょっとすると、千万さんが生きてかえっていたら、それを一番に殺してくれと託したかもしれん——」  この恐ろしいことばが、好人物の清水さんの口から出るだけに、耕助のうける物すさまじい印象はいっそう深刻だった。耕助は歯をくいしばり、息をのんで、しばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》とあらぬかたを凝視していたが、やがて|瞳《ひとみ》を清水さんのほうへもどすと、 「しかし、清水さん、あなたのその考えはまちがっていたのですね。私は一さんの友だちではなくて、千万太君の戦友なんだから、そのことはあなたも認めてくださるでしょう」  清水さんはほうっとため息をついて肩をゆすった。 「認めますよ。実はさっき本家へ寄って、早苗さんにきいてきたんです。あんたの持ってきた添書、あれはたしかに千万さんの筆跡にちがいなかったかどうかと思ってね。早苗さんも勝野さんも、その点についてははっきり認めていましたよ。それで私はあんたを縛るのはやめにしました」 「それはありがとうございます。しかし、清水さん。あなたはなんだって、そんな恐ろしいことを考えたのです。一さんという人は、そんな恐ろしいことをやりかねない人物なんですか」 「私は知らん。なぜそんな恐ろしい疑いが、私の頭に宿ったのか私にもわからない。万事はこの、いまいましい獄門島のせいでしょうよ。なあ、金田一さん、いつかも言うたとおり、この島の住人どもは、みな常識では測り知れぬ奇妙なところを持っている。貝殻のような堅い|鎧《よろい》のなかに、本土の人々などの思いもよらぬような、変てこな考えを包んでおりますのじゃ。それにあの戦争ですて。みんな大なり小なり気がちごうている。こういう私も気がちごうているのかもしれん。そうでのうて、こんな恐ろしい考えが私の頭に宿るはずがない」  清水さんはそういって、かなしげに自分の首をなでながら左右へふった。  清水さんの考えは明らかにまちがっている。そのことはだれよりも耕助が、いままで一という人物に、一度も会ったことのない耕助が、なによりの証拠である。しかし、さりとて、清水さんのこの考えを、根も葉もない|妄《もう》|想《そう》だと笑殺し去ることができるだろうか。清水さんのこの考えのなかにこそ、最初にして、最後の、恐ろしい真実があるのではなかろうか。  耕助はまた|潮《しお》|騒《さい》のように、遠雷のように、おどろおどろととどろきわたる、千万太の臨終のことばを耳底にきいた。  ——獄門島へ行ってくれ。三人の妹たちが殺される。いとこが——いとこが—— 「やあ清水さん、御苦労さん」  耕助がぎっくりとしてふりかえると、お勤めを終わった了然和尚と了沢君が、本堂のほうからかえってきたところだった。ふたりとも寝不足のはれぼったい顔をしていた。 「了沢や、すぐに御飯の支度をしなさい。金田一さん、お腹がすいてるじゃろ」  それから和尚は清水さんのほうをふりかえると、 「清水さん、ひょんなげな事が起こったで、またあんたひと骨じゃ。死体は本堂のほうにあるが、すぐ御覧になるかな。ああ、そうか、それじゃ大急ぎで飯を食うてしまうで、待っていておくれ。金田一さん」  と、和尚は最後に耕助のほうへ向き直った。 「金田一さん、あんた夜が明けたら、足跡を調べてみると言うていなさったが、もう調べはすんだかな、ああ、朝寝坊をしていま起きたばかり——? あっはっは、これは無理のないところじゃて。だれしもゆんべは寝られやせん。あの騒ぎに、それにまたあの|嵐《あらし》じゃ。夜もすがら嵐をきくや裏の山。寺へ泊まった|曾《そ》|良《ら》の句そのままじゃな。曾良はあまり上手じゃないが、この句はすなおに感じが出ているて」  和尚はそれがくせの、古い俳句を引用すると、あっはっはっはと、寝不足のかわいた声で笑った。     待てば来る来る  まえにもいったとおり島の住人は信心ぶかい。金田一耕助は、はじめて寺へ泊まったそのつぎの朝、まだくらいうちから、お参りにくる善男善女の足音や、お祈りをする声や、がらがらと鳴る|鰐《わに》|口《ぐち》の音に眼をさまして、きょうはなんの御縁日かといぶかったが、その後わかったところによると、島ではそれが毎日の状態であった。漁に出るまえ、仕事につくまえにお寺参りをしてこなければ、島の住人は一日じゅう気が落ち着かないらしい。それは信仰というよりも、顔を洗ったり歯をみがいたりするのと同じで、毎朝の習慣みたいなものである。  しかし、さすがに今朝は清水さんの手配りがよかったとみえて、だれひとり山門からなかへ入ってくるものはなかった。じっとりと霧につつまれた寺内には人影もなかった。おかげで金田一耕助は、思わぬ朝寝坊をしたにもかかわらず、あたりを踏み荒らされずにすんだことをよろこんだ。 「金田一さんや、ともかく御飯をおあがり。ゆうべおそかったで腹がへったろう。清水さん、あんたもお茶でも召し上がれ。仕事はそれからのことじゃ」 「はあ、ありがとうございます」  寺の朝飯は簡単なものである。麦飯にみそ|汁《しる》、それにたくあんがふたきれみきれ。清水さんは靴をぬぐのをめんどうがって、台所のはしに腰をおろしたまま、|典《てん》|座《ぞ》の了沢君のくんで出した茶をすすっていたが、ふと思い出したように、 「そうそう、和尚さん、さっき竹蔵にきいたのじゃが、ゆうべの賊はお|櫃《ひつ》の御飯を、すっかりさらっていったというがほんとうかな」 「ほんとうじゃよ、きれいさっぱりさらっていきよった」 「了沢さん、御飯はどのくらい残っていたのじゃな」 「さあ、三人前の余もありましたろうか。ゆうべ本家でごちそうになることを忘れて、つい、うっかりと、いつもと同じに炊いておいたものですから」 「ふうむ、それをすっかり、えろうまあ|仰山《ぎょうさん》平らげたものじゃな。和尚さん、人殺しをすると、そんなに腹がへるものかな」  清水さんは大まじめである。耕助は思わずぷっと吹き出したが、その拍子に茶にむせそうになったので、あわてて湯飲みをおくと、 「ごちそうさま。さあ、それじゃこれから大飯食いの泥棒の、足跡を調べてみようじゃありませんか」  と、勢いよくちゃぶ台のまえから立ち上がった。  前にもいったように、勝手口のそとは高い|崖《がけ》がまぢかに迫っていて、いつもじめじめしているが、その代わり軒がふかいので、昨夜の豪雨にもかかわらず、足跡は流されもせずにそのまま残っていた。 「ああ、この|軍《ぐん》|靴《か》の跡がそうかな。そうと知ったら、もう少し気をつけて入ってくればよかった。なるほど、いったん入って、それからまた出ていっていますな」  その足跡は、昨夜の和尚や了沢君や耕助や、さてはまた、今朝の清水さんの足跡に踏み荒らされて、かなり|不明瞭《ふめいりょう》になっていたが、それでも内へむいた足跡と、外へむいた足跡とが、あちこちにくっきりと残っていた。 「清水さん、この島に軍靴をはいてる人がありますか」 「そりゃある。いくらでもある。ちかごろおいおい復員してくるものが多くなってきたし、それにさきごろ、軍靴の配給がありましたからな。あ、ちょっと、ちょっと、金田一さん」  足跡のうえに身をかがめていた清水さんは、不意にそういって、早口に耕助を呼んだ。 「ちょっとここを御覧、ほら、その足跡。|蝙《こう》|蝠《もり》みたいな格好をした傷がついているでしょう。それは土のぐあいでそうなったのかな。それとも靴の裏にそんな傷がついているのかな」 「ああ、なるほど、その足跡は右ですね。ちょっと待ってください」  耕助も身をかがめて、踏みにじられた足跡のなかから右の靴跡を探していたが、 「清水さん、それはやっぱり靴の裏についた傷らしいですよ。ほら、そこにもここにも——」  なるほど、耕助の指さすところを見ると、右の靴跡には濃淡の差こそあれ、どれにも蝙蝠のような格好をした傷跡が、|爪《つま》|先《さき》のところについていた。 「ふうむ、すると犯人のはいてる右の靴の裏には、こういう傷がついてるんですな。いや、こういう靴をはいたやつこそ犯人なんですな。ふむふむ、これはなによりの証拠ですて」  清水さんは自分の発見に大満足の|体《てい》だったが、そのときなのである。金田一耕助がはじかれたようにぎくっと身を起こしたのは。——その反射運動があまり急激だったので、清水さんは、びっくりしたように耕助の顔を見直した。 「金田一さん、どうしなすったのかな」  しかし、耕助はそのことばも耳に入らないかのように大きくみはった眼で、じっと|虚《こ》|空《くう》のある一点を見つめている。清水さんの顔には、ふいと疑いの影がかすめてとおった。 「金田一さん、金田一さん、あんたどうしなすった。ひょっとするとあんたは、こういう靴をはいた男を御存じじゃないのかな」 「ぼくが——?」  耕助はぼんやりと清水さんのほうをふりかえったが、相手の眼のなかにある疑惑の色を見てとると、にわかに首を左右にふって、 「め、めっそうもない。そ、そんなことがあるもんですか」 「しかしあんたはいま、この靴の跡を見てひどくびっくりなすったようじゃが」 「そうじゃないんですよ、清水さん、そうじゃないのです。ぼくがいまびっくりしたのは、——いや、その話はいずれ後にしましょう。それより外のほうを探してみようじゃありませんか」  清水さんの顔には、いよいよ疑惑の色が濃くなった。耕助はその視線をさけるようにして、こそこそと露地から外へ出ていったが、そのときかれは、この人のいい清水さんの心に疑惑の影を落としたままにしておくことが、後にいたっていかに重大な意味をおびてくるか、夢にも気がついていなかったのである。もしそのことに気がついたら、かれはなんのためらいもなく、いま発見した事実を清水さんに打ち明けたことだろう。耕助が発見した事実——それはこうなのである。  いま、清水さんにいわれて右の靴跡を探しているうちに耕助はふと、内へ向いた足跡のほうが、外へ向いた足跡より、はるかに多いことに気がついた。それのみならず、内へ向いた足跡のなかには、たしかに外へ向いた足跡のあとから踏みつけたと思われるものさえあった。  と、すればこれはいったいどういうことになるのだろう。足跡の主は外からやってきてまた出ていった。そこまではよいが、この足跡でみると、それからまた引き返してきているのである。さて、引き返してきた男は、それからどこへ行ったのだろう。二度出ていった足跡がない以上、そいつは|庫《く》|裏《り》のなかへ入っていったことになる。そして。——  と、そこまで考えてきたとたん、耕助の頭にさっとひらめいたのは、ゆうべ梅の古木をとりまいて立っていたときの、和尚の妙な素振りである。あのとき和尚は禅堂のほうを向いて立っていたが、なにに驚いたのか、不意にからんと音をたてて重い|如《にょ》|意《い》を取り落とした。如意を拾いあげるときも、和尚の指先はひどくふるえているようであった。ひょっとするとあのとき和尚は、禅堂のなかに何者かが——すなわち犯人が、いることに気がついたのではあるまいか。  そう考えてくると、それから後の和尚の挙動にも、いちいち疑えるところがある。そのことがあってから間もなく、和尚は耕助や了沢君をうながして、庫裏の勝手口へみちびいた。あの庫裏をまがるともう禅堂は見えなくなるが、あれは禅堂のなかにかくれていた人物に、逃げ出す機会をあたえるためではなかったろうか。さらに——と、耕助の胸はますます大きく騒ぐのである。さらに、そのあと、耕助が露地の足跡を調べておいて庫裏からなかへ入っていくと、和尚はそのときたった一人で本堂にいたのだが、ひょっとするとあのとき和尚は、ひとあしさきに禅堂へ行って、犯人の逃げ出した入り口のとびらに、なかからかんぬきをおろしておいたのではあるまいか。そうしておいて、そこに異状がないことを示すために、わざとあとからさりげなく耕助や了沢君を禅堂へみちびいたのではあるまいか。  そうだ、和尚は知っているのだ。犯人を知っているのだ。花子の死体を見つけたときの、あの気ちがい|云《うん》|々《ぬん》ということばといい、このことといい、和尚はたしかに犯人を知っているのだ。いや、知っているのみならず、わざと犯人を逃がしてやったのだ。——  とつおいつそんなことを考えながら、耕助はたんねんに寺の前庭を調べてまわったが、予期したとおりそこには、足跡らしい足跡はひとつも残っていなかった。元来が|花《か》|崗《こう》|岩《がん》|質《しつ》の山をきりひらいてつくった千光寺の|境《けい》|内《だい》は、日照りがつづくと|砥《と》|石《いし》のようにからんからんになるかわりに、ゆうべのような豪雨があると、いっぺんに土砂が流れてしまうのであった。耕助はとくにたんねんに、禅堂の付近を調べてみたが、そこにも足跡らしいものは発見されなかった。もっとも、本堂にも禅堂にも、泥靴の跡はなかったのだから、犯人がうえへあがったときには靴をぬいでいたことと思われる。だから、禅堂からとび出したときも、そいつははだしのままだったにちがいない。はだしの爪先歩きでは、たとい昨夜の豪雨がなかったとしても、足跡が残ったかどうか疑問であった。ただ、ひとところ、昨夜たばこの吸い殻を見つけた、本堂のまえの|賽《さい》|銭《せん》箱のかたわらには、五つ六つ、乾いた泥靴の跡が残っていた。そして、それらの靴跡のうち、右のほうにはみんな蝙蝠形の傷がついていた。 「ね、清水さん、犯人はしばらくここでやすんでいたんですよ。ほら、ここだと山門から一直線でしょう。石段は見えないが石段の下の道は見えますね、だからこの階段に腰をおろしていると、下からあがってくる姿がすぐ眼に入る。犯人はここで下のほうを見張りながら、煙草を吸っていたんですね」 「煙草——? 煙草を吸っていたなんてことがどうしてわかりますか」 「それはここに吸い殻が落ちていたからです。そうそう、そのことをあなたはまだ御存じなかったのでしたね」 「吸い殻が落ちていた——? そしてその吸い殻はどうしたのですか」 「それは拾い集めてとってあります。和尚の了然さんが見つけたんです」 「金田一さん」  清水さんは、すっくとばかりに胸をはって威厳をつくろった。心外にたえぬこの心持ちを、いかに表現すべきか、手段に苦しむというふうに、つとめて渋面をつくってみせると、 「あんたがたはこのわしを、いったいなんと心得とるんですか。かりそめにもこのわしは、島の治安をあずかる警官ですぞ。そのわしをさしおいて勝手に死体をおろしたり、吸い殻を拾い集めたり、それはいったいどういうことです。事件のあった場合、ことにこんな殺人事件の場合、現場をそのままにしておくということが、いかに大事なことか、それくらいのことがわからんあんたじゃないはずじゃ。それともあんたは、故意にわしの捜査の妨害を試みようというのかな」 「まあまあ、清水さん」 「なにがまあまあじゃ。さあ、その吸い殻を出しなさい。いや、出すばかりじゃいかん。ちゃんと元あったところへおいてもらいましょう」 「そ、そ、そんな無理な。——」 「なにが無理じゃ。吸い殻がどこにどういうふうに落ちていたか、——そこにどのような重大な意味があったかもしれん。それができんとあらば、あんたは証拠|湮《いん》|滅《めつ》の罪で逮捕されてもしかたがありませんぞ」 「ど、ど、どうしたんです。清水さん。なぜそんなに急に、邪険なことをいい出したんです。なにもあなた、そんながんこなことをおっしゃらなくたって。——あなたとぼくの仲じゃありませんか」 「なにがあなたとぼくの仲ですか。あんたとわしとどういう仲じゃというんですか。失敬なことをいわんといてください。あんたは素性も知れぬ|風《ふう》|来《らい》|坊《ぼう》、わしはれっきとしたこの島の警官ですぞ」  清水さんはここを|先《せん》|途《ど》と|威《い》|丈《たけ》|高《だか》になってみせた。耕助はすっかり当惑したかたちで、 「そ、そ、それはそうですが。——ああ、いらっしゃい。ちょうどよいところでした。これからお宅へお伺いしようとしたところですよ。いえなに、ぼくじゃありません。清水さんがそういってたところなんです。ねえ清水さん、そうでしたね」  そのとき、山門から入ってきたのは、分鬼頭のお志保さんであった。お志保さんのうしろには美少年の鵜飼章三もついていた。このとき二人でやってきたのは、耕助にとってはこのうえもない助け舟であった。耕助はなぜまたああも突然、清水さんの態度がかわったのか合点がいかなかったが、二人のおかげで、さしあたり清水さんの|鋭《えい》|鋒《ほう》をさけることができると思ったので、つとめてお志保さんにむかって|愛嬌《あいきょう》をふりまいた。そのことが、いっそう清水さんの疑惑をあおるとも気がつかずに。—— 「なにを二人で言い争っていらっしゃいましたの」  お志保さんは今朝はとくべつに、念入りにお化粧をしてきたのにちがいない。露のなかをちかづいてくるお志保さんの顔は、夕顔のようにほの白く美しかった。それにその歩きかただ。一歩一歩虚空をふむように歩をはこぶ彼女の姿態には、洗練されつくした技巧があって、全身から色気がにおいこぼれるようであった。 「いえなに、べ、別に争ってたわけじゃないんです」  耕助は例によってどもりそうになったので、あわててもじゃもじゃ頭をかきまわした。頭をかきまわすと、どもるのが改まるとみえる。 「あら、そう。そんならよござんすけれど——清水さん」  お志保は耕助に悩ましい|一《いち》|瞥《べつ》をくれておいて、さて改めて清水さんのほうへ向き直ると、 「あたし、変なことを耳にしたものだから、わざわざこうして出向いてきたんですよ」 「変なことって、な、なんですか」  清水さんもこの女と面と向かうと、耕助を相手にするのとは、だいぶ勝手がちがうらしい。いくらかへどもどした調子でそういうと、あわててごくりと生つばをのみこんだ。 「変なことって変なことですわ。あたしそのことについてみなさんに、ようくきいていただこうと思って、それで鵜飼さんをつれてきたんですよ。金田一さん、和尚さんは?」 「和尚ならここにいるぞ」  |方丈《ほうじょう》のほうから了然さんが、のっしのっしと本堂の縁側へ出てきた。 「お志保さん、おいで。儀兵衛どんはどうじゃな。少しは|痛《つう》|風《ふう》もよいほうかな。これよ、了沢、みなさんにお|座《ざ》|布《ぶ》|団《とん》をあげんかい。そちらの、なんとかゆうたな。そうそう鵜飼さん、あんたもここへ来てお掛け。なにもそんなに怖がることはありゃせんがな。おまえのようなきれいな|息《むす》|子《こ》を、かわいがりこそすれ、だれもとって食おうたあいやアせんぞな。はっはっは、ときにお志保さんや」  さすがのお志保さんも、とっさにことばが出なかった。どっかとあぐらをかいた了然さんの顔を、あきれたようにまじまじと見つめている。了然さんはすかさずことばをついで、 「いま向こうできいていれば、おまええらい権幕のようじゃな。皆さんにようく[#「ようく」に傍点]きいていただきたいことがあって——か。はっはっは。ようく[#「ようく」に傍点]きこうじゃないか。おまえ。なにかこの和尚にいうことがあるのかな。いうことがあるならなんでもおっしゃれ。それよ、向こうに花子もきいているで」  和尚はふとい指で本堂の奥を指さした。  鵜飼章三はそれをきくと、ふっと|眉《まゆ》|根《ね》をくもらせて、こっそりお志保さんの陰にかくれた。お志保さんもちょっと鼻白んだ気味であったが、すぐ顔じゅうに血の色をはしらせた。色が白いから紅潮するといっそう目立つのである。一瞬、火がついたように|瞼《まぶた》を染めて、|双《そう》|眸《ぼう》があやしく光った。しかし、お志保さんはすぐそのことを後悔したらしい。ここでむやみに興奮することは、とりも直さず負けである。お志保さんはだれに向かっても、|冑《かぶと》をぬぐことを好まない。 「ほほほほ、いやな和尚さん」  了沢君のすすめる座布団に腰をおろすと、お志保さんは甘い鼻にかかった声でかるくわらった。血の色もだいぶおさまったようだ。 「和尚さんにそんなふうにいわれると、あたしなにか、いいがかりでもつけに来たようにきこえるじゃありませんか。そりゃあたしこんながさつな女だから、口の|利《き》きかたも存じません。それにあたしだって、心外なことがあればちっとは興奮するだろうじゃありませんか。一寸の虫にも五分の魂ですもの」 「一寸の虫? おまえさんが? どうしてどうして、おまえさんは一寸の虫じゃない。虫は虫でも大きな大きな——」  お志保さんの|頬《ほお》にまた血の色がもどってきた。和尚はそれに眼をやりながら、 「いや、そんなことはどうでもええが、お志保さんや、心外なというのはなんのことじゃな」 「ええ、そのことですわ。昨夜ここで花ちゃんが殺されたんですってね。それについて村では変なことをいっているんですよ。なんだかあたしが鵜飼さんをそそのかして花ちゃんを呼び出させ、二人で殺したようなことをいってるんです。なんぼなんでも、それじゃあんまりじゃありませんか」 「なるほど、それはひどいことをいうもんじゃな。しかし、なあ、お志保さんや、たとえにもいうとおり、火のないところに煙は立たぬじゃ、お志保さん、おまえなにかそんなふうに疑われるようなことをしているのじゃないか」 「あたしが——? まあ、和尚さんまでそんなことをおっしゃって、あたし悔しゅうございますわ」 「いやいや、わしはなにも、おまえさんがたが花子を殺したとはいわぬ。しかし、花子が呼び出されたのは、たしかに鵜飼さんの手紙のためじゃからな」 「鵜飼さんの手紙——? まあ鵜飼さん、あんた花ちゃんに呼び出しをかけたの?」 「ぼくが花ちゃんに——? いいえ、そんな覚えはありません」  鵜飼は美しい|眉《まゆ》をひそめた。耕助はこのときはじめてこの男の声をきいたのだが、それは、すがたと同じように、細い、美しい、ふるえをおびた声だった。と、同時に、どこかよりどころのない、魂のおき場に迷っているようなひびきでもあった。 「和尚さん、鵜飼さんは覚えがないといってますよ。それ、なにかのまちがいじゃありません?」 「いや、これはわしのいいかたが悪かった。鵜飼さんが呼び出しをかけたのは花子じゃない。姉の月代じゃ。ところがどうしたはずみか、花子がその手紙を手に入れて、姉を出しぬこうとしてこの寺へやってきたのじゃな。了沢や、ゆうべの手紙を出しておくれ。ああ、これ、鵜飼さんや、これならおまえさんも覚えがあろうがな」  お志保さんと、鵜飼章三は顔を見合わせた。お志保さんはそれから少し体を乗り出して、 「まあ、それじゃ花ちゃんはその手紙を持って、——ええ、それなら覚えがありますわ。鵜飼さん、こんなことかくしたってしかたがないからいっちまいましょうよ。その手紙はあたしが口述して鵜飼さんに書かしたのですよ。だっていいじゃありませんか。鵜飼さんと月代ちゃん、似たもの夫婦ですもの。それをなんのかんのと難癖つけて、みんなで二人の仲をさくようにする。あたしそれが心外だから、なんとかしてこの恋をまとめてあげようとしているんですよ。ええええ、だれがなんたってかまやあしない。あたし、きっと、二人の仲をまとめてみせるつもりでいますよ」  お志保さんのことばはいたっておだやかである。しかしそのおだやかなことばの底には、この女の鋼鉄のような強い意志と、悪意にみちたドス黒い決意が見られるのである。 「いや、それはけっこうなことじゃ。おまえさんがなにをしようとそれは勝手じゃが、しかし、鵜飼さんや、そうするとおまえさんもゆうべここへ、——この寺へ来たことはたしかじゃな。いや、現におまえさんがつづら折れをのぼってくるところを見たものもあるのじゃが」  鵜飼はちょっとたゆとうような色を見せたが、お志保さんの視線にうながされて、一歩和尚のまえへ出た。そして、まぶしそうに一同の視線をさけながら、おどおど口ごもりつつこんなことをいうのである。 「ええ、まいりました。実は、そのことについて、誤解があってはならぬと思ったものですから、それで、そのことをいいに来たのです。ぼく、そういう手紙を出しておいたものだから、きっと、月代さんが来てくれるものと思って、ここへ来て待っていたんです。ところが、半時間待っても、一時間待っても、月代さんが来ないものだから、それで、ぼく、あきらめてかえったのです。ぼくの話というのはそれだけのことなんですが」 「ああ、ふむ、なるほど。それでおまえさん、そのあいだに、どこかで花子を見かけやあしなかったかな」 「いいえ、一度も。ぼくは花ちゃんがここへ来るなんてこと、夢にも思いませんでした」 「いったい、おまえさんは何時ごろここへ来たんじゃな」 「何時ごろか、時間のことはよく覚えておりませんが、ぼくが家を出たのは、こちら——」  と、耕助のほうをふりかえって、 「金田一さんが分鬼頭を出てからすぐあとのことでした。このつづら折れの下で、金田一さんが、うえからおりてこられた和尚さんたちに出会って、本鬼頭のほうへ行かれた。そのうしろ姿が見えなくなってから、ぼくはつづら折れをのぼってきたのです。そして、どのくらいここにいたか、正確なことはわかりませんが、あきらめて家へかえると間もなく、八時が鳴りましたから、たぶん七時半ごろまで、待っていたのだろうと思います」 「ふうむ、そして、そのあいだ、花子のすがたを見なんだとすると、あの娘はいったい、どこにいたのじゃろうな」  和尚はあごをなでながら、一同の顔を見渡した。だれも口を利こうとする者のないなかに、お志保さんがまた少しひざを乗り出して、 「どっちにしても、それは鵜飼さんの知ったことじゃありませんわ。ねえ、このひと、花子ちゃんを殺さねばならぬ理由は少しもありませんし、それに第一、そんな度胸のあるひとじゃありませんものね」  さっきから、和尚とお志保さんの勝負をおもしろそうに見ていた耕助が、そのときはじめて口をひらいた。 「ちょっと鵜飼さんにお尋ねしますが、あなたはここで月代さんを待っているあいだに、煙草を吸やあしませんでしたか」 「煙草? いいえ、ぼくは煙草を吸いません」 「ゆうべ、あなたは和服でしたか。洋服でしたか」 「和服でした。ぼく、ろくな洋服は持っていないんです」 「でも、洋服は持ってることは持ってるんですね。すると靴なども——軍靴とちがいますか」 「ええ兵隊靴です」 「清水さん、念のためにあとでその靴を見せていただくといいですね。たぶん、そうじゃないと思いますが、——ところで、鵜飼さん、最後にもうひとつお尋ねがあるんですが、月代さんへ出した手紙ですがね、あれはどういうふうにして渡されたのですか。どうしてその手紙が花ちゃんの手に入ったのでしょうね」 「それは——」  鵜飼はまたちょっとためらったが、お志保さんの視線にうながされて少し|赧《あか》くなりながら、 「ぼくたち、月代さんとぼくが手紙をやりとりするときは、いつも|愛《あい》|染《ぜん》かつらの幹に入れておくんです。その幹に、小さいうつろがありまして、そこへ手紙を入れておくことにしているんです」 「愛染かつら?」  一同は思わず眼をみはった。耕助はうれしそうにがりがり頭をかきまわしながら、 「それはまた、ロマンチックなことですね。しかし、愛染かつらなんて木が実際にあるんですか」  鵜飼はまたちょっと赧くなった。 「ぼく、よく知りません。ひとにきくとそれはのうぜんかつらだというんですが、月代さんは愛染かつらだといってきかないんです。このつづら折れの、下の谷のやぶのなかにその木があるんです。七月ごろ、赤い、かわいい花が咲きますので、月代さんは、この木にちかいを立てておくと、仕合わせが来るといって——」  川口松太郎君つくるところの「愛染かつら」は映画になって、日本じゅうの女の子の紅涙をしぼらせた。「待てば来る来る愛染かつら」の歌は、いまもなお全国津々浦々にいたるまで歌われている。獄門島に映画館はなかったけれど、笠岡にその映画が来たときには、別仕立ての舟を仕立てて、島じゅうの娘さんが見にいったそうである。そのなかでもいちばん熱心なファンは、本鬼頭の三人姉妹で、かれらは笠岡の知り合いの家に|逗留《とうりゅう》して、その映画が上映されているあいだじゅう、毎日泣きに出かけたのであった。 「なるほど」  と、清水さんが感にたえたようにつぶやいた。 「待てば来る来るというわけですな。ところが昨夜は愛染かつらの効能もなく、月代さんは待てば来る来るというわけにはいかなんだ。いかなんだも道理、花ちゃんがその手紙を横取りしていたんですな。鵜飼さん、花ちゃんはあんたがたの秘密を知っていたんですね」 「そうでしょう、きっと。本家の三人姉妹のなかでは、花ちゃんがいちばんしつこいんですものね」  そういったのはお志保さんであった。 「いや、これで花ちゃんが、どうしてあの手紙を持っていたかがわかりましたが、——ああ、あそこへ村長がやってきましたよ」  村長の荒木真喜平氏は、相変わらずむつかしい顔をして、きっと口をへの字なりに結んだまま、山門からなかへ入ってきた。あとから竹蔵もついてきた。 「清水さん、どうも困ったことで、——電話はまだ通じないようじゃ」  村長は一同にかるく目礼すると、清水さんのほうを向いてそういった。 「電話? 電話がどうかしたのかね」  和尚は尋ねた。 「いいえね、実は今朝、事件をきくと、すぐ本署に連絡しようとしたんですが、あいにく故障らしくて通じないんです。それで、村長さんにたのんできたんですが、電話が通じないとすると困りましたな。だれかに行ってもらうか、それとも連絡船にことづけるか。——どっちにしてもおいそれというわけにはいきません。村長さん故障はなかなかなおりそうにありませんか」 「海底に故障があるとすると、ちっとやそっとでは、——それで、本署からひとが来るのがおくれるとすると|仏《ほとけ》をいつまでもここへおいとくわけにもいかず、一応、本家へ引き取ったほうがよくはないかと思って、戸板をつらせて来たのじゃが和尚さん、こらどうしたもんでしょうな」 「そうよなあ。ゆうべのことは、みんなもよく見ているから、証人に不自由はない。これは清水さんの考えしだいじゃが、引き取ってもらってもええように思うな」  清水さんははなはだ当惑な面持ちであったが、談合のすえ、結局花子の死体はひとまず本家へ引き取ることになった。  こうして獄門島の第一の犠牲者は、それから間もなく戸板にのせられて、千光寺の山を下っていったが、第二の犠牲者が見えなくなったのは、実に、その晩のことであった。     |冑《かぶと》の下のきりぎりす  床屋の清公はいつかこんなことをいったことがある。 「あっしゃこう思うンですがね。もともとこの島の人間たちゃア、海賊の子孫と島流しに会った罪人とがなれあってできたもンだというんですが、あっしゃそのうえにもうひとつ、平家のおちゅうどの血がまじってやアしねえかと思うンです。それというのがあのお志保だ。ありゃアどう見たって中国筋の人間じゃねえが、ああいう化け物がひょいひょい現われるンだから、やっぱり先祖の血はあらそわれませんや。ありゃアきっと、平家の|上《じょう》|臈《ろう》か|公《きん》|達《だち》の血が、何百年かたって、ひょいと現われやアがったにちがいありませんぜ。早苗さんだって、そうだ。あのひとは、ま、お志保にくらべりゃア、だいぶこのへんの人間になってますが、それにしても、若いに似合わず|気位《きぐらい》のたかいところや、おっそろしく気の強いところが尋常じゃねえ。そういっちゃ悪いが、早苗さんだってやっぱり化け物のひとりですぜ」  清公は方々渡りあるいているだけあってなかなかの物知りである。遺伝学の法則をちゃんと心得ているからえらい。  金田一耕助は興味をもってこの議論を傾聴したものだが、こんにちになってみると、ますます清公に敬意を表せざるをえない。  まったく、花子の死体がかつぎこまれたときの、早苗の態度こそあっぱれであった。むろん彼女は|蒼《あお》ざめていた。|瞳《ひとみ》もいくらかうわずっていたようである。しかし、けっして取り乱してはいなかった。かえって、年がいもなくおろおろしている勝野さんをたしなめたり、手ばなしで泣きわめき、おののいている月代や雪枝をなだめたりすかしたりしながら、いちいち竹蔵に指図している彼女を見ると、なるほどと耕助は清公のことばを思い出さずにはいられなかった。まったくそのときの早苗の態度振る舞いには討ち死にした一族をむかえるサムライのけなげさがあった。いまや彼女は|繊《せん》|手《しゅ》をもって落日の孤城をささえているのである。 「で……?」  やがて花子のなきがらを仏間におさめた一同が、座敷にまるく集まると、早苗は物問いたげな眼できっと和尚の顔を見た。その瞳には無限の|恨《うら》みと憤りがこもっている。和尚はぎごちなくしわぶきすると、 「いや、どうも……ひょんなことができてしもうて、おまえさんにも申しわけがない」  と、大きな手のひらでつるりと顔をなでた。村長の荒木さんがそれにつづいて、重っくるしく口をひらいた。 「こういうことができてみれば、千万さんの葬式もまた延ばさねばなるまいな」  早苗はくるりとそのほうへ振り向くと、きっと村長の顔を見つめながら、 「いいえ、そんなことどうでもいいのです。それよりも、だれがこんなことをしたんです。だれが——だれが花ちゃんにこんなむごいことをしたんです」  だれもそれにこたえる者はなかった。シーンとした沈黙が座敷のなかにおちこんできた。妙にぎごちない、底意のある沈黙で、耕助にはだれもかれもが、胸にいちもつ抱いているように感じられてならなかった。やがて医者の幸庵さんが、|山《や》|羊《ぎ》ひげをふるわせながら、 「それがわかれば世話はないが……」  と、がっくりとやせた肩を落とした。 「いいえ、それがわからないはずはありません」  早苗はくるりと幸庵さんのほうへ向き直ると、 「ここは東京や大阪のような大都会じゃありませんのよ。人間のかずだって知れています。それにまわりが海だから、ほかから人が来るなんてこともありません。だから、だれが花ちゃんを殺したにしろ、それは島の人間にちがいないんです。いいえ……」  と、そこで早苗はふといいよどむと、ちらりと耕助のほうに眼をやって、 「この島の人間か、いま島にいる人にちがいないのです。それで犯人がわからないなんて……そんな……そんな……和尚さん」 「ふむ、なんじゃな」 「花ちゃんは、あのひとの……鵜飼というひとの手紙をふところに持っていたというじゃありませんか」 「さあ、そのことじゃて。花子がここをぬけ出して、こっそり寺へ行ったのは、たしかにその手紙のせいらしいが、といって、あの男があんな恐ろしいことをしようとは思えんでな。第一、あの男に花子を殺さねばならんようなわけはひとつもない」 「なぜ、なぜ、なぜですの。ええ、そりゃア鵜飼さんにわけはなくても、あのひとのうしろについているひとたちはどうですの。儀兵衛さんやお志保さんはどうですの。あのひとたちは……あのひとたちなら……」 「早苗!」  不意に和尚がするどい声で|一《いっ》|喝《かつ》した。早苗ははっとひるんだように和尚の顔を見たが、すぐ|蒼《あお》ざめた顔をうなだれた。和尚はいくらか声をやわらげると、 「めったなことをいうものじゃない。そりゃ、ま、おまえが興奮するのも無理はない。いまのおまえの気持ちでは、むやみに人を疑うてみたくなるのも人情じゃ。しかし、めったなことはいうまいぞ。なにしろ相手はああいう人間じゃで、そんなことをきくと、どのような|尻《しり》を持ってこないものでもない。おまえがキナキナ思わないでも、あいつらにうしろぐらいことがあるのなら、警察のほうでちゃんとええようにしてくださる。なあ、清水さんそうじゃあるまいか」 「いやア、——そ、それはそうです。和尚さんのおっしゃるとおりです。れっきとした証拠さえあれば、相手が網元であろうが、網元のおかみさんであろうが|容《よう》|赦《しゃ》はしません。きっとひっくくってみせますから、まあ、そうヤキモキせえでもよろし」  清水さんは無精ひげをつまぐりながら威厳をつくろったが、早苗はそういう清水さんを信用しないのか、うつむいたままくちびるをかんでいる。ひとしずくポトリと涙がひざのうえに落ちた。耕助がひざを乗り出したのは、そのときである。 「そう、その証拠ですがね。われわれはなにをおいても証拠を収集しなければなりませんが、それについて早苗さん、あなたにひとつ見ていただきたいものがあるんですが」  耕助がふところから取り出したのは、例の煙草の吸い殻である。清水さんはそれを見ると、ふんふんと不平らしく鼻をならして、不満の意思表示をした。和尚と幸庵さんは眼を見交わしている。村長の荒木さんは例によってきっとくちびるをへの字なりにむすんだままひとり正面をきっていた。  早苗は不思議そうに|眉《まゆ》をひそめて、 「その吸い殻が……?」 「ええ、この吸い殻。……これについてあなたにお尋ねしたいことがあるのです。これ、あなたが、奥にいられる……つまり、その御病人のために巻いてあげたものでしょう」  早苗はこっくりうなずいた。 「ところが、この吸い殻は、千光寺の|境《けい》|内《だい》に落ちていたんですよ。つまり、花ちゃんの死体のすぐそばにですな」  早苗はぎょっとしたように大きく眼をみはった。そしてしばらくあきれたようにまじまじと耕助の顔を見つめていたが、しだいに息をはずませると、 「だって、だって、そんなバカなこと……ああ、そうだわ。そういう字引き持ってるの、なにもうちばかりとは限らないわ。ほかにも持ってる人があるかもしれないわ。だから、それ、ほかの人の煙草にちがいないわ」 「そ、そ、そのことですよ。そのことですよ。それをこれから確かめてみようと思っているんですよ。あなたがいちばん最近、|伯《お》|父《じ》さんに煙草を巻いてあげたのはいつのことですか」 「昨日……ええ、昨日の夕方のことですわ」 「何本?」 「二十本でした」 「そうですか、それじゃちょっと奥へ行って……いや」  なにを思ったのか耕助は、そこでむやみやたらともじゃもじゃ頭をかきまわすと、 「こ、こ、こんなことをいっちゃ失礼ですがね、ど、ど、どうでしょう、ぼくをそこへ連れていってくれませんか。別にあなたを疑うわけじゃありませんがね。こ、こ、これは大事なことですから」  と、どもりどもりそういうと、ごくりとつばをのみこんだ。和尚も村長も幸庵さんも、これには驚いたらしい。あきれたように耕助の顔を見まもっている。清水さんはまたふうんと不満の意思表示をした。  早苗もびっくりして、さぐるような眼でしばらく耕助を見ていたが、やがて、 「どうぞ」  と、口のうちでつぶやくようにいうと、みずから席を立った。 「早苗さん、大丈夫かな。そんなことをして病人の気にさわりはせんかな」  村長が気づかわしそうにいった。 「ええ、静かにしていてくだされば大丈夫と思います。伯父さま、よく寝ていらっしゃるようでしたから」 「よし、じゃ、わしも行こう」  和尚もやおら席を立った。 「清水さん、あなたもいらっしゃい」  耕助がそう誘うたので、結局、村長と幸庵さんのふたりを残して、あとはみんな行くことになった。  耕助も座敷まではたびたび来たことがあるが、そこから奥へ入るのはこれがはじめてである。うえから見てもわかるとおり、この家はまったく迷路のようであった。つぎからつぎへとつぎ足した廊下は、おりるかと思えばまたあがり、うねりくねりと曲がっていて、いかさま嘉右衛門さんの栄華のほどもしのばれた。途中でおいてけぼりをくらったら、果たして無事にもとの座敷へかえれるかと思われるほどである。やがて廊下がつきて、そのさきに渡り廊下がついていた。  ここまで来ると早苗は一同をふりかえって、 「ちょっとここで待っていてください。伯父さまの様子を見てきますから。……」  そういいすてると、小走りに渡り廊下をわたっていった。  耕助は渡り廊下の腰板にもたれて、物珍しげな眼でそとをながめている。霧はまたこまかな雨となって、降るともなく、しとどに庭をぬらしている。その庭をこえたはるか向こう、いちだん小高くなったところに、こけらぶきの家が一軒たっている。それはいつか和尚がうえから指さして、|祈《き》|祷《とう》|所《しょ》といったあの建物であるらしかった。耕助はその祈祷所から順繰りに、庭をこえて渡り廊下のしたまで視線を落としてきたが、そこで、なにを見つけたのか、ぎょっとしたように身を乗り出した。だが、ちょうどそこへ早苗がかえってきたのである。 「ああ、どうぞ。……でも静かにしてくださいね。伯父さま、よく寝ていらっしゃいますから」 「ああ、ふむ、よう心得とる」  和尚は早苗のあとについて渡り廊下をわたっていく。清水さんがそれにつづこうとすると、耕助がぐいっと|肘《ひじ》をとって引きもどし、なにごとか耳のそばでささやいた。それをきくと清水さんはびっくりしたように眼をみはり、あわてて渡り廊下のしたをのぞいた。 「じゃ……お願いしましたよ」  耕助は清水さんをそこに残したまま、ひとりで渡り廊下をわたっていった。渡り廊下がつきると、そこで廊下は|鉤《かぎ》の手に曲がっており、それを曲がったところに与三松の|座《ざ》|敷《しき》|牢《ろう》があった。  座敷牢、——と、こういうことばから、耕助がなにか陰惨な風景でも予期していたとしたら、かれは失望しなければならなかっただろう。もちろん座敷いっぱいに太い格子がはまっており、そのこと自身が陰惨であることはいなめないが、座敷のなかは思ったよりもはるかに小ザッパリとしており、通風採光とも申し分がない、広さも十畳ぐらいはたっぷりあり、床の間もあるし|床《とこ》|脇《わき》のちがい|棚《だな》も気がきいている。つまり廊下をへだてる格子さえなかったら、ふつうの——と、いうよりもむしろぜいたくな座敷であった。おまけに、板戸をひらけばその向こうに、便所や洗面所もついているらしく、座敷牢としてはおそらく最上のものであろう。  与三松はその座敷牢の中央に、|枕屏風《まくらびょうぶ》を立てて眠っていた。ひげは少しのびているが、髪は刈ってあるし、あかもついていないし、そうして静かに眠っているところを見ると、気の狂った人間のようには見えなかった。仰向きに寝ている横顔や鼻のたかいところが、復員船のなかで死んだ千万太によく似ている。  早苗は格子のそとにぶらさがっている、うぐいす|竿《ざお》のような長い竿をとりあげた。その竿のさきには|鉤《かぎ》の手に曲がった金具がとりつけてあって、物をひっかけるようにできている。早苗はそれを格子のあいだから突っこむと、与三松の枕元にある盆の取っ手にひっかけた。盆のうえには灰皿と煙草入れがのっかっている。早苗は竿をたぐって、するすると盆をてまえにひきよせた。格子をひらくまでもない用事のときには、彼女はいつもこうして用をたしているらしい。盆が格子のそばまで来ると、早苗は煙草入れをとり、無言のまま、それを耕助にわたした。煙草入れのなかには煙草が六本、 「ついでに灰皿も……」  耕助がささやくと、早苗はすぐ灰皿をとって耕助にわたした。耕助は灰皿のなかの吸い殻を懐紙のうえにあけながら、 「この灰皿を掃除したのは……?」 「昨日の夕方、煙草を巻いてわたすとき……」 「そのときわたした煙草は二十本ですね」  早苗はこっくりうなずいた。耕助はうれしそうにがりがり頭をかきまわしながら、 「ところが、ごらんなさい。煙草は六本、吸い殻は五つ、合計十一しかありません。それに……」  だが、そのときである。ふたりのささやきが耳に入ったのか、与三松がむっくり寝床のうえに起きなおった。 「あら、伯父さま、……お眼覚めになりまして?」 「与三松さんや、気分はどうじゃな」  和尚は大きな体で耕助の姿をかくすようにした。  与三松は寝床のうえに座ったまま、ぼんやりと和尚と早苗の顔を見くらべている。千万太の年齢からいってもその人は五十の坂を相当越えていなければならぬはずだのに、見たところは四十そこそこである。運動不足のせいかぶくぶく太って、ネルの寝間着を着た肩など、まるまると盛りあがっている。あぐらをかいた脚なども、|脚《かっ》|気《け》のようにむくんでいた。それに、生気のない|肌《はだ》の色、光をうしなった眼つき、なるほど、一見して気ちがいである。  耕助はちょっと失望の色を見せたが、そのときである。向こうのほうからはじけるようなわらい声がきこえてきた。月代と雪枝なのである。きゃっきゃっとふざけまわる声、げらげらとわらいころげる音。—— 「あっ、いけない!」  そのとたん、早苗が叫んだ。 「和尚さん、和尚さん、その方をつれて早く向こうへいらして……」  なにがいけないのか耕助にも、すぐその理由がのみこめた。月代と雪枝の声がきこえた瞬間、与三松の顔つきががらりとかわったのである。光をうしなった眼のなかに、けだもののような殺気がほとばしった。髪の毛が逆立って、たるんだ頬がすさまじく|痙《けい》|攣《れん》した。 「金田一さん、向こうへ行こう」  和尚に手をとられて渡り廊下までひきかえしてくると、がたがたと格子をゆすぶる音がきこえた。けだもののようなあらっぽいうなり声がする。それにまじってきこえる早苗の声は、いまにも泣き出しそうである。 「ど、どうしたのです。あの騒ぎは……」  渡り廊下をうろうろしていた清水さんは、驚いたように和尚に尋ねた。それから意味ありげに耕助にむかってうなずいた。 「なあに、気ちがいさんがあばれ出したんじゃよ。ああなるとほかのものでは手におえん。早苗だけじゃ、あの子は不思議に気ちがいをよう手なずけとる」  三人が元の座敷へもどってくると、村長の荒木さんと幸庵さんが、だまりこくったまま座っていた。 「和尚さん、また病人があばれ出したようじゃな」  幸庵さんはおびえたような眼の色をしている。村長は相変わらずむっつりしていた。どこかでまだ、月代と雪枝のわらい声がする。和尚はにがにがしげに眉をひそめて、 「あれも困ったものじゃが、あの声をきくといきり立つ気ちがいにも困ったものじゃ、現在親子でありながら……因果なものじゃな」  と、吐き出すようにつぶやいた。 「ときに金田一さん、煙草のことはどうなりました」  そう尋ねたのは清水さんである。 「そのことですがね」  と、耕助は二包みの吸い殻と六本の煙草を取り出すと、 「やはりこれは同じものですよ、ごらんなさい。この煙草はDのページで巻いてあるでしょう。ほら、dum'dum, dummy, dump というふうにつづいています。ところが寺でひろった吸い殻にも dumping, dumpish, dumpling という字が見えているんです。だから寺でひろった吸い殻は、だれがあそこで吸ったにしろ、たしかに昨日早苗さんが巻いた二十本のうちの一部にちがいないのです。それに……清水さん、あの足跡はどうでした」  清水さんは困ったようにひげ面をしかめながら、 「それが、その……どうも妙ですな。たしかにあの足跡にちがいないのだから、……ええ、そう、寺で見つけたやつと、たしかに同じ足跡があるんです」 「足跡……?」  和尚が不思議そうに眉をひそめた。 「ええ、そうですよ、和尚さん、さっきぼくが清水さんと、寺に残っている足跡を調べていたことは御存じでしょう。ところがそれによく似た足跡が、たったひとつですが、渡り廊下のしたに残っているのを、さっきぼくは見つけたんです。それで清水さんに調べてもらったんですが……」  それをきくと和尚や幸庵さんはいうに及ばず、日ごろめったに顔色を動かしたことのない荒木さんまで、思わず大きく眼をみはった。 「そして……そして、それが寺にある足跡と、同じ足跡だというのじゃな」  清水さんはぎごちなくうなずいた。三人は|呆《ぼう》|然《ぜん》として顔を見合わせていたが、やがて和尚がひざを乗り出すと、 「しかし、清水さん、そうするとこれはどういうことになるのじゃな。まさかあの気ちがいが……」  耕助はさぐるように了然さんの顔を見ながら、 「それはぼくにもわかりません。しかし、それがだれにしろ、昨夜たしかにこの家から、千光寺へのぼっていったものがあるのです」  和尚と村長と幸庵さんは、また|茫《ぼう》|然《ぜん》とした顔を見合わせている。…… 「金田一さん、どうです。ちょっと駐在所へ寄っていきませんか。いろいろ御相談したいこともあるから……」  それから間もなく、三人をあとに残して表へ出ると、清水さんがそういって耕助を誘った。霧雨はもうやんでいたが、相変わらず雲はひくく垂れさがって、いまにも雨が落ちてきそうである。 「そうですね。じゃ、ちょっとおじゃましましょうか。電話はまだ通じないかしら」  駐在所は坂をくだった部落のはずれにある。そこは島でもいちばんにぎやかなところで、村役場も清公の床屋もそこにある。二人が駐在所へ入っていくと、もう電気がついていた。 「おや、もうそんな時刻ですか」 「なに、お天気が悪いから、日の暮れるのが早いんですよ。お|種《たね》、お種、お客さんだよ」  清水さんの奥さんはお種さんといって、小柄な愛想のよいひとで、清水さんに似た好人物である。しかし、そのお種さんは留守らしく、奥からはなんの返事もきこえなかった。 「はてな、いないのかな、いったいどこへ行きおった。……」  清水さんはぶつぶついいながら、狭い通路をとおって奥のほうへ行ったが、しばらくするとけたたましい声がきこえた。 「金田一さん、金田一さん、ちょっとこっちへ来てください」 「はあ? どうかしましたか」  狭い通路はトンネルのように暗かった。手さぐりでそこをくぐりぬけていくと、四坪ほどの庭があり、その庭の向こうに小さいながらもがっちりとした建物がある。留置場である。 「清水さん、清水さん、どこにいるんです」 「こっち、こっち……」  清水さんの声は留置場のなかからきこえる。耕助は何気なくそのなかへ入っていったが、するとだしぬけにだれか、どんと背中を突いた。耕助は不意をつかれて、思わず二、三歩よろめいたが、そのとたん、うしろのドアがばたんとしまって、いかにもうれしそうな笑いごえがきこえた。 「し、し、清水さん、な、な、なにをするんです」 「まあ、よろしい。お気の毒じゃが、本署からひとが来るまで、しばらくそこで|窮命《きゅうめい》してもらいましょう」 「し、し、清水さん、あなたは気でもちがったんじゃありませんか。どういうわけで、ぼ、ぼ、ぼくを……」 「は、は、は、それはあんたの胸にきいてごろうじろ。どうもあんたの様子はおかしい。風来坊のくせに|探《たん》|偵《てい》みたいにうそうそとほっつき歩いて……吸い殻だの、足跡だのと、わしの|腑《ふ》に落ちぬことばかりじゃ。まあまあ長いことじゃない。明日は電話が通じて、本署からひとが来るじゃろう。それまでの御辛抱じゃ。特別のはからいで、夜具も入れておいてあげた。いまに御飯も差し入れてあげる。まさか干し殺すようなことはないで、大船に乗ったような気持ちでいなされ。はっはっは」  清水さんはこれでやっと肩の荷がおりたというふうに、陽気な笑いごえをあげると、耕助がなんといおうとも耳にも入れず、そのまま向こうへ行ってしまった。 「バカ、バカ、清水さんのバカ、あんたはとんでもない勘ちがいをしてるんです。ぼくはそんなものじゃない。ぼくは……ぼくは……」  しかし、もうなんといってもむだである。清水さんは耕助を、怪しきものと信じきっているのだし、第一、その場にいないのだからお話にならない。泣けど叫べどねえという歌のとおりであった。  耕助は|地《じ》|団《だん》|駄《だ》をふみ、こぶしをかためてドアをたたき、あらん限りの悪態をついていたが、やがてそういう自分がしだいに|滑《こっ》|稽《けい》になってきた。清水さんの妙な勘ちがいが愉快になってきた。はてはおかしさがこみあげて、とうとうその場にわらいころげてしまった。  だから、それから間もなくお種さんが、晩飯を差し入れに来てくれたときにも上きげんであった。かえってお種さんのほうが、薄気味悪く思ったくらいである。晩飯をくってしまうと、清水さん特別のはからいであるところの寝床をのべて、ごろりと寝ころんだ。すると昨夜の睡眠不足も手伝って、すぐかれは深い眠りに落ちてしまった。だからその晩、どんなことが起こったか、かれは少しも知らなかったのである。  その耕助がふと眼をさましたのは、けたたましい電話のベルをきいたからである。 「ああ、電話が通じたな」  耕助がむっくりと首をあげると、まぶしいばかりの陽の光がきらきら窓からさしこんでいる。夜が明けて、しかも今日は上天気である。耕助はのんきらしく手足をのばして、せいいっぱいあくびをしたが、すぐ気がついて電話の声に耳をすました。早口になにかしゃべっているのは清水さんらしいが、ことばの意味はききとれなかった。やがて電話がきれると、コツコツという靴音が近づいてきて、間もなく清水さんの顔がのぞき穴のむこうにあらわれた。 「あっはっは、清水さん、ひどいよ、ひどいよ。だまし討ちは|卑怯《ひきょう》だよ」  清水さんはむずかしい顔をして、探るように耕助の様子を見つめていたが、やがてぎごちなくせきをすると、 「金田一さん、あんたゆうべ、ここから出やあせんだろうな」 「ぼくがここを……? あっはっは、冗談いっちゃいけませんよ、あなたがちゃんと錠をおろしていったのじゃありませんか。ぼくは忍術つかいじゃないから……」  だが、そこで耕助ははたと口をつぐむと、清水さんの顔を見直した。清水さんはおそろしく|憔悴《しょうすい》している。無精ひげはいつものことだが、眼がおちくぼんで血走っているのは、ゆうべ寝ていない証拠である。 「し、し、清水さん、な、な、なにかまたあったんじゃ……」  そのとたん、清水さんの顔が、ベソをかくようにゆがんだが、すぐガチャガチャと錠をはずす音がきこえた。 「金田一さん。わしはあんたにすまんことをしたのかもしれん。とんでもない勘ちがいをしていたのかもしれん……」 「清水さん、そ、そんなことはどうでもいい。それよりなにが起こったのです。ど、どんなことが持ち上がったのです」 「いっしょに来てください。来ればわかります」  駐在所を出るとふたりは分鬼頭のほうへむかった。行き交うひとびとの顔色から、なにかまた|椿《ちん》|事《じ》が持ち上がったらしいことが、耕助にもすぐ感じられた。分鬼頭のまえの坂をのぼっていくと、|天《てん》|狗《ぐ》の鼻といって海に面した平地のあることはまえにもいっておいた。いつか清水さんが双眼鏡で海賊の見張りをしていたところである。その岩のうえにおおぜいひとがむらがっているのが見える。  和尚の了然さんもいる。村長の荒木さんもいる。医者の幸庵さんもいる。幸庵さんは、どういうわけか、左腕を首からつるしている。早苗もいる。勝野さんもいる。竹蔵もいる。了沢君もいる。それから少しはなれたところにお志保さんもいる。鵜飼君もいる。お志保さんと鵜飼君のあいだに立っている人物は、耕助もはじめてだったが、おそらくそれが儀兵衛さんであろう。|胡《ご》|麻《ま》|塩《しお》頭のずんぐりとした人物で、日やけした顔のなかで太い|眉《まゆ》|毛《げ》だけが真っ白なのが、いかにも|因《いん》|業《ごう》そうな印象をひとに与える。  だが、あの人たちはなぜあのように黙りこくっているのであろう。なにをあのようにまじまじと見つめているのだろう。  耕助はやっと天狗の鼻までたどりついたが、そのとたん、思わずそこに立ちすくんでしまったのである。  半円をえがいて立っているひとびとの中心に、大きく|吊《つ》り|鐘《がね》が伏せてある。復員して来た千光寺の吊り鐘である。寺へはこぶ途中、ここまでかつぎあげたものである。千光寺へのぼるには、本鬼頭のまえを通るほうが近いのだが、坂はこっちのほうがゆるやかなのである。耕助はその吊り鐘の下から、世にも恐ろしいものがはみ出しているのを見た。|振《ふ》り|袖《そで》なのである。 「雪枝さんの……雪枝さんの振り袖ですよ」  清水さんが汗をふきふきささやいた。 「それじゃ……それじゃ……雪枝さんはこの吊り鐘の下に……?」  だれもそれにこたえる者はない。重っくるしい無気味な沈黙のなかに、だれもかれも、圧倒されそうな顔をしている。陽は美しくきらきらとかがやいている。海はおだやかに|凪《な》いでいる。微風がそよそよと一同の頬をなでる。それにもかかわらず耕助は、全身にねっとりした汗がふき出すのを覚え、思わずぶるると身をふるわせた。  ——と、そのとき、和尚の了然さんが引導をわたすような声でつぶやいた。例によって例のごとく和尚のくせの俳句である。 「むざんやな|冑《かぶと》の下のきりぎりす」      第四章 吊り鐘の力学  いかにそれがくせとはいえ、そのときの了然さんの放言は、いささか不謹慎のそしりをまぬがれなかった。  むざんやな冑の下のきりぎりす  なるほどおもしろい見立てである。しかし、その|比《ひ》|喩《ゆ》の突飛さがぴったりしていればいるほど、了然さんの、不謹慎なことばが、いっそう悪どいかげをひとびとの心におとした事実はいなめなかった。  了然さんはまさかこの恐ろしい事実を、茶化すつもりではなかったのであろう。つい、日ごろのくせが飛び出したまでのことであったろう。……だが、そう思いながらも耕助は、やっぱり、いやアな、不愉快な心の|滓《おり》を|払拭《ふっしょく》することができなかった。  死という事実はどんな場合にでも、厳粛であるべきはずである。その厳粛な事実を茶化すがごとき言動は、どう考えても健全な趣味とは申されぬ。そのとき耕助の心にやどった不愉快なかげは、不健全なもの、病的なものに対する憎しみと憤りから来ていたのであろう。  一同の視線をあびて、了然さんもさすがに自分の失言に気がついたようである。大きな手のひらでつるりと顔をさかさになでると、 「|南《な》|無《む》|釈《しゃ》|迦《か》|牟《む》|尼《に》|仏《ぶつ》、南無釈迦牟尼仏……」  と、口のうちでつぶやいて、神妙らしく取りすました。それでやっと耕助も、心の平静を取りもどして、清水さんをふりかえった。 「とにかく、このなかに雪枝さんがいるとすれば、一刻も早く|吊《つ》り|鐘《がね》をあげるくふうをしなければ……」 「いや、そのことですが……」  清水さんはすっかりしょげかえって、ことばつきにも元気がなかった。 「いま、若いもんにいいつけて、準備させているところですて。竹蔵さん、まだ用意はできンかな」 「へえ、もう来ると思いますが……」  竹蔵は小手をかざして、さっきからしきりに坂のしたをながめていた。 「竹蔵さん、どうやってこの吊り鐘をつりあげるつもりですか」 「どうやるて、ほかにしようはござりません。吊り鐘のまわりにやぐらを組んで、|滑《かっ》|車《しゃ》をつかってつりあげますンで」  漁村では重いものをつりあげる場合がよくあるから、こういう道具はそろっているのである。 「なるほど。……」  耕助は、子細らしく小首をかしげながら、ぐるりと吊り鐘のまわりを歩いてみた。吊り鐘は|崖《がけ》すれすれにおいてある。清水さんもそのあとについて回りながら、 「ところで、金田一さん。下手人は……」  と、あいかわらず古風な言いかたをしながら、 「どうしてこの重いものを持ち上げたンでしょうな。まさかやぐらをくんだり、滑車をつかったりするはずはなし、また、そんなことをするひまもないが……」  耕助は、吊り鐘のまわりを一周すると、 「ちょ、ちょ、ちょっと皆さん、もう少しうしろのほうへさがっていてください。そう、そう、それでよござんす。そこからまえへお出にならんように」  と、|香具《や》|師《し》の下っぱみたいに一同をあとずさりさせると、改めてあたりの様子をながめていたが、やがて、なにを思ったのか、むやみやたらと、髪の毛をかきまわしはじめた。 「なるほど、なるほど、この重い吊り鐘を、どうやって持ち上げたか、とおっしゃるんですね。それはね、つまり力学の問題ですな。吊り鐘の力学……、清水さん、ごらんなさい。吊り鐘のふちにあたるところに、ひとところ穴が掘ってあるでしょう。それから、あれは石地蔵かなんかの台座ですね。穴から一尺、いや、一尺五寸はありますか、ちょうど吊り鐘のそばにある。それから……」  と、耕助は台座から反対のほうを指さしながら、 「ほら、ごらんなさい。向こうの崖に太い松の木が生えているでしょう。あの松の木と、石の台座と、吊り鐘のしたに掘られた穴、この三者はほぼ一直線になっていますね。しかも、あの松の木には、おあつらえ向きの高さに太い枝が出ていて、しかも、その枝は下向きにのびている。つまりこの三者が、吊り鐘の端を持ちあげる、メカニズムを構成しているのですね」  清水さんにはまだ納得がいきかねたが、それでも耕助の指さすにしたがって、ひとつひとつうなずいてみせた。  なるほど、耕助のいうとおりである。  吊り鐘のふちにあたるところに、ひとところ、直径五寸ほどの穴が掘ってある。その穴から一尺五寸か二尺ほどはなれたところに、石の台座がのこっている。その台座のうえには、昔、お地蔵様が鎮座ましましたのだが、いつのころからか、かんじんの御尊体は紛失して、いまでは、台座だけがのこっているのである。相当古いものらしく、ずいぶん摩滅しているが、それでも|蓮《れん》|華《げ》のかたちがかすかにのこっている。さて吊り鐘のしたの穴と、その台座をむすんだ直線をのばしていくと、向こうに、崖の途中に生えた太い松の木が立っている。崖から二尺か三尺のところまで、その松の木の太い枝が張り出しているのだが、その枝は、海岸でよく見るように、下方へ向かって長くのびているのである。 「で……?」  清水さんがあとをうながすように、耕助の顔をふりかえった。 「つまりですね」  と、耕助は石の台座から松の木のほうへ歩いていくと、 「五倍……約五倍ありますね。いえね、穴から台座までの距離と、台座から松の木までの距離の比ですがね。前者を一とすると後者は五の比率になっているんです。さて、ここに|梃《て》|子《こ》の法則を応用すると、つぎのような方程式が成り立つわけです、Qを吊り鐘の目方、Pを吊り鐘を持ち上げる力とすると P=Q/5 つまり、穴から台座までの距離と、台座から松の木までの距離の比に反比例するわけですね。ところで和尚さん、吊り鐘の目方はどのくらいあるかわかりませんか」 「さあて」  と、和尚は肉の厚い顔をしかめて首をかしげたが、 「そうそう、あれは供出するとき、一応目方を計ったはずじゃったな。了沢や、おまえいくらあったかおぼえておらんか」 「和尚さん、その時分、わたしは寺におりませんでしたので……」  了沢君は終戦まで、水島の|軍《ぐん》|需《じゅ》工場へ、徴用でとられていたのである。 「和尚、四十五貫じゃったと思う。四十五貫とちょっと……」  そばから口をはさんだのは、村長の荒木さんである。荒木さんはそれだけいうと、またきっとくちびるをへの字なりに結んだ。そのそばには片腕を首からつった幸庵さんが、寸ののびた顔をして立っている。 「四十五貫? 案外軽いものですね。そうすると、四十五貫の五分の一、すなわち九貫を持ちあげる力さえあれば、この吊り鐘の端を持ちあげることができるわけです。なにか丈夫な棒があれば、実験してお眼にかけるのだが……」 「お客さん、この棒ではいけませんか」  竹蔵が足下から取り上げたのは、太い長い|樫《かし》の棒だった。耕助はちょっと|度《ど》|肝《ぎも》をぬかれたような顔をして、しばらく竹蔵の顔を見つめていたが、急に、ひったくるようにその棒を手にとってみた。そして、にわかに呼吸をはずませると、 「竹蔵さん、竹蔵さん、この棒はいったい、どこにあったのですか」  と、早口に尋ねた。 「へえ、すぐ向こうの草むらのなかにほうり出してあったので。……これは船着き場の、船をつなぐために立ててある棒でござりますが、だれがこんなところへ持ってきたのかと、さっき拾いあげておいたのでござります」 「船着き場に立ててある棒……? そうするとだれでも利用しようと思えば利用できるわけですね。そして、すぐ向こうの草むらのなかにほうり出してあった……」  耕助はくるりと清水さんのほうへ向き直ると、 「清水さん、清水さん、犯人にとっては吊り鐘の力学なんか問題じゃなかったのですよ。吊り鐘をどうして持ち上げたかそんなことはわかろうがわかるまいが、犯人にとってはいっこうさしつかえなかったんですよ。だからこうしてこの棒も、平気で現場付近へ捨てていったんです」 「金田一さん、するとこの棒で……?」 「そうです、そうです。ほら、ここに傷がついてるでしょう、これは吊り鐘のふちでできた傷、それから、ここについているのは、石の台座でできた傷でしょう。論より証拠ひとつやってみましょう」  崖のうえには十人ちかいひとびとが、半円をえがいて立っている。了然さんに了沢君、村長の荒木さんに医者の幸庵さん、竹蔵のそばに早苗さんと勝野さんが、いまにも気が遠くなりそうな|瞳《ひとみ》をして立っている。それから少しはなれたところに、お志保さんに儀兵衛どん、美少年の鵜飼君の一団が立っている。陽は美しく輝いて海から吹いてくる微風が、快く一同の|頬《ほお》をなでる。それにもかかわらずだれの眼も、みな一様に暗かった。ひとをひとくさいとも思わぬお志保さんでさえ、おびえたような眼の色をして、しきりに|衣《え》|紋《もん》をつくろっている。  耕助もさすがに興奮しているのである。吊り鐘の下に掘られた穴へ棒を突きさすとき、棒のさきがかすかにふるえた。さて、棒を突きさすと、ななめにそれを右の台座にもたせた。棒はいま、はねつるべのように、ピンと|虚《こ》|空《くう》をさしている。  耕助はあたりを見回して、 「だれかこの棒の端をおさえてくれませんか。竹蔵さん、あんたひとつやってみてください」  竹蔵もさすがにちょっと|逡巡《しゅんじゅん》の色を見せたが、それでも悪びれずにまえへ出てきた。 「この棒をおさえるンですか」 「そうそう、なるべく端を持ったほうが、少ない力ですみますよ。ひとつ、ぶらさがるようにして、やってみてください」  竹蔵は両手につばをつけると、棒の端を握ってうんとそれにぶらさがった。すると、石の台座を支点として|梃《て》|子《こ》の端がしだいに下がっていく。と、同時に吊り鐘が少しずつ傾いて、棒を突きさした部分が、一寸二寸と持ち上がっていった。  ひとびとのくちびるから津波のようなため息がもれ、だれからともなく、ざわざわとざわめきが起こった。耕助はあわてて吊り鐘のまえへ立ちはだかると、 「だれもよらないで、……だれもよらないでください、竹蔵さん、もうひと息です。もうひと息……そうそう」  竹蔵は真っ赤な顔をして梃子の端をおさえている。血管がみみずのようにふくれあがって、|淋《りん》|漓《り》と汗が吹き出している。|小兵《こひょう》ながらも潮できたえた体なのである。盛り上がった筋肉がむくむくと躍動すると、やがて棒はへそのへんまで下がった。 「そうそう、それでよござんす。うしろに松の枝が張り出してるでしょう。その下へ棒の端を突きさして、手をはなしてもはねあがらぬようにしてください。そうそう、それでけっこうです。それで、手をはなしてみてください」  いわれるままに竹蔵は、下方へのびた松の枝の下がわへ、棒の端を突っ込むと、しばらく呼吸をはかっていたが、やがてそっと手をはなした。松の枝は二、三度大きくゆれたが、それでも折れるようなことはなく、がっきりと梃子の端をおさえている。  まったくそれは奇妙なメカニズムであった。吊り鐘はいま二十度ほど横に傾いて、一方のふちが一尺七、八寸がとこ土から持ち上がっている。そしてそのまま、千番に一番のかねあいともいうべき、あぶない平衡を保っているのである。  ひとびとのくちびるからまた大きなため息の合唱がもれた。ざわめきもまた、さきほどよりひとしお大きかった。それも無理ではないのである。持ち上がった吊り鐘の下から、派手な|友《ゆう》|禅《ぜん》の色彩が、におうようにのぞいている。一同の立っているところからでは、ひざだけしか見えなかったが、それだけで十分であった。雪枝は吊り鐘のなかに端然と座っているのである。 「ほほほほほほ!」  突然、たからかな笑い声をあげたのはお志保さんであった。一同はぎょっとしたようにそのほうを振り返った。お志保さんは、とげのある、毒々しい笑い声をつづけさまにあげると、 「とんだ|道成寺《どうじょうじ》だこと。だけど、これ、あべこべじゃない? 鵜飼さん、あの吊り鐘へ入るのは、あんたの役じゃなかったのかい。吊り鐘のなかへかくれるのは、|安《あん》|珍《ちん》の役ときまったものだわ。|清《きよ》|姫《ひめ》が入るなんて手はないわ。だけど……」  と、そこでお志保さんははたと気がついたように、 「ああ、そうそう、そういえば雪枝ちゃんのおっかさんてひと、女役者だって話ね。そして道成寺の鐘入りがお得意で、……そこを与三松さんに見染められて、お|妾《めかけ》から|後《のち》|添《ぞ》いになったって話だったわね。そうすると親の因果が子にむくいってわけなの。……そして……そして」 「お志保、黙ってろ」  鋭い声でたしなめたのは儀兵衛どんである。しかし、お志保さんはそのままひっこんではいなかった。 「だって、だって、あなた、これが黙って見ていられると思って? いったい、これはなんのなぞなの。雪枝ちゃんを殺すんなら、殺すだけでいいじゃないの。なんの酔狂で、道成寺の見立てやなんかやるのよう。嘉右衛門さんがなんぼ茶人だって、あんまりだわ、あんまりだわ、あんまり人騒がせだわよ。みんな、気がちがっているンだ。そうよ、そうよ、みんな気がちがっているのよう」 「お志保、静かにしないか」  儀兵衛どんはまた|一《いっ》|喝《かつ》、鋭い声でお志保さんをたしなめると、 「皆さん、どうもすまんこって。お志保のやつ、ヒステリーを起こしゃあがって。なに、これがこいつのくせなンで。口ではえらそうなことをいってるが、しんはごく|臆病《おくびょう》なやつですから、さっきから、おびえつづけていたのが、とうとう、こらえ切れなくなったんでしょう、お志保、かえろう」 「いやよ、いやよ、あたしもっと見ているの。雪枝ちゃんが、どんな顔をして死んでいるか見ているの」  お志保さんはたしかにヒステリーを起こしたのである。うわずった眼の色が尋常ではなかった。ことばつきがわかい娘のように甘ったれて、儀兵衛どんにとられた手を、ふりほどこうと|地《じ》|団《だん》|駄《だ》をふむ格好が、とんと|駄《だ》|々《だ》っ|子《こ》であった。常日ごろ、技巧たっぷりに取りすましたお志保さんしか知らぬ耕助の眼には、それがなんともいえぬほど異様に見えた。なにかしら汚らわしい、病的なもののように映じた。獄門島では、だれもが気が狂っている……清水さんがいったいつかのことばを、耕助はいまさらのように思い出さずにはいられなかった。 「お志保、それはなんのざまだ。鵜飼さん、おまえそっちの手をとっておくれ。清水さん、用事があったらいつでも来てください。この儀兵衛は逃げもかくれもいたしませぬ。鵜飼さん、しっかり手を握っていておくれよ。こうなったら手負い|猪《じし》も同然、まるでわや[#「わや」に傍点]じゃ」 「いやよ、いやよ、あたし、……鵜飼さんのバカ、そこをはなしておくれ。あなた、あなた……」  お志保さんは子どものように地団駄をふんでいる。|衣《え》|紋《もん》がくずれて、髪が乱れて、とんと気ちがいである。左右からその手をとって、儀兵衛どんと鵜飼君が、ひきずるように坂を下っていった。 「いやよ、いやよ、鵜飼さんのバカ、そこをはなして……あなた、あなたったら……」  お志保さんの声がしだいに遠くなって、やがて聞こえなくなったとき、一同は、ほうっとしたように顔を見合わせた。 「ほ、ほ、ほ」  了然さんはかるくふくみ笑いをすると、 「とんだ余興じゃったな。儀兵衛もあれには手をやきおるて」  と、きたないものでも吐き出すような口ぶりだった。 「いやア、ああ、……それはそれとしてですね」  清水さんはぎごちなくからせきをすると、耕助のほうへ向き直って、 「すると、つまり下手人は、こういうふうに吊り鐘の端を持ち上げておいて、そして、そのすき間から、雪枝さんの体を押しこんだと、こういうことになるんですな」 「ええ、ああ? そうそう……」  ぼんやり考えごとをしていた耕助は、どぎまぎしながら、清水さんのほうをふりかえった。そのとき耕助が考えていたのは、いま、お志保さんの口走ったことばの端である。  雪枝の母は女役者であった。道成寺の鐘入りがおはこであった。そして、そこを与三松に見染められて、妾になり、|後《のち》|添《ぞ》いになったのである。……このことは耕助にとって初耳であった。いや、このことのみならず、考えてみると耕助は、いままで一度も、月代や雪枝や花子たち、三姉妹の母について聞いたことはなかった。そのひとは、ずいぶんまえに亡くなったという話なので、まさかこんどの事件に関係があろうとは、いまのいままで考えたことはなかったのである。しかし、さっきのお志保さんのことばによると、その事実こそ——月雪花三人娘の母親が、女役者である、道成寺の鐘入りを得意の芸にしていたという、その事実のなかにこそ、なにかしらこんどの事件の——この気ちがいじみた殺人事件の、秘密の|鍵《かぎ》があるのではあるまいか。……だがしかし、その事実はもう少しあとでゆっくり考えてみることにしよう。いっときに、二つのことを考えないものである。 「そ、そ、そうですよ。つまりですね。こうしてあの松の木でささえておくと、だれの手をかりずとも、吊り鐘の端はしぜんと持ち上がっているでしょう? だから犯人はひとりでも、……つまり共犯者なしでもけっこうこれだけの芸当を演ずることができたのです」  しばらく一同はしいんと黙りこんでいた。そして、凍りついたように、吊り鐘の下からのぞいている、派手な友禅をながめていた。ふたたびいう。陽は美しく照りかがやいている。微風はそよそよと快く、一同の|頬《ほお》をなでている。それにもかかわらずその場の光景は、なにかしら地獄絵巻のようにドス黒く、グルーサムであった。 「雪枝さんは……雪枝さんは……生きたまま、生きながら……吊り鐘の下へ押しこめられたんでしょうか」  それは早苗さんであった。思えば早苗は、お志保さんよりはるかに気丈な性質なのであった。彼女のうけた打撃とショックは、お志保さんなどとはくらべものにならないほど、深く、かつ大きかったはずである。それにもかかわらず彼女は、お志保さんのようにヒステリーも起こさず、また、狂態も見せなかった。その代わりに、血の気をうしなった彼女の頬は、いまにも生気が抜け出してしまいそうに、ケバ立って、さむざむとしていた。 「御安心なさい」  耕助はいたわりをこめた眼で早苗をふりかえると、 「雪枝さんは、生き埋めの恐怖だけは味わわずにすんだようです。のどのまわりに絞殺されたような跡が……」 「だが、だが、お客さん」  それは潮つくりの竹蔵だった。 「下手人はなんだって、雪枝ちゃんの体を吊り鐘のなかへ押しこんだんです。なぜ、殺すなら殺すで、|死《し》|骸《がい》をそのままにしておかなかったんです。よりによって、こんなむごたらしい。こんなあさましいことをなんだってしおったんです」  しばらく耕助は黙っていた。ほのぐらい懐疑のかげが、さむざむとかれの体をつつんでいる。耕助はそれからゆっくり首を左右にふると、抑揚のない声でこういった。 「それはぼくにもわかりません。犯人はなぜ花子さんを梅の枝に吊るしたのか、なぜ雪枝さんを、吊り鐘の下へ伏せたのか、……ぼくにもまだわかりません。もし犯人が気ちがいでないならば、そして、これらのこけおどしに、なにか深い意味があるならば、その意味が解けるときこそ、事件のなぞが解けるときです。しかし、いまのぼくにはわからない。なにもわかっていない。犯人は……犯人はバカか気ちがいとしかぼくには思えません」  耕助はそういって、髪の毛をかきあげながら、深いため息をついた。  そこへ若い者がおおぜい、てんでに丸太だの、滑車だの、綱だのをかついでのぼってきた。 「金田一さん、わたしはあんたにすまんことをしたのかもしれん。それともあんたの人間業でない、大きなペテンにゴマ化されているのかもわからん。しかし、……しかし、あんたはゆうべたしかに留置場のなかにいなすったな。留置場の|鍵《かぎ》はわしがちゃんと、肌身はなさず持っていたから、あんたがゆうべの事件に関係のないことは、わかりきっているほどようわかっている。それでもわしはまだ、あんたをはっきり信用することができん。わしの頭はめちゃくちゃになってしもうた。それというのが、事件があまり変てこなせいもあるが、ひとつには、金田一さん、あんたのせいもある。あんたはいったい何者じゃ。吊り鐘の力学じゃなどと、あんたはどうしてあんなことを知っていなすったのじゃ。あんたは|掌《たなごころ》をさすように、犯人のやりかたを再演してみせてくれた。どうしてそれがわかったのか、金田一さん、あんたは下手人か、それとも下手人の仲間じゃないのか。金田一さん、金田一さん、ここできっぱり言うてください。下手人でないならないと。……こんどの事件に関係がないならないと。……そうすれば、わしもあんたのことばを信用することにして、少しは心も落ち着くかもしれん」  やぐらは組み立てられ、吊り鐘は滑車で吊りあげられた。雪枝の体は取り出され、幸庵さんが診察した。それによると、雪枝の殺されたのは、昨夜の六時から七時までのあいだで、死因は絞殺、凶器は日本手ぬぐい、あるいはそれに類したものであろうということであった。雪枝の体はそれから間もなく、竹蔵や若い者の手によって本鬼頭のほうへ運んでいかれた。和尚の了然さんも|典《てん》|座《ぞ》の了沢君も、それから村長の荒木さんも医者の幸庵さんも、みんなそのほうへついていった。用事がすむと若い者も追っぱらわれて、あとに残ったのは清水さんと耕助のふたりきりである。  清水さんは|崖《がけ》の端に腰をおろして、しきりに|爪《つめ》をかんでいる。二晩眠らぬ夜がつづいたので、げっそりと|面《おも》やつれがしているうえに、この人らしい疑惑に身を責められているので、苦慮のほどはいたいたしいばかりであった。耕助はそっと清水さんの肩に手をかけると、 「清水さん」  と、静かにいった。  清水さんはぼんやりと眼をあげた。 「清水さん、ぼくの眼を見てください」  清水さんは耕助の眼を見た。 「それから、あの吊り鐘を見てください」  清水さんは滑車でつりあげられた、吊り鐘を見た。その吊り鐘は、本署からひとが来るまで、そのままにしておくつもりなのである。崖のうえにやぐらが組まれて、そこに吊り鐘のぶらさがっている光景は、あの犯罪を知らぬ者の眼にも、なんとなく異様なながめであった。清水さんは思わず体をふるわせた。 「あの吊り鐘にちかっていいます。ぼくは、花子さん殺しにも、ゆうべの雪枝さん殺しにも、なんの関係もありません。ぼくの眼を見てください。うそをいってるように見えますか」     海へ飛び込んだ男  清水さんはしばらく無言のまま、|眼《ま》じろぎもしないで耕助の眼を見つめていたが、やがてふうっとため息を吐くと、 「金田一さん、わしはあんたを信ずることにしよう。あんたの眼は、うそをついてるようではない。……しかし、……しかし金田一さん、あんたはいったいだれじゃ、どういう人なのじゃ。なんの用があってこの島へ、……こんないまいましい島へ来なすったのじゃ。わしにはそれがわからん。こんないやな、恐ろしいはなれ島へ……あっ!」  不意に清水さんはすっくと立ち上がった。それから耕助のそばをはなれて、小走りに崖っぱなへ出ると、小手をかざして沖のほうへ眼をやった。  すぐ隣の、真鍋島の島影から、いましも一|艘《そう》のランチが現われた。ポンポンポンポンポン。——ポンポンポンポン——うすい水蒸気の輪を空中に吐きあげながら、ランチはおだやかな海面をきって、こっちのほうへ進んでくる。それはいつもの連絡船、白竜丸とはちがっていた。  この船影をみとめたとたん、清水さんの顔からは、いっぺんに憂色が吹っとんでしまった。清水さんはひげだらけの顔に、真っ白な歯をむき出して笑うと、ギラギラと無気味にかがやく眼で耕助のほうをふりかえった。 「金田一さん、あの船がどういう船か御存じかな。あれは水上署のランチですぞ。しかも、あのランチには、磯川という|古狸《ふるだぬき》の警部が乗っているはずじゃ。ほら、あんたを知っているという。……金田一さん、あんた、大丈夫かな。逃げえでもええかな。いや、逃げようたって逃がしゃあせんがな。金田一さん、あんたにうしろぐらいことがあるなら、こんどこそ|年《ねん》|貢《ぐ》のおさめどきですぞ。あっはっはっは!」  清水さんはひげだらけの顔じゅうを口にして、世にもはればれと笑ったことである。  警察のランチは沖に停泊する。船着き場からは迎えの舟が|漕《こ》ぎ出していく。島の連中がバラバラと、物珍しげに船着き場へ集まっていく。  清水さんと耕助は、それを見ると大急ぎで坂を下っていったが、船着き場に立って、|艀《はしけ》を待っているあいだに清水さんはしだいに落ち着きを失ってきた。耕助があまり落ち着きはらっているからである。 「金田一さん、金田一さん」  清水さんは無精ひげをつまぐりながら、不安そうに耕助を横眼でにらんで、 「あんたは磯川警部とどういうお知り合いじゃな。あのひとがやってきても大丈夫かな」 「ええ、まあ、大丈夫だろうと思うんですがね。しかし、清水さん、磯川警部はきょうここへ来ることになっているんですか」 「たぶん来るじゃろうと思うんだが……電話をかけたとき、まだ笠岡にいるという話じゃったからね。ああ、あれ磯川警部じゃないかな」  ランチから数名の警察官がどやどやと、迎えの艀に乗りうつったが、三番目に乗りこんだのは、たしかに磯川警部らしかった。 「ああ、なるほど、磯川さんらしいですね。あのひともずいぶん年をとられたようだ」  耕助は一種の感慨をこめてそうつぶやいた。  岡山県の農村で起こった、あの「本陣殺人事件」で、磯川警部が耕助と行動をともにしたのは、昭和十二年の秋である。あれからすでに九年の歳月がながれているから、本来ならばこのひとも、警視に昇進していなければならぬはずだったが、そのあいだに応召して、数年間を軍隊生活につぶしたために、昇進がおくれて、いまだに警部でとどまっているのである。しかし、その後、県の刑事課へ転勤して、いまだに県下でも古狸の警部として、だいぶよい顔になっているらしい。その警部が意外に早く獄門島へやってきたのは、例の海賊一件捜査のために、笠岡へ来ていたからである。 「しかし、清水さん、これはどうしたんでしょう。みんないやにものものしい服装をしているじゃありませんか。島で事件が起こると、いつもあんななりをしてやってくるんですか」 「どうも変ですね。だいいち人数も多すぎる。まさかあんたをつかまえるために……」 「はっはっは、わたしならば清水さん、あなたひとりでたくさんですよ。腕力にかけちゃ、ぼくはまるきり自信がありませんからね」 「さあて、どうかな」  清水さんと耕助が、不審の|眉《まゆ》をひそめたのも無理はない。艀に乗りうつった警官たちは、みんなあごひもをかけてゲートルをつけ、いやにものものしい武装をしているのである。  やがて艀はランチをはなれて、しだいにこちらへ近づいてくる。磯川警部は耕助の姿を見つけたらしく日やけした顔に、白い歯をのぞかせながら、艀のうえから手をふってみせたが、清水さんはそれを見ると、面くらったように、耕助のほうをふりかえった。 「金田一さん、金田一さん、いま、警部さんが手をふってみせたのは、あんたのためかな」  警部の示した思いがけないこの親愛の表現に、清水さんはすっかり動転しているのである。耕助はにこにこしながら、 「あっはっは、いいですよ、いいですよ。誤解はだれにでもあることですからね。しかし、清水さん、昨夜のこと……ほら、ぼくを留置場へほうりこんだことは、警部さんにいわないほうがいいですよ」  清水さんの肩をかるくたたいて、群がる島の連中をかきわけながら、|桟《さん》|橋《ばし》のほうへおりていくと、おりから着いた艀のなかから、いちばんにとびあがったのは磯川警部であった。 「やあ」 「やあ」 「ごきげんよう」 「あなたもお達者で……」 「うん、まあ、おかげさんで、……あんたはちっとも変わっていないね」 「そうでもありませんよ。これでも相当苦労したんですからね。警部さん、あなたはだいぶ年をとられた」 「そうでしょう。あのころはまだ白いものなんかなかった」 「その代わり、あの時分からみると、またいちだんと肉づきがよくなられた。|貫《かん》|禄《ろく》十分というところですな」 「あっはっは、貫禄ばかり十分でも、十年一日のごとく警部じゃしかたがない。同僚のなかには、だいぶ警視になったのもあるのにね」 「まあ、いいですよ、いいですよ。なにもかも戦争のためだからしかたがない。おたがいに愚痴はいいっこなしにしましょう」 「はっは、これはやられました。年がいもなく、会うと早々愚痴をこぼして面目ない。ときに……清水君」  清水さんは眼をまるくして、ふたりの様子を見くらべていたが、警部に声をかけられると、夢からさめたように、ゾクリと体をふるわせた。それからあわててつばをのみこむと、思わず、 「はっ」  と、軍隊式なこたえをした。 「いったい、どうしたというんだ。矢継ぎばやに娘がふたり殺されたというじゃないか」  清水さんはなにかいおうとして、口をもぐもぐさせたが、ことばらしいことばはききとれなかった。正直者の清水さんは、自分の思いちがいに気がついて、気の毒なくらいしょげかえっているのである。  耕助がそれをとりなすように、 「いや、その話なら向こうへ行ってゆっくりしましょう。ときに警部さん、このひとたちはどうしたんですか。いやにものものしい格好をしているじゃありませんか」  磯川警部のほかに、お|巡《まわ》りさんは六人いたが、それがみんな腰にピストルをぶちこんでいるのは、ちと|仰山《ぎょうさん》であった。お巡りさんのほかに背広の紳士がひとりいたが、それはたぶん警察医だろう。 「ああ、この連中……実はね、金田一さん、こっちにも事件がありましてね、清水君の電話がなくとも、出向いてこようと思っていたところなんです。ひょっとすると、こっちの事件の犯人も、そいつかもしれない」 「そいつというのは……?」  耕助は驚いて警部の顔をふりかえった。 「海賊の一味ですがね、あんたも清水君からきいていられるだろうが、一昨日この付近の海上で、海のギャングを追跡した。そのときはまんまと相手に逃げられたが、昨日、そのうちのひとりを|宇《う》|野《の》でとりおさえたんです。ところが、そいつの白状するところによると、この付近の海面を逃走中、一味のひとりがもうだめだと思ったんでしょうな。海へとびこんで逃げたというんです。とびこんだ地点から考えて、泳ぎついたとすれば、この島か、隣の真鍋だが、金田一さん、なにかそんなうわさをききゃあしませんでしたか」  耕助は不意にぎょくんと立ち止まった。はげしく胸のおどるのを感じた。いま、警部の話をきいた|刹《せつ》|那《な》千光寺の台所で、三人前の飯を平らげていった、あの不思議な泥棒のことが、|稲《いな》|妻《ずま》のひらめきのように、さっと頭をさしつらぬいたからである。 「金田一さん、なにか思いあたることがあるんですね」  磯川警部は思わず息をはずませた。 「そうです、そうです、金田一さん、あの大飯ぐらいの泥棒が……」  清水さんも生気をとりもどした格好である。 「いや、ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。おふたりとも、しばらく黙っていてください。ぼ、ぼくはたいへんな思いちがいをしていた。もし、そうだとすると、……ちょ、ちょ、ちょっと、ぼくに考えさせてください……」  耕助は歯をくいしばり、眼をいからせ、やけに頭をかきまわしながら、そのまま深く、考えこんだことである。  そうか、……そうだったのか。……それならば話のつじつまが合わないこともない。そいつはまず本鬼頭へしのびこんだのだろう。そして、|座《ざ》|敷《しき》|牢《ろう》のなかから、昨日、早苗さんがやってみせたようにして、煙草を盗んでいったのではあるまいか。煙草好きの人間にとっては、煙草は食糧同様に、飢えを感じさせるものである。さて、それからそいつは千光寺へのぼっていった。そして、下の道を見張りながら、立てつづけに煙草を五、六本吸って飢えをみたした。そしてそれから、|庫《く》|裏《り》へ入って、お|櫃《ひつ》の飯をたいらげた。……  だが、と、そこで耕助の考えは、はたと、|暗礁《あんしょう》につきあたるのである。もし、そうだとするとその男は、この事件といったいどういう関係があるのだろう。そいつが寺へのぼっていったとき花子がまだそこにいたので、殺してしまったのだろうか。いやいや、それでは時間の点でくいちがいができる。耕助の考えでは、和尚が寺へかえったとき、いや、いや、和尚のみならず、了沢や竹蔵といっしょに、自分が寺へかえったときには大飯ぐらいの泥棒は、たしかにまだ寺にいたにちがいないと思われるのである。あの晩の和尚の行動から、耕助はたしかにそうにちがいないと判断しているのである。ところが一方、花子の殺された時刻については、それよりずっと早い時刻であったろうと推定されている。いかにそいつが大胆な人物にしろ、あのような恐ろしい犯行を演じた現場に、そんなに長くとどまっていようとは思われない。……と、すると、その男が寺へやってきたのは、もっと早い時期だったのだろうか。そして、あの晩の和尚の行動には、別になんの意味もなく、あのとき泥棒がまだ寺にいたと考えるのは、単なる自分の|妄《もう》|想《そう》なのだろうか。そうだ。もしそいつが犯人だとすれば、縁もゆかりもない和尚が、かばい立てする理由は少しもない。だが……だが……和尚はたしかになにか知っているにまちがいないのだ。気ちがいじゃが仕方がないというつぶやき。……そして、あのときの和尚の挙動。……畜生、畜生、なにがなにやらさっぱりわけがわからなくなってきた。いったい、そいつが犯人にしろ犯人でないにしろ、それでは寺へいつごろやってきたのか。……それを決定するためには、そいつが本鬼頭へやってきたのはいつごろか……それがわかればいくらか助けになる。では、そいつは本鬼頭へ何時ごろにやってきたのか。……  そこまで考えてきたとき、耕助はまたぎょっとしたように息をのんだのである。あれは千万太のお通夜のあとだった。花子の姿の見えないことが問題になって、お勝さんと早苗さんが、もう一度家のなかを探してみると席を立った。その直後のことである。奥のほうからけたたましい悲鳴がきこえたのは。……あれはたしかに早苗さんの悲鳴だったが、すぐそのあとで、気ちがいのうなり声がきこえたので、さてはまた、気ちがいがあばれ出したのであろうと、早苗の悲鳴も大して問題にならなかった。しかし、いまから考えてみると、これは少し妙である。あの気ちがいは早苗にたいへんなついていて、どんなに|猛《たけ》り狂っているときでも、ひとこと早苗が声をかけると、けろりとおさまるということである。早苗だって、そのことを知っているはずだから、気ちがいがあばれ出したくらいのことで、あのような悲鳴をあげるはずはない。それにもかかわらず彼女は悲鳴をあげた。悲鳴をあげたのみならず、もとの座敷へかえってきたとき、すっかり血の気を失って、|円《つぶら》な眼が、ものにおびえたように大きく拡大していた。いったい、あのとき早苗はなににあのように驚きおびえたのか。ひょっとすると、彼女は座敷牢の付近に、見知らぬ男の姿を見つけたのではあるまいか。すなわちそいつが座敷牢の格子のあいだから、煙草を盗み出すところを見たのではあるまいか。  しかし……?  それだとすれば彼女はなぜひとを呼ばなかったのか。なぜ、そのままそいつを逃がしてしまったのか。いやいや、そいつを逃がしてしまったのみならず、座敷へかえってきたのちも、ひとこともそのことを語ろうとはしなかったのは、なぜか。かえって彼女は自分の立てた悲鳴のいわれを、気ちがいのせいであるかのように取りつくろおうしたが、それはなんのためなのか。  それにもうひとつ、あの靴跡の問題がある。底に|蝙《こう》|蝠《もり》形の傷のある靴跡は、渡り廊下の下にただひとつ、残っていただけである。あのほかにも湿ったところや、日陰になった地面があるから、当然そこにも靴跡が残っていなければならないはずだのに、靴跡はひとつしかなかった。と、いうことは、だれかがあとから靴跡を、消してしまったということを意味していないか。ただひとつ、渡り廊下の下にあるやつだけは気づかずに。……そして、それは早苗のしわざではなかろうか。すなわち、早苗はその男を、知っているのではあるまいか。とすればその男はいったい何者か。…… 「警部さん、警部さん」  耕助はそこで突然警部のほうをふりかえった。 「その男……海へとびこんだという男ですがね。そいつはいったいどういう男だかわかりませんか」 「それがねえ、残念なことには、なにもわかっていないんです。と、いうのは宇野でとらえた男も、そいつについて、あまり詳しいことは知っていないんです。なんでもごくちかごろ、一味に加入したらしいんですね。名前は山田太郎といっていたそうだが、そんなの、本名かどうかわかりゃしない。三十前後の屈強の若者で、ひどく日やけしているところを見ると、たぶん、南方からちかごろ復員してきた男だろうといっているんですがね。服装はむろん、兵隊服に、兵隊靴をはき、それからピストルに、弾丸もかなりたくさん持っていたが、海へとびこむとき、ピストルや弾丸はぬれないように、革袋へつめて、頭のうえへ結びつけていたというから、まあ、かなりやっかいな存在です。ところで金田一さん、そういう男が、この島へ、上陸したという疑いがあるんですね」 「そうなんです。しかも、そいつがこんどの事件に、重大な関係をもっているにちがいないと思われる節があるんですよ。ところで、清水さん、そういうやつがこの島へ上陸したとしたら、いったい、どこにかくれているでしょうね」 「それは、ええ、たぶん、あの|摺《すり》|鉢《ばち》山だろうと思います」  清水さんもようやく落ち着きを取りもどしている。 「摺鉢山というのは、ほら、あの千光寺の向こうに見えているあの山ですがね。そこには昔の海賊の|砦《とりで》も残っているし、戦争中、防空監視所やら、高射砲陣地やらができましたから、まるで、迷路みたいに穴が掘ってあります。だから、そういうやつがかくれるには、おあつらえむきの場所なんです。ところで、警部さん」  と、清水さんはそこでもったいぶったからぜきをすると、 「いま、警部さんのお話をうかがって、思いあたる節があるんですが、昨夜、そいつの姿を見たという者が、この島にひとりいるんですよ。いまのお話をきくまでは、わたくし、ほんとうとは思えなかったんですが、たしかにそいつにちがいない」 「だ、だれですか。そいつの姿を見たというのは?」  耕助はびっくりしたように清水さんの顔を見直した。 「幸庵さんですよ。幸庵さんはそいつの姿を見たのみならず、格闘したといっているんです」 「あっ、それで……わかりました。幸庵さんはそれで、ああして腕をつっているんですね」 「そうなんです。格闘して|崖《がけ》から突き落とされた拍子に、左腕を折ったといっているんですがね。わたしはまた、幸庵さんのことだから、酒に酔って崖から落ちたのを、きまりが悪いもんだから、そんなことをいって、ゴマ化しているんだろうと思いましたが、なるほど、そんな凶暴なやつが、島に潜入しているとすれば……」  ちょうどそのころ一同は、駐在所の前まで来ていた。気がつくと一同のあとには、島の連中がお|弔《とむら》いの行列のようにゾロゾロ長くつづいていた。  耕助は警部をふりかえると、 「ところで、警部さん、あなたはこれからすぐ|死《し》|骸《がい》を見にいらっしゃいますか。実はわたしはそのまえに、清水さんから昨夜のいきさつをききたいのですがね」 「ああ、そう」  磯川警部はちょっと小首をかしげたが、 「いや、わたしも死骸を見るまえに、一応、話を承ることにしよう。ときに、死骸はどこにありますか」 「自宅へひきとらせてあります。ほら、向こうの崖のうえに見えている、あのお城みたいな家、あれが本鬼頭の屋敷ですがね」 「ああ、そう、きみ、きみ」  と、警部はお巡りさんのひとりを呼んで、 「きみは先生を案内して、さきに検視をしてきてくれたまえ。先生よろしくお願いします」  一行といっしょにやってきた警察医が、お巡りさんのひとりに案内されて、本鬼頭の坂をのぼっていくのを見送って、一同ゾロゾロと駐在所へ入っていった。物見高いのは都の人間ばかりではない。駐在所のまわりには島の老若男女が|蠅《はえ》のように集まってくる。  ちょうど昼食の時刻だったので、警官たちは持参の弁当をつかいはじめたが、耕助はまた清水さんのごちそうになった。清水さんの奥さん、お種さんは、女の機転ではやくも御亭主の勘ちがいに気づいたらしく、耕助にサービスこれつとめる。耕助にはそれがおかしかったが、考えてみるとかれは、朝からなんにも食べていなかったのである。     忘れられた復員便り 「なるほど、それが一昨夜、すなわち第一の犠牲者が殺されるまでのいきさつですね。ところで、昨夜の出来事は……?」  興奮するとどもるくせのある耕助だが、落ち着いて話すときには、かなりたくみな話術をもっている。かれは自分がこの島へついてから、一昨夜までの見聞を、簡単に、しかも要領よく語ってきかせた。ただひとつ、かれをこの島へつれてきた、あの千万太の臨終のことばだけは、わざと省略して。……耕助にはなんとなく、まだその時期に達していないように思われたし、それを打ち明けることによって、島の住人のだれかに、どのような迷惑がかかるまいものでもないと思ったからである。だから警部は、なんとなく奥歯にもののはさまったような顔をしていたが、それでも耕助が語り終わると、そういってあとをうながした。 「ところがね、警部さん。昨夜の出来事についちゃ、ぼくはてんで語る資格がないんですよ。実は、大失態を演じましてね。なにしろ一昨夜の疲れがあるもんだから、昨夜は|宵《よい》から、前後不覚に眠っちまって、けさまでなにも知らなかったんです」 「あなたが……? 眠っちまったあ……?」  警部は疑わしそうに眼をみはったが、そのとき横から、世にも切なげな声で、ことばをはさんだのは清水さんである。 「いや、ええ……、そのことについては、わたしがとんでもない思いちがいをいたしまして……そのまえに警部さんにお伺いいたしますが、この金田一さんというひとは、いったいどういうお方なんですか」 「金田一君がどういう人物だって? そのことについては一昨夜、きみに話しゃしなかったかね」 「はい、承りました。なんでもよほど重大事件の容疑者のようで……」 「重大事件の容疑者あ……? この金田一君があ?」  警部は思わず眼玉をひんむいたが、つぎの瞬間、腹をかかえて爆発するように笑い出した。 「おいおい、清水君、きみはいったいなにをいっているんだ。この金田一君というひとは……」  と手短かに昔の関係を語ってきかせると、 「それできみはこのひとを、いったい、どうしたというんだ」 「それが、その……警部さんのくちぶりではよほど大物らしく思われたし……そこへ持ってきて、島へかえってみるとああいう事件で……そこで、万一をおもんぱかって、実は、その……昨夜、むりやりに留置場へぶちこみましたので……」  清水さんは穴があったら入りたそうである。 「このひとを……? 留置場へ……」 「いや、なかなかおもしろい体験でしたよ。あっはっは」  と耕助は笑ったが、すぐまじめな顔になって、 「いや、これはわれわれがいけなかったんですよ。警部さんがはっきりぼくのことをいってくれなかったのもいけなかったし、ぼくはまたぼくで、清水さんが妙な疑いを抱きはじめたのをおもしろがって、わざと|焦《じ》らせるようなことばを|弄《ろう》さなかったとはいえないんですからね。まあ、|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》というところでしょう。もっとも、我が輩はメイ探偵であるなんて名乗りは、ちとあげにくいですからな。あっはっは」  と、耕助はそこでまた笑った。  警部もいったんは、苦虫をかみつぶしたような顔をしたが、耕助のおもしろそうな笑い声をきくと、ついつりこまれて、 「あっはっは、正直者はこれだからかなわない。まあいい、まあいい、清水君、金田一さんは問題にしていらっしゃらないんだから、そう気にすることもあるまい。それじゃ、とにかく、きみの話というのをきこうじゃないか」 「はっ」  と、清水さんはまた軍隊式の返事をすると、あわてて手の甲で額の汗をぬぐった。それからしどろもどろの口調で、昨夜の経験を語りはじめたが、その話しぶりたるや磯川警部や耕助が、なんども念を押したりききなおしたりしなければ、意味がわからないほど支離滅裂であった。清水さんはすっかりあがっているのである。昨夜の失策もさることながら、ききてはなにしろ、県下でも古狸といわれる警部さんと、その警部さんでさえ、|一《いち》|目《もく》おいてるほどの名探偵(おお、この男が名探偵! このもじゃもじゃ頭の貧相な男が……と、清水さんは話のあいだにも、いくどか耕助の顔を見直したことだ)なのだから、人のいい清水さんの逆上するのも無理はなかった。  そこで、支離滅裂な清水さんの話を、できるだけ要領よく整理すると、だいたい次のようになるのである。 [#ここから1字下げ]  一[#この部分正しくは1字下げ、折り返して2字下げ]、耕助を留置場へ閉じこめておいてから、清水さんは間もなく|本《ほん》鬼頭へ行った。そのとき本鬼頭には、勝野さん、早苗さん、月代、雪枝の姉妹のほかに、了然さんと了沢君が来ていた。そう、そのとき雪枝はたしかにまだ生きていたし、本鬼頭の家にいた。清水さんはその姿を見たのみならず、口も|利《き》いたのである。清水さんが本鬼頭へついたのは、ちょうど六時半であった。  二、七時半ごろに、幸庵さんと村長の荒木さんと竹蔵が、相前後してやってきた。ところが、それからだいぶたって、雪枝の姿が見えないことに気がついた。勝野さんと早苗さんが、また、家じゅう探してみたがどこにも姿が見えないので、一同の不安はにわかにつのってきた。そこで手分けして、雪枝の|行《ゆく》|方《え》を探しに出ることになった。たぶん八時半ごろのことであったろうと思う。  三、手分けの人数はこうである。清水さんと村長の荒木さんが組みになった。竹蔵はまた了沢君といっしょだった。幸庵さんは例によって、かなり酔っぱらっていたので、残っているようにといったが、ききいれないで、ひとりでふらふら飛び出したらしい。和尚は老齢だし、昨夜のようなお天気の晩には、持病のリューマチがいたむというし、それに、みんなが出てしまうと、気ちがいをのぞいてあとは女ばかりになるので、家に残ってもらうことになった。だいいち、月代がおびえて、和尚をはなさなかったそうである。  四、本鬼頭を出た一同は坂のうえまでいっしょに来たが、そのころはまだ雨は降っていなかったものの、空は真っ暗だった。やがて四人は、千光寺へのぼるつづら折れの下までやってきたが、竹蔵と了沢君は寺へ行ってみるというのでそこで別れた。清水さんと村長の荒木さんは、その道をまっすぐに進んで、|天《てん》|狗《ぐ》の鼻のそばまで来た。天狗の鼻には吊り鐘がおいてあったが、清水さんが懐中電燈で、吊り鐘のまわりを調べたときには、たしかにあの|振《ふ》り|袖《そで》はのぞいていなかった。 [#ここで字下げ終わり] 「ちょっと待ってください。そのときあなたは、吊り鐘のそばへ寄ってみたのですか」  耕助はそこでそのことばをはさんだ。 「いや、そばまで寄ってみたわけじゃありません。道のほうから岩のうえへ懐中電燈を向けるとあの吊り鐘が眼にうつった。そこでぐるりと懐中電燈の光で吊り鐘のうえから下へとなでてみたんですが、そのときには、たしかに、あんな振り袖はのぞいていなかったんです。金田一さんはさっき御覧になったから御存じのはずじゃが、あの振り袖は道のほうへむいてのぞいているから、あれがのぞいていたらそのとき眼についたはずです。このことはわたしばかりじゃなく、村長さんの荒木さんも、はっきりそう申しておりますから、だれがあそこへ死骸を押しこんだにしろ、それはわれわれがとおり過ぎてからのことだろうと、これだけはきっぱりと断言できると思いますんで」 「いや、ありがとう。では、それからさきを話してください」 [#ここから1字下げ]  五[#この部分正しくは1字下げ、折り返して2字下げ]、岩のうえになんの異状もなかったので、清水さんと村長は、坂を下って|分《わけ》鬼頭へ赴く。雨またポツリポツリと降り出し、風強く、波の音かまびすし。分鬼頭では儀兵衛どん、お志保さん、鵜飼君と三人に会う。儀兵衛どんとお志保さんは、例によって酒をのんでいたらしい。三人とも雪枝のことを知らぬという、その日は一度も雪枝に会わず、鵜飼君も寺よりかえってから一度も外出しなかったといっている。 [#ここで字下げ終わり] 「ところが、分鬼頭の玄関に立って、こんな押し問答をしているときでした。ふと妙な声がきこえてまいりましたので……どこか遠くのほうで、だれか助けを呼んでいるような声なので……昨夜は西風でしたから、それがかなりはっきりきこえてきたんですね。わたしども——わたしと村長はびっくりして玄関からとび出しました。儀兵衛どんも、お志保さんも、それから鵜飼という男も、あわてて|下《げ》|駄《た》をつっかけて、わたしどものあとからとび出してまいりました。そこで五人、石のように息をころして、風のなかに突っ立っておりましたが、するとまた、二声三声、助けを呼ぶような声がきこえます。ありゃあ幸庵さんじゃないかとわたしが申しますと、みんなもそうらしいとうなずきました。幸庵さんは酔うているので、本鬼頭に残っているようにと申したのですが、あの物好きで、またふらふらとび出してきたにちがいございません。酔っぱらいの|濁《だ》み声で、なにをいってるのか、さっぱりわかりませんでしたが、それでも声の調子からして、ただごととは思えませぬ。そこでわたしと村長さんは、急いで分鬼頭をとび出しましたが、すると分鬼頭でも、雪枝さんのこともあることだから捨ててはおけぬと思ったのでしょう。わたしどものあとからとび出してまいりました」 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。そのときついてきたのはだれですか、儀兵衛さんとお志保さん、それから鵜飼君と、みんなついてきたんですか」 「はい、みんなついてきました。そこでわたしども、長屋門のまえに立ちどまって、また耳をすましたが、すると、声のするのはどうやらつづら折れの下あたりらしいので、わたしどもも急いでそのほうへ駆け出しました」 「すると、そのときあなたがたは、また、あの吊り鐘のそばをとおったわけですね」 「それは、むろん、とおりました。あそこをとおらなければ、つづら折れのほうへはまいれませんからな」 「そのとき、あなたはもう一度、あの吊り鐘を御覧になりませんでしたか」 「いいえ、そんなひまありません。なにしろさきを急いでいましたから」 「雨が降っていたとおっしゃいましたね。すると、あのへんは真っ暗だから、とくべつに懐中電燈でもさしむけなければ、あの吊り鐘は見えなかったでしょうね」 「そのとおりです。ついさきほど、吊り鐘をあらためたばかりで、なんの異状もなかったものだから、別に気にもとめずにとおり過ぎたようなわけで、……そこで、声のするほうへ駆けつけていくと……」 「いや、ちょ、ちょ、ちょっと、……もう一度待ってください、最初あなたが吊り鐘をあらためた時刻ですがね。だいたい、何時ごろかわかりませんか」 「さあてと。わたしどもが手分けして、雪枝さんの捜索に、本鬼頭を出たのが八時半ごろのことですから、だいたい、八時四十分ごろのことじゃないかと思います」 「それから分鬼頭へ行かれたわけですが、そこでどのくらい、時間をくったでしょうねえ」 「さて、せいぜい十分くらいのところじゃないかと思います」 「そうすると、あの岩から分鬼頭の距離までを二分として往復で四分、つまり、あなたがたが最初吊り鐘を調べてから、二度目にそこをとおるまでには、十四分という|間《かん》|隙《げき》があるわけですね。ところで雨ですがねえ。雨はいつごろから降りはじめたんですか。岩を下って、分鬼頭へ行く途中から降り出したようなお話でしたが……」 「そうです、そうです。いや、それより少しまえでした。吊り鐘を調べているあいだに、ポツリポツリと降り出して来たので、急いで坂を下っていったんです」 「その時分、どの程度の雨でしたか」 「大した降りじゃありませんでしたね。そうそう、二度目に吊り鐘のそばをとおり過ぎたところ、急にザーッとやってきたのをおぼえております」 「そして、その雨は何時ごろまでつづいたのですか。ぼくは昨夜、すっかり寝込んじまったもんだから……」 「明け方ごろまで小やみなく降っていましたよ。そうそう、儀兵衛さんやお志保さん、それから鵜飼君の三人があの振り袖を見つけて知らせてくれたころには、まだ、雨はポツリポツリ降っていましたよ」 「えっ、それじゃあの振り袖を見つけたのは、分鬼頭の三人ですか。いや、このことは順を追うてお話を願いますが、そのときには、たしかに雨がまだ降っていたんですね」 「ええ、降っていました。知らせをきいて、わたしどもは、雨のなかを駆けつけていったんですからな」 「金田一さん」  と、そのとき、けげんそうにことばをはさんだのは、さっきから無言のまま、二人の話をきいていた磯川警部であった。 「雨のことが、ひどく気になる様子だが、なにかそれが……」 「そ、そ、それなんですよ、警部さん、それなんですよ」  耕助は例によって、もじゃもじゃ頭をめちゃめちゃにかきまわしながら、 「いま、清水さんのお話をきいているうちに、ぼくはふと、妙なことに気がついたんです。というのは、雪枝さんの死体ですがね、吊り鐘を吊りあげたとき、雪枝さんの死体は、ほとんどぬれていなかったんですよ。むろん吊り鐘の外へはみ出していた振り袖はビショぬれでした。しかし、その他の部分はほとんどぬれていなかったんです。もっとも、一昨日も雨でしたから、あの岩のあたりは、昨日一日じゅうぬれていたにちがいないし、犯人は、あの吊り鐘の力学を演じるあいだ、雪枝さんの死体を、岩のうえに寝かせておいたにちがいありません。だから、着物の背中にあたる部分は、じっとりと湿り気をおびていましたが、そのほかの部分はきれいに乾いていたんです。着物も髪も……これはいったいどういうわけでしょう」  磯川警部と清水さんは、驚いたように耕助の顔を見直した。それからしばらく、シーンと黙りこんでいたが、やがて清水さんがどもりながら、 「それは……しかし……死体をなにか……|合《かっ》|羽《ぱ》のようなものでくるんでおいたのじゃ……」 「しかし、死体の背中はじっとり湿っていましたよ。いや、湿っていたのみならず、泥までついていましたよ。それに、どんなに手ぎわよく押し込んだにしたところで、あの小さいすき間から、吊り鐘のなかへ死体を突っ込むには、相当手間がかかったにちがいない。そのあいだどうしてぬれずに、すんだのでしょう。清水さん、雨は相当の降りだったんでしょう」  清水さんは力なくうなずいた。いよいよもってしょげかえった顔色である。 「なるほど、そうきいてみると妙ですね。金田一さん、それについて、あなたになにか考えがありますか」 「ええ、まあ、たったひとつ、可能な場合が考えられますね。それは清水さんと村長が、最初吊り鐘のそばをはなれて、分鬼頭へ行っていたあいだ。……さっきもいったとおり、そのあいだに十四分という時間があるのですから、それだけあれば、犯人があれだけの芸当を演じることも不可能じゃなかったと思います。清水さん、そのころには、雨はまだ大して降っていなかったんでしょう」 「ええ、ほんのポツリポツリで……さっきもいったとおり、本降りになってきたのは、二度目にそばをとおり過ぎたときなんで。しかし、金田一さん、そうすると犯人はわたしどもが吊り鐘を調べて立ち去るのを、どこか近所で待っていたということになりますか」 「そうです、死体をかかえて……ね」  と、耕助はそこで世にも深刻な顔をしたが、さらに、やりきれないというようなため息を吐くと、 「ここで、注意しなければならないのは、幸庵さんのみるところでは、雪枝さんの殺されたのは、それよりはるかまえということになっているんですよ。六時から七時までのあいだ……これが犯行の推定時間でしたね。かりに七時ごろに雪枝さんを殺したとしても、なんだってその時刻、八時四十分過ぎまで待たなければならなかったんでしょう。いやいや、それよりも、なんだってそんな手数と危険をいとわず、あんなもののなかへ、雪枝さんの死体を押しこまなければならなかったんでしょう」 「フーン」  と、磯川警部も鼻のおくから、これまた、世にもやりきれぬというようなため息を噴き出した。 「なるほど、きいてみると、実に奇々怪々な事件ですな。第一の事件といい、第二の事件といい、まるで気ちがいの|沙《さ》|汰《た》ですな」 「そうなんですよ。警部さん、まったく正気の沙汰じゃないのです。いや、話の腰を折ってすみませんでした。それじゃ清水さん、さっきのつづきをお願いしましょうか」 「は、いや、つい、うっかりしていました。で、……吊り鐘のそばをとおり過ぎるとき、ザーッと雨が降ってきた、と、いうところまでお話しいたしましたね、そうです。相当の降りでした。わたしども、その雨のなかをおかして、声のするほうへ駆けつけたんですが、すると、つづら折れの下で、寺からおりてきた了沢さんや竹蔵に出会ったんです。あのふたりも幸庵さんの叫びをきいて、びっくりして駆けつけてきたんですね。そこでふたりを加えて一行七人、声のするほうへ駆けつけると、幸庵さん、谷の途中にひっかかって、助けを呼んでいるんです。そこでわたしと竹蔵が、谷へおりて、幸庵さんを助け起こしたんですが、見ると幸庵さんの左腕がブランとぶらさがっている、おまけにわあわあと、泣いているのか、どなっているのか、わけのわからぬことを叫び立てるには、わたしたちもすっかり|度《ど》|肝《ぎも》を抜かれたというわけです」 「なるほど、幸庵さんが変な男を見たというのはそのときですね。だが、その話をきくまえに、幸庵さんがどうして本鬼頭をとび出したのか、それからお願いしたいのですが……」 「それは、あの|愛《あい》|染《ぜん》かつらのためだそうです」 「愛染かつら?」  耕助と磯川警部は思わず眼をまるくして、清水さんの顔を見直した。 「そうなんです。まえの晩、花ちゃんが家をぬけ出したのは、愛染かつらの|洞《うろ》にあった、鵜飼という男の手紙を見つけたからですね。幸庵さん、そのことを思い出した。そこでまた、今夜雪枝ちゃんがぬけ出したのも、愛染かつらに|曰《いわ》くがありはしないか……と、そんなふうに考えたんですね。そこで、和尚や早苗さんがとめるのもきかず、ふらふらと本鬼頭をとび出したというわけです」 「なるほど、それで……?」 「金田一さんは御存じですが、愛染かつらの木というのは、谷の途中に生えている。幸庵さんはそこで谷へおりて、愛染かつらを調べてみたが、これはなんの変わりもなかった。洞のなかには、別に鵜飼さんの手紙もなかったそうです。ところが、幸庵さんがそうして、谷の途中で愛染かつらを調べていると、ふと足音がきこえてきたというんです。しかもその足音は、本鬼頭のほうから坂をのぼって、こっちのほうへ曲がってくる。幸庵さんそれでおやっと思ったわけです」 「ちょっと待ってください。その足音はたしかに本鬼頭のほうからきこえてきたというんですね」 「そうです。幸庵さんはそういうんです。いや、そればかりではない、あとから考えるとその足音は、本鬼頭の裏木戸から出てきたように思われる……と、こういうんです。さっきもいったとおり、昨夜は西風だったところへ、本鬼頭はあの谷より、西にあたっているから、小さな物音でも、わりにはっきりきこえたんですな」 「本鬼頭の裏木戸から……?」  耕助はどきっとしたように眼をそばめた。その瞬間、|稲《いな》|妻《ずま》のようにさっと耕助の頭をとおり過ぎたのは、|座《ざ》|敷《しき》|牢《ろう》にいるあの気ちがいのことだった。 「ええ、そうです。だから幸庵さんはいっそう変に思ったんですな。本鬼頭にそのとき残っていたのは、和尚の了然さんに早苗さん、勝野さんに月代さん、ほかに気ちがいがいるばかり。それらの連中のだれにしろ、ひとりで家をとび出そうとは思えない。そこへもってきて、その足音というのが、どうやら靴をはいているらしいので、幸庵さんはいよいよ怪しんだ。そこで谷からはいあがると、足音のちかづいてくるのを待ち伏せていた。そしてそいつがそばまで来たとき、いきなり声をかけたんです。すると相手はびっくりしたように、|踵《きびす》をかえして逃げようとする。幸庵さん、いよいよ|曲《くせ》|者《もの》というわけで、夢中であとからとびついたというわけです」 「なるほど、そこで格闘があったわけですね」 「そうです、そうです、幸庵さんが救いを求めたのもそのときなんで。そうしてしばらくもみあっていたが、なにしろ幸庵さんはあのとおりの年寄りだし、力だってあるほうじゃない。おまけに酒に酔うているンだから、こりゃあかないっこありませんや。逆に腕をねじあげられ、谷底めがけて突き落とされたはずみに、ポキッと左腕が折れたというわけです」  清水さんはそこまで語ると、ふっと口をつぐんで、ふたりの顔をながめている。耕助は黙って考えている。磯川警部も無言である。こうしてしばらく、なにかしら奥歯に物のはさまったようなぎごちない沈黙が、三人のあいだを交流したが、やがて耕助が静かに口をひらいた。 「ところで、幸庵さんはその男の顔を……」 「いや、それは見えなかったそうです。なにしろ昨夜は真っ暗でしたからな。ただ、もみあったときの感じでは、洋服を着た男で、相当肉づきのよい体をしていた……と、それくらいしかわからなかったそうです」 「その男は、それから、どの方角へ逃げたんですか」 「いや、それも幸庵さんにはわかっていない。なにしろ、谷へ投げ落とされただけならまだしものこと、腕を折られた痛さで、半分気が遠くなっていたんだから、そこまで見とどける余裕のなかったのも無理ありませんな」 「ところで、その曲者だがね、ひょっとするとそのとき、死体を背負っていたんじゃあるまいか」  そうことばをはさんだのは磯川警部である。 「いや、それはわたくしも考えました。しかし、幸庵さんの話じゃ、たしかにそんなものはかついでいなかった。ただ……」 「ただ……?」 「むしゃぶりついたときの手ざわりでは、なにかしら、ふろしき包みみたいなものを、小わきにかかえていたようだというんです」 「ふろしき包み……?」  耕助は不審そうに|眉《まゆ》をひそめた。 「ええ、幸庵さんはそういうんです。……さて、そんなことがわかったもんだから、わたしどもはともかく一応本鬼頭へひきあげることになりました。本鬼頭へかえってみると、和尚の了然さんと早苗さんが、心配そうに玄関へ出ていました。ふたりとも、さっきの騒ぎをききつけたんですね。そこで幸庵さんの体を一同にまかせておいて、わたしと竹蔵はまた外へとび出したんです」 「ちょっと待ってください。そのとき分鬼頭の三人は……?」 「ああ、あの連中も本鬼頭へついてきましたよ。そればかりではなく、珍しく朝までつきあったんです。なにしろずぶぬれになっていたし、それに雪枝さんのことも気になったんでしょう。それとも、ほかに曰くがあったのかもしれませんが、とにかく一同とともに、本鬼頭で夜明かしをしたんです」 「ほほう」  と、耕助は眼をまるくしたが、にわかにうれしさがこみあげてきたもののように、がりがりばりばり、むやみやたらともじゃもじゃ頭をかきまわすと、 「そ、そ、そうすると、昨夜、本鬼頭には、関係者一同が、全部そろっていたというわけですな。本鬼頭の一家のほかに、了然さんに了沢君。村長の荒木さんに医者の幸庵さん、竹蔵君に清水さん、それに分鬼頭の三人まで、すっかり顔をそろえていたというわけですね。そして、朝までみんな、そこにいたんですか」 「そうです。みんなそこにいたんです。もっとも、さっきもいったように、わたしと竹蔵とは、幸庵さんをあずけると、すぐまたとび出して、幸庵さんのいう曲者というのを探しにいきましたが、じきにあきらめてかえりました。なにしろ真っ暗だし、雨はいよいよ強くなるし、とてもだめだと思ったんです」 「それからあなたは、朝までずうっと本鬼頭にいたんですね」 「いました」 「それで、どうでしょう。だれか、そのあいだに、席をはずしたものはありませんか。いや、席ぐらいははずしたでしょうが、本鬼頭を出ていったようなことは……」 「それは絶対にありません。みんな奥の十畳に集まっていたんですが、そのあいだに、そりゃア、|御不浄《ごふじょう》へ立ったりしたものはありますが、外へ出ていったなんて、そんなことはありません。女連にしたところで、夜食を出したり、茶を入れたりするので、座敷を出たり入ったりしていましたが、外へ出ていったなんてことはありません」 「しかし……どうでしょう、あなたと竹蔵君が、曲者を探しに出た留守中は……そのときもみんな本鬼頭にいたんでしょうか」 「いたと思います。だれか出かけたとすれば、わたしにわからぬはずはない。それに、わたしたちは、すぐあきらめてひきかえしてきたので、そのあいだはごく短時間でしたからね」 「では、ついでに、もうひとつ念を押しておきますが、最初、あなたがたが手分けして、雪枝さんの捜索に出かけるときですがね、そのとき本鬼頭には和尚の了然さんと早苗さん、勝野さんと月代さん、と、この四人が残っていたはずですが、そのうちのだれかが、外へ出ていったということはありませんか」 「それも、大丈夫、ありません。そのことについてはわたしも一応、念をおしてたしかめておいたんですが、だれひとり、外へ出たものはないということは、はっきりわかっているんです」 「いや、ありがとうございました」  そこで耕助は、にっこり笑って磯川警部のほうをふりかえった。 「なるほど、それで関係者全部のアリバイが立証されたというわけですな」  磯川警部はいよいよもって、やりきれないというように肩をすくめた。すると、耕助がすぐにことばをひきとって、 「いや、そういうわけではありません。ただ一人、ここにまだ、アリバイのはっきりしない人物があります」 「ただ一人? だれですか、それは……?」 「座敷牢のなかにいるあの気ちがい。清水さん、あの気ちがいだけは、あなたがたの関心の外にはみ出していたんでしょう。あなたはまさかあの気ちがいを、はじめから終わりまで、見張っていたわけじゃないでしょう」 「金田一さん」  清水さんは急に大きく息をはずませた。 「すると、あなたはあの気ちがいが……?」 「いやいや、そういうわけではありません。ぼくはただ、あらゆる可能性を考えているんです。そして気ちがいといえども、われわれの関心から、除外したくないのです」  耕助がことばを切るとともに、シーンと凍りついたような沈黙が、ふたたび三人のあいだに落ちこんできた。それはなんとも名状することのできない恐ろしい沈黙だった。  座敷牢をぬけ出した気ちがいが、暗い夜道を|彷《ほう》|徨《こう》している姿を、清水さんはふっと頭に描いてみる。気ちがいの小わきには、絞め殺された雪枝の体が抱かれている。眼もさめるばかり鮮やかな、雪枝の|振《ふ》り|袖《そで》の色彩と、地獄の獄卒のようにドス黒い、気ちがいの色との、歯ぎしりの出るような恐ろしい対照。——気ちがいの顔つきは、憎悪と悪念と邪知との|権《ごん》|化《げ》である。雪枝をかかえて気ちがいは、|闇《やみ》のなかを走り走り走り走る。しぶく雨、吹きすさむ風、獄門島は真っ暗だ。…… 「いや、たびたび話の腰を折ってすみません。それではまた、さっきのつづきをお願いしましょうか」  耕助の声に、清水さんははっとしたようにわれにかえった。それからいまのドスぐろい、地獄絵巻をふりはらうように、ブルブルと体をふるわせると、はげしく|瞬《またた》きをしながら、 「ああ、いや、失礼しました。つい考えごとをしていたものですから。……さあてと、つまりそういうわけでわれわれは、明け方ごろまで、まんじりともしないで、本鬼頭の奥座敷に座っていたんですが、そのうちにとうとう夜が明けて、東が白んできたので、分鬼頭の三人がかえっていったのです。ええ、そのときにはまだ残り雨が霧のようにしょぼしょぼ降っていましたよ。ところが、本鬼頭を出ていった三人は、すぐまた顔色かえて引きかえしてきたんです。吊り鐘の下から、娘の振り袖がはみ出している!……と、そういうわけでわれわれは、びっくりしてあそこへ駆けつけていったというわけで。……と、これが、つまり、昨夜から今朝へかけてのわたしの経験した出来事のいっさいなんで。……」  清水さんはそこまで語ると、まるで|鯨《くじら》が潮を吐くように、フーッと長いため息をついた。それはまるで、腹の底にたまっていた、昨夜からの夢魔のかたまりを、いっきに吐き出すような調子であった。 「なるほど、ところで分鬼頭の三人だがね、ひょっとすると、そのとき、死体を吊り鐘のなかへ押しこんだのじゃないのかね。そうしておいてもどってくる……」 「いや、それはおそらく不可能でしょう。本鬼頭を出ていってから、ひっかえしてくるまでは、実に短い時間だったんですからね。とてもその間に、吊り鐘を持ちあげたり、死骸を押しこんだりすることはできません。それにその時分は、相当明るくなっていましたし、あそこは海からも入り江からもまる見えなんです。漁師というやつは朝の早いものですから、うっかり、そんなことをしていたら、いつなんどき、だれに見つからないものでもありません。まあ、それは大丈夫でしょう」  警部はそこでまたウーンとうなったが、県の刑事課から、第二のランチがやってきたのは、それから間もなくのことであった。こんど着いたランチには、刑事課嘱託の木下博士とその助手や、鑑識の連中が乗っていた。|死《し》|骸《がい》は現場で解剖されるのである。 「やあ、御苦労さま、笠岡から前田さんが来て、いま、みてもらっているところです」 「ああ、そう、それはちょうど幸いだ。じゃ、前田君にも手伝ってもらおう。被害者はふたりだって?」 「ええ、姉妹なんですがね。どうもいやな事件でしてね」  入り江まで迎えに出た磯川警部と木下博士とのあいだに、そんな会話の交わされているのを、耕助はぼんやりうしろできいていた。それから一行について本鬼頭へむかったが、途中、黙々として、なにやら深く考えこんでいた耕助は、なにを思ったのか急に顔をあげると、ならんで歩いている清水さんをふりかえった。 「ところで、清水さん、昨日あなたが本鬼頭へ行かれたのは、かっきり六時半だったとおっしゃいましたね」 「ええ、そうです。向こうへ着いたとき、なんの気もなく腕時計を見たので、はっきりおぼえているんです」 「あなたの時計は合っていますか」 「だいたい合っていると思いますがな。わたしは毎日ラジオに合わせるんで、狂っていたとしても、一分か二分でしょう。なぜですかな、金田一さん」 「いや、それではあなたは、かっきり六時半に本鬼頭へ着いたんですね。ところでそのとき、本鬼頭ではラジオをかけていましたか」 「ラジオ?」  と、清水さんは眼をまるくして耕助の顔を見た。 「ラジオがどうかしましたかな」 「あそこのうちでは、ラジオをかけていると、玄関へ入ってすぐきこえますね。昨夜はどうですか。きこえていましたか」  清水さんはちょっと首をかしげたが、 「いいや、きこえていませんでした。ラジオはかかっていなかったようです」 「それでは、それから後、あなたがたが雪枝さんを探しに出かけた時刻、つまり八時半ごろですね。そのあいだにだれかラジオをかけたものがありますか」  清水さんはいよいよ不思議そうに、耕助の顔を見直した。 「いいえ、だれもラジオをかけたものはありませんよ。どうしてですか、金田一さん」 「きっとですね」 「ええ、絶対に。……ラジオをかければすぐきこえるはずじゃありませんか。しかし、金田一さん、それはどういう意味ですかな。ラジオをかけるとか、かけないとか、……それがなにかこんどの事件に……?」  さきに立った磯川警部も、ふと足をとめると、さぐるように耕助の顔をふりかえった。  耕助はぼんやり首を左右にふると、 「いえね、六時三十五分にだれもラジオのスイッチを入れなかったとすると、これは、いささか妙に思われるんです。なぜって、その時間は、復員便りの時間だし、早苗さんは兄さんの一君の復員を待ちわびて、一日だって復員便りを欠かしたことはない。それだのに昨夜に限って、忘れたのか、それともわざときかなかったのか、ラジオのスイッチを入れなかったとすると……そこになにか、意味があるのかないのか……ぼくはそのことを考えているんです」  耕助はなぜか暗い眼をして、磯川警部の顔を見た。その眼つきは、警部の顔を見ながら、しかもその実、なにも見ていない、と、いうふうなどこか放心したような眼つきであった。     山狩りの夜  いちばんおくれてやってきた検事の一行が、検視をすませて立ち去ったのは、獄門島に|雀《すずめ》色のたそがれが、|蒼《そう》|茫《ぼう》としておおいかぶさってくるころだった。このへんでは、一応検事の指揮をあおぐというかたちになっているものの、実際捜査にあたるのは警察のひとびとである。検事のあとから木下博士や前田さんも、解剖を終わって島をはなれた。  解剖の結果からは格別新しいことも発見できず、花子は頭を殴打されて|昏《こん》|倒《とう》しているところを絞殺されたものであり、雪枝は手ぬぐいようのもので絞殺されたのち、吊り鐘の下へおしこめられたものであろうことが、改めて確認されたまでのことである。犯行の時刻についても、だいたい幸庵さんの意見と一致していた。雪枝はまえの晩の日没後間もなく殺されたのであろうということであった。  検視がすむと本鬼頭では、二つのお|弔《とむら》いを出すのに目のまわるように忙しくなった。ほんとうならば花子のお弔いは今日出すはずだったが、二日もお弔いがつづいては、はたのものが迷惑するだろうというので、明日まで待って雪枝といっしょに葬ることになったのである。新しい寝棺がまたひとつ調達され、若いものが昨日掘った墓穴のそばへ、もうひとつ穴を掘るために走った。このへんではどこでも土葬で、墓地は千光寺の背後にそびえている、摺鉢山の中腹にある。  一方、磯川警部はそのころまでに、だいたい関係者一同の聴き取りを終わっていたが、その結果はといえば、こいつまるで、雲をつかむような難事件だわいと、いまさらのごとくうんざりせざるをえなかった。ただひとつの希望は幸庵さんの出っくわしたという怪人物で、さてこそ幸庵さんはかなり鋭く追及されたが、なにしろくらがりのなかでのだんまり模様、幸庵さんも清水さんに申し立てた以上のことを付け加えることはできなかった。  ただ耳寄りなのはその男が、本鬼頭の裏木戸から出てきたらしいということとふろしき包みみたいなものを持っていたということ。そこで本鬼頭の早苗さんや勝野さんが、厳重に取り調べられたが、ふたりともいっこう心当たりがないという申し立てだった。ひょっとするとかれらの知らぬ間にだれかがしのびこんで、なにか持ち出したのではないかという耕助の意見だったが、早苗は格別、なにもなくなっているものはなさそうだという。勝野さんにいたっては、てんで意気地なく、ただおろおろとするばかりで、ふろしき包みのひとつやふたつ、なくなろうがなくなるまいが、気のつく気づかいはないので、耕助ははじめから勘定に入れてはいなかった。 「金田一さん、こうなるといよいよ全島の大捜索をしてみなきゃなりませんな。ひょっとすると、島へ逃げこんだギャングというのが、すなわち昨夜幸庵さんの出会った男で、ふたりの娘を殺した犯人というのもそいつかもしれん。島へ逃げこんでかくれているところを見つかったものだから……」 「警部さん、犯人がそいつかもしれぬという説にはぼくも同意します。しかし、殺人の動機については、とてもそんな単純なものとは考えられない。犯人がその男にしろ、その男でないにしろ、そこにはもっともっとすさまじい、奥底のふかい動機があるにちがいないんです。ときに警部さん、あなた、どうします。こっちへ泊まりますか。それともひきあげますか」 「いや、なるべくならばこっちへ泊まりたい。このほうの事件ばかりじゃない。ギャングのこともあるしね。それにもう一度現場も見たいし。……いちいち県から通っていちゃ、とても|埒《らち》があきそうにありませんからね」 「そう、そのほうがいいでしょう。この家はこんなにひろいのだから、五人や十人寝られぬということはない。刑事さんもみんないっしょに泊まられたら……なんならぼくも今夜から、ここに泊めてもらうことにして、ひとつ早苗さんに交渉してみましょうか」 「ああ、そう願えたらこんなありがたいことはないが……」  早苗にもむろんいなやはなかった。ことにあいつぐ妹たちの横死に、おびえきっている月代や、意気地なしの勝野さんは、警察の連中が泊まってくれるときいて、やっと|愁眉《しゅうび》をひらいたかたちで、月代のごときは子どものようにころころよろこんだ。 「まあ、そんならみんな泊まってくれはるのん。ああ、うれしい。わて、にぎやかなんが大好きやわ。陰気くさいの大きらい」 「月代ちゃん、あんたあんまりよろこんで、うっかり外へ出ちゃいけませんよ」  耕助がからかい顔に注意をすると、 「わて、出えしまへん。雪枝ちゃんや花ちゃんあほや。日が暮れてから出歩くなんて」 「絶対に出ませんか。たとい鵜飼さんから呼出状がやってきても……」 「まあ、いやな耕助さん」  月代はしなをつくって、ながい|袂《たもと》で耕助をぶつまねをしながら、 「出えへん、出えへん。だれがなんと言うてきても出やしまへん。わてかて命が惜しいもん」  おろかしいはおろかしいながら、こんどねらわれるものありとすれば、自分であろうことを知っているのが哀れであった。 「そう、それがよろしい。出歩きさえしなければ大丈夫ですからね。ここ当分、だれがなんといってきても、けっして外へ出るんじゃありませんよ」 「ええ出えへんわ。その代わりわて人殺しを祈り殺してやるわ」 「人殺しを祈り殺す?」  耕助はおどろいたように月代の顔を見直した。月代はしかし平然として、冴えぬ眼をみはりながら、 「ええ、そうよ。わていつも心配なことや気にいらんことがあると|御《ご》|祈《き》|祷《とう》するのんよ。わての御祈祷よう利くわ。わてに悪いことをしたもん、みんな|罰《ばち》があたるわ」  耕助がもの問いたげな眼でふりかえると、早苗はかるく微笑をふくみながら、つぎのように説明を加えた。 「ほら、お庭の向こうに白木づくりのお家があるでしょう。あれが祈祷所なんです。月代ちゃんはいつも気に入らぬことがあると、あの祈祷所へ閉じこもって御祈祷するんです。月代ちゃんの御祈祷は、たいへんよく利くって島でも評判ですのよ」 「そうらね、早苗ちゃんもああいってるでしょう? わて今夜は一生|懸《けん》|命《めい》に御祈祷して、きっと悪者に罰をあててやるわ」  月代は大得意であった。  耕助はいつか了然和尚に、あれは祈祷所と教えられたことを思い出した。その祈祷所は奥庭の小高いところにあって、与三松の座敷牢とむかいあっている。耕助はこういう家のなかに、どうして祈祷所なんかがあるのだろうといぶかっていたが、月代が御祈祷の名人とは、いままで夢にも知らなかった。  耕助はそのことについて、もっとききだしたかったが、そのとき磯川警部が時計を見て、 「金田一さん、もう一度現場を見たいのだが、ぐずぐずしていると日が暮れてしまう。そろそろ出かけようじゃありませんか」  と、さえぎったので、その話はそのままになってしまった。このことを、のちにいたって耕助は、どんなに悔やんだかわからないのだが。……  警部のことばに耕助も時計を見た。時刻はまさに六時四十分。耕助はさぐるように早苗の顔を見る。早苗はしかし、気がつかぬらしく、ぼんやりなにか考えている。彼女は今夜も、復員便りを忘れているのである。……  外へ出るとあたりはそろそろほの暗くなりかけている。日が落ちると島の空気はにわかに冷える。耕助はうそ寒く肩をすぼめながら、 「寺へ行ってみますか。それとも……」 「いや、|天《てん》|狗《ぐ》の鼻のほうへ行ってみましょう」  雪枝の殺された岩のうえには、まだ吊り鐘がぶらさがったままで、刑事がふたり|丹《たん》|念《ねん》に、あたりの草のなかを探していた。秋もようやくたけなわで、|可《か》|憐《れん》な|萩《はぎ》の花があちこちの岩角に、うす紅の|錦《にしき》をつづっている。 「なにか見つかったかね」 「いいえ、別に……」 「ほかの連中は?」 「山狩りに出かけたまままだ帰りません」  ほかの刑事連中は、清水さんや島の若いものを案内者にして、摺鉢山へギャング狩りに出かけていったのである。  警部はつりあげられた吊り鐘を仰ぎながら、 「すると吊り鐘は、この真下に伏せてあったわけですな。ところで金田一さん、ひょっとすると犯人は、最初清水君や村長が、ここをとおり過ぎたとき、吊り鐘の向こうにかくれていたのじゃあるまいか」 「そういう可能性も考えられないことはありません。清水さんも村長も、道のほうからとおりがかりに懐中電燈で照らしてみただけで、吊り鐘のそばへ寄ってみたわけじゃないのですからね。しかし、いまぶらさがっている位置でもわかるとおり、吊り鐘はほとんど岩角すれすれに置いてあったのですよ。その間一尺とはなかった。だから犯人がひとりならともかく、雪枝さんの死体というものをかかえて……どうですかねえ」  ふたりは岩の端に寄って下をのぞいてみた。岩は少し出っぱり気味になっていて、腹ばいになってそこから下をのぞくと、眼の下三間ほどのところを、下り坂が走っている。それ以外はきりたてたような十数丈の|断《だん》|崖《がい》で、たとい眼の下に見える道からとはいえ、|崖《がけ》をはいのぼってくるということは絶対に不可能だった。崖のふもとを見ると、潮のかげんか風の加減か、海草だの|塵《じん》|芥《かい》だのがいちめんに吹き寄せられて、波のまにまにゆっさゆっさとゆれている。 「なるほど、これじゃだめですな。|家《や》|守《もり》のような人間ならともかく、とてもこの崖にゃ、吸いついてはいられまい」  ひざをはらってふたりが岩から立ち上がったときである。不意に坂のうえのほうから口口にののしる声と、騒々しい足音がきこえてきたので、一同がぎょっとしてふりかえると、ころげるように坂を下ってきたのは、てんでに|鍬《くわ》だのシャベルだのをかついだ若いものであった。本鬼頭の墓地へ穴掘りに出向いていった連中である。 「あっ、警部さん、出た、出た!」  警部の姿を見つけると、若者たちが口々に叫んだ。 「出たってなにが出たんだ」  警部も息をはずませる。 「変なやつです。顔じゅうにひげを生やして……」 「兵隊の服を着て……」 「恐ろしく眼つきの鋭い男です」 「いたか! そしてどこにいたんだ」 「本鬼頭の墓地のすぐ裏っかわです……」 「本鬼頭のうしろは崖になっていたんですが……」 「あっしらが穴を掘ってるてえと、崖のうえががさがさいう。そこでひょいとあっしらがふりかえると……」 「草むらのなかから変なやつがのぞいているンです。なにしろ物すごい眼つきなんで……」 「ありゃあ、たしかに島のもんじゃありません。今まで見たこともない男です。きっと島へ逃げこんできた、お尋ねものにちがいありませんぜ」  興奮した若者たちは、口から|泡《あわ》をとばしていたが、 「それじゃおまえたち、なぜそいつをつかまえようとしなかったんだ」  と、刑事のひとりにきめつけられると、急に気まずそうに口をつぐんで、 「だって、旦那、そいつは飛び道具を持ってるってえ話で……」 「現にあっしがだれだと声をかけると、なにか身がまえるようなふうをしやがったんで」 「それで|蜘《く》|蛛《も》の子をちらすように逃げてきたのかい。|板《いた》|子《こ》一枚下は地獄という|荒稼業《あらかぎょう》の、島のあんちゃんにも似合わないじゃないか」  もうひとりの刑事がせせらわらった。 「そういわれちゃ一言もありませんが……なにしろだしぬけのことで……おい、だれだい、そら出たあといちばんに逃げ出したなあ……」 「おれじゃねえよ。|源《げん》の野郎だろう。源の野郎がいちばんに逃げ出したもんだから、つい、こちとらもつりこまれて……」 「馬鹿あいえ、そういうてまえじゃねえか。キャッとかスッとか、変な声を出しゃあがったのは……」  若者たちがわいわい言っているところへ、またどやどや上の坂から足音がきこえてきたかと思うと、急ぎ足に下ってきたのは、清水さんをはじめとして、山狩りに出向いていた刑事連中であった。 「ああ、おまえたち、ここにいたのか。さっきの騒ぎはありゃあどうしたのじゃ」 「清水さん、出たんですよ。変なやつが出たんです。そこでいまこうして警部さんに報告してるところなんで……」 「清水君、きみのほうはどうだね」  警部がはたから口をはさんだ。 「あっ、警部さん、そうです、そうです。たしかにだれかこの島へまぎれこんだやつがあるんです。海賊の|砦《とりで》にだれかが|焚《た》き火をしたあとが残っております。それからこのふろしき……」  清水さんのとり出したのは、雨にぬれてよごれていたけれど、それほど長く風雨にさらされていたとも思えないふろしきだった。ひろげてみると浅黄に白く鬼の面が染め出してあり、うえに本という字が、これまた白く染め抜いてある。 「この紋は……?」 「本鬼頭の紋どころですよ。分鬼頭のもやっぱり鬼の面ですが、うえに分という字が染め抜いてあります」  磯川警部は耕助のほうをふりかえって、 「そうするとやっぱり幸庵のいうことがほんとうだったんだね。やつめ、昨夜本鬼頭へしのびこんで、ふろしきにいっぱい、なにか盗み出したにちがいない」 「そう、そうかもしれません」  耕助はなんとなく気乗りのしない返事であった。警部はさぐるようにその顔をながめながら、 「そうかもしれない?……いやそうにきまっているじゃありませんか。現にここにこうして本鬼頭のふろしきがあるのだし……」 「ええ、そりゃあそうですが……しかし、それならなぜ早苗さんが気がつかないのでしょう」 「そりゃあ、きみ、ああいうひろい家だもの、ふろしきの一枚や二枚、いや、ふろしきに一杯や二杯盗まれたところで、気がつかないのも無理ないさ。それにふだんとちがって、取りこんでる最中だしね。しかし、金田一さん、あんたはなにを考えているんですね」 「いや」  耕助は急にはげしく首を左右にふると、 「なんてことはありませんが……いずれにしても警部さん、これでいよいよこの島に、変なやつがひとりまぎれこんでいることがはっきりしたんですから、島のものを狩り集めて、大がかりにひとつ山狩りをやってごらんになっちゃ……」 「そうだねえ」  警部はあたりを見回した。たそがれの薄明かりもすっかり|闇《やみ》に席をゆずって、たがいに顔さえ識別がつけかねるくらいの暗さになっている。瀬戸内海もすっかり暮れて、宵の明星がにわかに光度をましてくる。 「明日といっちゃ手おくれになるかもしれませんぜ。幸い今夜はよい月夜です。ひとつやってごらんになっちゃ……」 「よし、それじゃ思いきって決行するか」  磯川警部もどうやら心がきまったようである。  その晩の獄門島こそみものであった。宵から真夜中にかけて、ものものしい気配が島のなかにみなぎりわたった。  警部の一行はいったん本鬼頭へひきあげると、早苗さんや勝野さんの心づくしの夕飯を、|倉《そう》|皇《こう》としてかきこんだ。一方、村へかえった若者たちは、|檄《げき》をとばしてわれと思わんものを狩りもよおした。いずれも命知らずの漁師たちである。それをきくとわれもわれもと本鬼頭へ駆けつけてくる。  こうして警部たちの用意のできた八時ごろには、本鬼頭の周囲には、数十人の漁師たちが集まっていた。かれらはてんでに|炬《たい》|火《まつ》だの|提灯《ちょうちん》だのを用意し、また、てごろのえものをひっさげている。なんのことはない。|一《いっ》|揆《き》でも起こしそうな格好だった。  警部がそれらの連中を幾組かに編成し、それぞれ指揮をあたえているあいだに、奥座敷では耕助が、早苗をつかまえてこんなことを尋ねていた。 「早苗さん、あんたはほんとにこのふろしきを盗まれたことを御存じなかったのですか」 「あたし……いいえ、……どうしてですの」  早苗はなにもかも見抜こうとするかのような眼で、きっと耕助の顔を見返した。恐ろしい強い意志が、辛うじて表面の平静をささえているものの、その底にはなにかしら、はげしい感情が|奔流《ほんりゅう》となってのたうちまわっているのが感知される。彼女はしばらく、必死となって耕助の視線をはじきかえしていたが、やがてしだいに、たゆとうように眼を伏せていく。 「早苗さん」  耕助はいくらか声をはずませて、 「今夜はみんなで山狩りをするんですよ」 「…………」 「あれだけおおぜいの人間に狩り立てられたら、だれだって無事に逃げおおせることはできますまい。きっとつかまるにきまっている。早苗さん、あなた、それでもかまいませんか」  早苗ははっとしたように顔をあげた。そして恐ろしい眼をして耕助の顔をにらんだ。その視線の恐ろしさはどこか殺気さえふくんでいるように思われた。 「金田一さん! それ……どういう意味ですの」 「わかりませんか」 「わかりません。あたしにはわかりません。そんななぞのようなことをおっしゃったって……あたし……あたし……」  だが、そこへ潮つくりの竹蔵があわただしく入ってきたので、早苗のことばはふっつり途切れた。竹蔵が来たのは警部が呼んでいるというのである。 「ああ、そう、いますぐに行きます。ああ、ちょっと、竹蔵さん」 「へえ、なにか御用で……?」 「月代ちゃんはどうしましたか。月代ちゃんが見えないようだが……」 「あら、わてならここにいるやないの」  ケラケラわらいながら、足音をバタバタさせて入ってきた月代の姿を見て、瞬間、耕助は棒をのんだように立ちすくんだ。  月代は|白拍子《しらびょうし》のようななりをしているのである。白い|練《ね》り|絹《ぎぬ》の|水《すい》|干《かん》をつけ|緋《ひ》の|長袴《ながばかま》をはき、頭には金色の|立《たて》|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》。そして手には黄金の鈴を持っている。  耕助は大きく眼をみはって、 「月代ちゃん、その姿は……?」 「あら、耕助さん、忘れやはったの。わてこれから|御《ご》|祈《き》|祷《とう》するんやないの。あんた方、これから山狩りするんでしょ。わて、その山狩りで悪者がつかまるように御祈祷するの。悪者きっとつかまるわ。だってわての御祈祷、とてもよく利くのんよ」  月代はケラケラとわらい、それからまた、足音をバタバタさせながら、座敷の外へとび出していった。耕助はすっかり|度《ど》|肝《ぎも》を抜かれたかたちで|茫《ぼう》|然《ぜん》としてうしろ姿を見送っていたが、あとから思えば、それこそ生きている月代を見た最後であった。  そこへまた警部のもとから、第二の使者がやってきた。 「ええ、すぐ行きます。早苗さん」 「はあ。……」 「月代ちゃんを頼みます。あの子に気をつけてやって……」  早苗は|蒼《あお》|白《じろ》い顔をして、ぐいと|眉《まゆ》をつりあげた。そんなこと、いわれるまでもないといった顔色なのである。 「竹蔵さん、あんたも山狩りに行くのかい」 「へえ、行きます」 「きみはここに残ってもらいたいのだが……」 「でも、警部さんに一隊の指揮をまかされましたんで……いまさら、へんがえ[#「へんがえ」に傍点]するわけにもまいりますまい」  そのとき、だしぬけに奥のほうから、気ちがいのすさまじい怒号がきこえてきた。早苗はそれをきくとはっとして、 「あの……失礼します。伯父さま、今夜の騒ぎで気が立って……」  急ぎ足に部屋を出ていく。  耕助はなんともいえぬ不安な感じで、そのうしろ姿を見送っていたが、やがて竹蔵にうながされて玄関へ行く途中、例の座敷をのぞいてみると、いましも了然さんと了沢君が、仏前でお経をあげているところだった。村長の荒木さん、医者の村瀬幸庵さん、それから分鬼頭の儀兵衛どんにお志保さん、さらに美少年の鵜飼君も神妙にひかえている。騒ぎがこんなに大きくなったので、さすがに分鬼頭でも知らぬ顔はできなかったのである。  耕助の顔を見ると村長の荒木さんが、 「ああ、金田一さん、あんたも山狩りのお供かな」  と、落ち着きはらった声だった。 「ええ、ちょっと行ってまいります」 「そら、御苦労さま。わたしも行かねばならんのだが、今夜はお通夜じゃで……お通夜がすんだら、あとから追っかけていきましょう」 「いや、どちらでもあなたの御都合のよいように……」  |磬《けい》|子《す》の音がゴアアアアンとゆるく室内の空気をゆすぶる。和尚はついにふりかえらなかった。  玄関へ出てみると、あらかた出発したあとで、竹蔵のひきいている一隊と、警部の手につく一隊が、それぞれ六、七名ずつ残っているきりだった。 「金田一さん、さあ、出発しましょう」 「いや、ちょっと待ってください。このうちの三、四人はここに残ってもらいたいのですがね」 「どうして?」 「どうしてって、山から狩り出された男が、いつなんどき、この屋敷へ逃げこんでこないものでもありません。そうなると不用心だから、三、四人残って、家の周囲を見張っていただきたいのです」  もっともな耕助のことばに、警部もむろんいなやはなく、二つの隊から二人ずつ選抜すると、その四人に本鬼頭の警戒にあたらせることになった。 「さあ、それではいよいよ出発しましょう」  時計を見るとまさに八時半。外へ出てみると、空には降るような星の数。十日ばかりの月が千光寺のうしろの山にかかっている。本鬼頭のまえの坂をのぼって、谷の奥の道にさしかかると、千光寺へのぼるつづら折れを、点々として|炬《たい》|火《まつ》ののぼっていくのが見える。 「警部さん、ああして炬火をともしていくのは、まるで相手に目印をあたえるようなものじゃありませんか」 「いや、ああして炬火をともした一隊のあとには、別の一隊が灯もつけず、だんまりで進んでいくという寸法です。つまり、あの炬火に狩り出されたやつが、だんまり組の網の目にかかる、というだんどりになっているんだがね」 「なるほど」  耕助や警部の一隊と、竹蔵のひきいる一隊は、谷の奥の道をまっすぐに進んで、|天《てん》|狗《ぐ》の鼻のところまで来た。そしてそこを左へ曲がると、さっき墓掘りの若い衆や、刑事の一行がおりてきた坂をのぼっていった。島のこちらがわから摺鉢山へのぼるには、そこよりほかに道はないのである。  竹蔵のひきいる一隊は狩り出し部隊で、めいめい炬火をかかげ、わざとワアワアいいながらのぼっていく。それから小一町おくれて、だんまり組の耕助たちは、黙々としてついていく。天狗の鼻の上へは、日ごろあまりひとの行き来をしないところだから、道も細く、坂もにわかにけわしくなる。空には月もあり、降るような星もあったが、それでもどうかすると、道にはみ出している木の根に足をとられそうになる。  せり出している山の角をひとつ回ると、いままでさえぎられていた視界がにわかにひらけ、摺鉢山の斜面からてっぺんにある海賊の砦へかけてひとめで見渡すことができる。  それらの斜面のあちこちを、先発部隊の炬火が、鬼火のようにゆれながら|蟻《あり》のようにはい登っていく。おりおりワッワッとののしる声が、遠く近くきこえてくる。と、不意に耕助の頭によみがえってきたのは、さっききいた|磬《けい》|子《す》の音のゆるやかなひびき。……耕助は突如、なんともいえぬ異様な気持ちにおそわれた。  表は山狩り、奥は通夜。——そして|蒼《そう》|白《はく》になった早苗の面影、白拍子のような月代の姿、座敷牢のなかの狂人の、野獣のような叫び声、さらにまた、鬼頭千万太の臨終のことばを頭にうかべると、耕助の眼には突如炬火が、ゆっさゆっさと大きくゆれて、いまにも全島をつつんで燃えあがるかと思われた。      第五章 お|小夜聖天《さよしょうてん》  まえにもいったとおり、獄門島の全部落は、島の西側にかたまっている。そのことは、海賊の襲来にそなえるための、こうした離れ小島における伝統的習慣にもよるが、もうひとつにはこの島の地形にもよる。獄門島には西側以外に、人の住めるような平地がないのである。  摺鉢山はそれほど高い山ではないが、西側をのぞいた他の三方では、|突《とっ》|兀《こつ》として海から躍り出した格好で、そこには|投錨地《とうびょうち》もなければ、陸と海とをむすびつける足がかりになるような場所はどこにもなかった。だからいまこうして、島の西側へ上がるのど首をおさえられ、しらみつぶしに狩り立てられたが最後、山へ逃げこんだ男は、袋のなかの|鼠《ねずみ》も同様であった。  半月はいま、摺鉢山の肩にかかっている。空には星がふるえるようにまたたき、銀河がながく尾をひいて、乳色にけむっている。獄門島はいまうすじろくいぶされた銀色の世界である。そのなかを、点々として|炬《たい》|火《まつ》が、|狐火《きつねび》のようにゆれながら、山の斜面をはいのぼっていく。摺鉢山のてっぺんには、昔の海賊の砦の跡がある。おりおり若者たちのあげる|鯨《と》|波《き》の声が、あちこちの峰にこだまして、遠雷のとどろきのようにきこえる。  磯川警部に引率され、黙々として山路をたどっていた金田一耕助は、一行のなかに床屋の清公がまじっているのに気がついた。 「やあ、きみもいたのか」  耕助が白い歯を出してわらうと、清公は首をすくめてにやにやしながら、 「ヘッヘッヘッ、なにしろ近来の大捕り物ですから、床屋の清ちゃん、じっとしちゃいられませんや。しかし、|旦《だん》|那《な》、たいへんなことになりましたねえ」 「ふむ、たいへんなことになった。それで島の連中、なんといっている?」 「そりゃあ、ま、いろんなことをいってますがね。しかし、そんなこと、どうせとるに足らぬこってさあ。口にゃ税はかからねえから、勝手なことをほざくんでさ。だが、驚きましたね。島の連中も驚いてますぜ」 「なにを……?」 「いえね、旦那のこってさ。はじめはね、みんな旦那が臭いっていってたんですぜ。そういっちゃなんだが、島のもんにとっちゃ、旦那はどこの馬の骨か、牛の骨かわからねえ風来坊ですからね。疑われたってしかたがありませんや。金田一耕助って野郎が怪しいって、みんないきまいてたんですぜ」 「おやおや、しかし、なんだってぼくが花ちゃんや雪枝さんを殺すだろう?」 「そりゃあなんでさ。本鬼頭の財産を横領するためでさ。怒っちゃいけませんぜ、旦那、これは話なんだから。なあに、いまじゃもうだれもそんなバカげたこと、考えてるもんはありませんから御安心なさいまし、だが驚いたな、どうも、旦那が日本一の名探偵だなんて、……島の連中も|肝《きも》をつぶしてびっくりしゃあがった。だから、あっしゃいってやったんだ。野郎、見損なうな。旦那はああ見えても江戸っ子だい。……」 「いや、ありがとう。それはそれでいいがね。ぼくが本鬼頭の財産を横領するというのはどういうことだね。花ちゃんや雪枝さんを殺したからって、本鬼頭の財産が、ぼくのものになるわけがないじゃないか」 「なにね、それにゃちゃんと筋書きができてるんだ、と、こう|吐《ぬ》かしゃがるんです。つまりですな。月雪花の三人娘を殺したあげくが、早苗さんをたぶらかし、夫婦になって本鬼頭に入りこむ……と、こういう筋書きだともっともらしく吐かしゃアがるんだ。そんとき、あっしゃいってやった。馬鹿なことをいうな。かりにも旦那は江戸っ子だ。そんなまわりくどいことをなさるもんか。金がほしけりゃパンパンと、ピストルかなんかぶっぱなして、強盗でもなんでもなさらあ。だいいち、江戸のものがいつまでも、島の麦飯なんか食ってくらせるかッて、……旦那、あっしゃはなから旦那のヒイキですぜ」  たいへんなヒイキもあったもので、どっちにしても自分がそんな物騒な人間と見られていたかと思うと、耕助はおかしいような、空恐ろしいような感じだった。 「親方、それじゃまるで芝居の筋書きだね。昔のお家騒動みたいじゃないか。さしずめぼくの役回りは悪家老というところか」 「その代わり、色男にできてまさあ。お部屋さまなんかに|想《おも》われてね。|加《か》|賀《が》騒動の|大《おお》|月《つき》|内《く》|蔵《ら》|之《の》|助《すけ》、黒田騒動の|倉《くら》|橋《はし》|十太夫《じゅうだゆう》、芝居ですと、みんな水の垂れるような男ぶりだ」 「親方」  耕助の|声《こわ》|音《ね》が急にかわった。いくらか呼吸がはずむ感じで、 「島の住人というやつは、みんなそんなふうに、芝居がかりにものを考えるのかね」  いつかの清水さんの話もある。耕助はなんとなく、現実ばなれのした、講談まがいの島の人々の考えかたに興味をそそられたのである。 「いえ、いつもそうだってわけじゃありませんがね。芝居はみんな好きですね。なにしろ死んだ嘉右衛門さんてひとが、大の芝居好きときていた。旦那は御存じかどうかしりませんが、|讃《さぬ》|岐《き》のこんぴら様に、古い芝居小屋が残っている。なんでも|天《てん》|保《ぽう》か|嘉《か》|永《えい》かに建った小屋だとかで、大阪の大西の芝居、それをそっくりそのまままねて建てたやつが、いまだに、残っているんでさ。日本でもいちばん小さい芝居小屋だそうで、由緒ある古式やなんかも、ま、いろいろ残っている。だから、|上《かみ》|方《がた》役者なんかでも、相当なのがやってくるんです。嘉右衛門さんはこの芝居がごひいきでね、よい芝居がかかると、八|梃艪《ちょうろ》をとばして見物にいったもんです。なんしろ豪勢なもんでしたね。|桟《さ》|敷《じき》やなんか買い切りで、自分の手につく漁師なんかに大盤ぶるまいでさあ。あっしなんかも、清公清公とかわいがられまして、いつもお供を仰せつかったもんだが、いや、夢だね、まったく。あんな全盛はもう二度と来ますまいよ」 「なるほど、それできみは本鬼頭びいきだね。よっぽどうまくお|太《たい》|鼓《こ》をたたいたとみえる」 「いや、そういうわけじゃありませんが、あっしゃこれで|雑《ざっ》|俳《ぱい》をやる。雑俳……御存じですか。雑俳にもいろいろあるが、あっしの凝ったなあ|冠《かむり》づけ、|冠《かん》|句《く》というやつですね。若えころこいつに凝って、連中なんかつくって、久佐太郎先生に点をつけてもらったりしたもんでさ。冠句じゃなんたって久佐太郎先生がいちばんですからね。ところが、中国というところは、雑俳のさかんなところでしてね。ひところは冠句の雑誌だけでも、十幾つと出ていたもんでさ。雑俳雑俳とひとくちにいいますが、あっしなんかがやったのは川柳みたいにふざけたもんじゃねえ。ごくしんみりしたもんで、いい句になると発句とかわりゃしませんや。いつかあっしの天に抜けた句なんぞも、……いや、そんなことはどうでもようがすが、嘉右衛門さんというひとが、なにしろ|太《たい》|閤《こう》殿下だから、遊ぶことならなんでも好き。発句もやるが、発句よりゃあ雑俳のほうが好きなひとでしたね。自分でも極門という雅号をもっていて……」  ああ、そうか……と、耕助ははじめてわかったような気持ちだった。いつか判読にくるしんだ|屏風《びょうぶ》の色紙、みみずののたくったようなあの文字は、なくなった嘉右衛門翁の筆跡だったのか。 「極門——つまり、獄門島をもじったんですね。あのひとは、獄門島のぬしだったから……で、ま、よく|運《うん》|座《ざ》やなんかやったもんだが、そういう席にゃ、清公がいなきゃあおさまらねえというわけで、なんしろ、こっちは本場をふんでるから、宗匠気取りでさ。で、まあ、いろいろとごひいきにあずかったというわけでさあね」 「なるほど、嘉右衛門さんというひとがそういうひとだったから、つまり、そんなふうに芝居好きだったから、それで与三松さんも女役者を|後《のち》|添《ぞ》いにしたわけだね」  実はこの質問は、さっきから切り出したくてうずうずしていたのである。月雪花の三人娘の母なるひと、そのひとについて耕助は、けさから深い関心を持ちはじめていた。だれかにきいてみたくてしかたがなかったのである。しかしおよそ聞き込みというものは、正面切って切り出しては効果の薄いものである。ことに自分の身分を知られてしまったいまとなっては、どんな質問も一応相手に警戒をあたえるであろうから、果たして真実がひき出せるかどうか疑問である。だからこの際も、できるだけしぜんに切り出すために、いままで機会を待っていたのだが、果たして床屋の清公は、すぐその手に乗ってきた。 「いや、それはちがいます。ええ、そりゃあ、ま、嘉右衛門さんが芝居好きだったからこそ、あんなことになったんですが、お|小《さ》|夜《よ》さん——お小夜さんてのがその女の名前ですがね、芸名はなんていったか知りません。そのお小夜さんに与三松の旦那が手をつけて、|妾《めかけ》にしたときにゃ、嘉右衛門さんは大|立《りっ》|腹《ぷく》の大反対だったそうですよ」 「きみはそのお小夜さんてのを知っているのかね」 「へえ、あっしが島へ来たころはまだ生きていましたが、半年もたたぬうちに亡くなったので、よくは知りませんがね。もっともうわさはいろいろきいてまさあ」 「なんでも|道成寺《どうじょうじ》の踊りが得意で、そこを与三松さんに見染められて、お妾になったというじゃないか」 「ええ、そう、得意なのは道成寺に|狐忠信《きつねただのぶ》、|葛《くず》の|葉《は》、……と、そういった|変《へん》|化《げ》|物《もの》をおはこにしていたという話です。それが一座をつくって中国筋を流れているところを、嘉右衛門の旦那がうわさをきいて、一座をまるごかしに島へ買ってきて芝居をさせた。なんでも本鬼頭の庭に舞台をつくって、そこで道成寺を踊らせたんですね。ところがそれに与三松の旦那が|惚《ほ》れて手をつけた。こりゃあしかし、嘉右衛門さんが立腹するのが無理でさあね。与三松の旦那にしてみれば、ちょうどせんのおかみさん、つまり千万さんのおふくろさんですな、そのおかみさんをなくしたばかり、|閨《ねや》寂しさをかこっていたおりからだ。きれいな女役者にお世辞のひとつもいわれてごらんなさい。よだれを流して、手が出るのはあたりまえ、猫に|鰹節《かつおぶし》というのはこのことで、なんたって、こればっかりは、嘉右衛門さん一世一代の大しくじりでしたね」 「嘉右衛門さんは、しかし、なぜその婦人に反対したんだね」 「そりゃあ、旦那、いうまでもありません。相手はどこの馬の骨か牛の骨かわからねえ女役者だ。こっちはこれでも島一番の網元。それに島の連中というやつは、|氏素性《うじすじょう》が知れていても、なかなか他国の人と縁組みはしねえもんです」 「それじゃ、お小夜さんというひともたいへんだったろう。太閤さんににらまれちゃアね」 「そうですとも、ところがこいつ嘉右衛門さんににらまれて、ちぢみあがるような、しおらしい女だったらまだよかったんですが、どっこい、なにしろ海千山千のしたたかもの。与三松の旦那にいろいろ知恵をつけるから、さあいよいよたいへん、これじゃまるく納まるものも納まりっこありませんや。与三松の旦那は、なんしろ|阿《あ》|魔《ま》に鼻毛をよまれてるんだから、女のいうことをなんでもきく。だもんだから、同じ屋根の下に住みながら、すったもんだと親子のあいだで、血で血を洗うようないさかいが絶えなかったという話で、なんでも一時は、与三松の旦那が嘉右衛門さんを押しこめて、本鬼頭の家を乗っとるんだといううわさまであったくらいだそうで、その時分にゃあ、さすがの嘉右衛門さんも狐の勢いにおされて、いっぺんに年をとったといいますぜ」 「ふうん、すると女のほうも相当なもんだね」 「そうですとも、だからあいつがあれさえやらなきゃ、いまごろは本鬼頭、与三松旦那のものになって、お小夜も網元のおかみさんでいばっていられたんです」 「あれ……? あれってなんだい」 「|御《ご》|祈《き》|祷《とう》でさあ」 「御祈祷……?」  耕助は眼をまるくすると同時に、はっと胸をとどろかせた。さっきの月代のいでたちが、稲妻のように脳裏をつらぬいたからである。 「そうです。旦那も御存じでしょう。本鬼頭の奥庭に、変な建物がありましょう。あれ、与三松の旦那が、女房のために建ててやったもんだそうで、このお小夜という女、どこでおぼえたのか|加《か》|持《じ》祈祷をやるんです。あっしが来たころにゃあもう半病人でやめてしまいましたが、ひところは大した勢いで、まるで|静御前《しずかごぜん》か仏御前みたいな格好をして、鈴をふり、香をたきながら、|生《い》|駒《こま》の|聖天《しょうてん》さんも|河《かわ》|内《ち》の聖天さんも、みんないであい|候《そうら》いたまえ、こっちは何歳|寅《とら》|年《どし》の女でござります。……てなことをやるんだそうで」  耕助は思わずプッと吹き出した。 「なんだい、そりゃあ……」 「なにが……?」 「だって、聖天さんといやあ仏様の親類だぜ、それをいまききゃ、お小夜さんの|風《ふう》|体《てい》は|巫《み》|女《こ》みたいじゃないか」  さっきの月代の風体も、|比《び》|丘《く》|尼《に》というよりは巫女であった。 「そんなこと、かまうもんですか。加持だの、祈祷だのってやつは、できるだけもったいぶったほうが信用がある。お小夜のやつ、どこでおぼえたのか、きっと旅役者をして国々を遍歴しているうちに、そんなまねをならいやあがったんですね。まつってたなあたしかに聖天さんだといいましたよ。ところがこいつが|利《き》くんです。いや、ま、利くという評判なんですね。腹がいたいの、おできができたの、それに若いもんが多うがすから、変な病気なんかもらってくる。そいつがお小夜に拝んでもらって、ほら、生駒の聖天さんも河内の聖天さんもいであい候いたまえ、こっちは何歳何年のなにがしでござります、と、やられて、怪しげなお水かなんかもらってくると、不思議によくなるという評判。で、与三松の旦那は申すに及ばず、島にもだんだん信者がふえる。しまいにゃほかの島々からも、おがんでもらいにくるというわけでたいへんな繁盛。これがいけなかったんで、お小夜にとっちゃ、こいつが破滅のもとだったんです」 「はてね、どういうわけだね、信者がふえて繁盛ならけっこうじゃないか」 「そりゃ、ま、一応そう見えますが、お小夜のやつ図に乗って、千光寺の和尚さんにわたりをつけておくのを忘れやあがった」 「あっ、なあるほど」 「和尚さんにしてみればおもしろかあありませんやね。それまでは吉凶につけて、寺へ駆け込んだ連中が、いつの間にやらみんなお小夜聖天さんの信者になっちまやあがった。和尚さんはしかし、ああいう|大《たい》|腹《ふく》のひとだから、はじめのうちは苦笑いして、見て見ぬふりをしていなすった。ところがお小夜のやつ繁盛につけて、おいおい増長、勢いあたるべからず、しまいにゃあなんとか教の御教祖様になるんだとか称して仏様と神様とをいっしょくたにしたような教えをでっちあげ、おいおい寺をないがしろにする。さあ、そこでさすがの和尚さんも、堪忍袋の緒を切んなすった。あのひとは大腹なひとだが、大腹なひとだけにいったん思いたったら恐ろしい。お小夜聖天教、これ撲滅せざるべからずと、決然と立ちあがったからさあたいへん」 「おもしろいな、親方、きみはなかなか話がうまい」 「おだてちゃいけません。とにかくそういうわけで、和尚を敵にまわしたのが破滅のもと、信者をとられたからって、なんたって長い伝統がありまさあ。寺の勢力というものは一朝一夕に抜けるもんじゃありません。そこを見抜けなかったのか、かしこいようでも女だ、お小夜の不覚のもとだったんですね。和尚はそれまで嘉右衛門さんと与三松さんのけんかにも、中立の態度をとっていたのが、ここにいたって、断然嘉右衛門さんの味方になった。つまり同盟を結んだんですな。こうなりゃお小夜、いかに才気ありとも、|所《しょ》|詮《せん》勝ち味はありませんや。島へ来て、お寺と網元に|楯《たて》ついちゃおしまいです。で、お小夜聖天、だんだん旗色が悪くなった。旗色が悪くなるにつけ、あせり気味になるんですね。おいおい変なことをいい出した。いまに大津波が来て、島をのんでしまうぞよとか、摺鉢山が真っ二つにわれて火の雨が降るぞよとか……こうなると島の連中がいかにバカでも、気味悪がっておいおい寄りつかなくなる。なんしろ、しまいにゃ、性根を焼き直さねばいかなる御祈祷も効き目がないぞよとかなんとかいって、信者の顔に焼け|火《ひ》|箸《ばし》をあてるという騒ぎまであったそうで、つまり気が変になったんですね。そこでえたりやおうと嘉右衛門さんが、家のなかに座敷牢をつくってぶちこんでしまった。つまりこれでお小夜聖天完全なる敗北でさあ」 「ふうん、それで与三松さんはどうしたんだね」 「与三松さんは、あなた、嘉右衛門さんからみると、人間がひとまわりもふたまわりも小さい。元来、嘉右衛門さんに楯つけるようなひとじゃねえんです。お小夜という軍師がついていたからこそ、それまでいろいろやっていたが、軍師が座敷牢へぶちこまれちまっちゃ、羽根をうしなった鳥、|牙《きば》を抜かれた獣も同然、おやじに対して全然歯が立ちませんや。それでも当座は、|座《ざ》|敷《しき》|牢《ろう》からお小夜をぬすみ出したりなんか、いろいろ悪あがきをしていたそうですが、そのうちにお小夜は狂い死んでしまう。それでがっかり気落ちがしたのか、それから間もなく、与三松さんも気が変になって、こんどは自分が座敷牢のごやっかいになるという始末。いや、本鬼頭も変な女を背負いこんだばかりに、因果がながくつづきますよ」 「つまり、そのお小夜さんというのが、三人の娘の生母なんだね」 「そうです、そうです。あの女に子どもが生まれたのは不思議だと、みんな言ってましたよ。旅回りの女役者、芸を売るだけじゃやっていけず、体をよごすような場合だってずいぶんあったろうが、それでよく子どもができたもんだというんですが、子どもを産んだのが仕合わせかどうか、なんしろ三人が三人とも、あのとおりの娘ですからねえ。しかし、お小夜という女、べっぴんはべっぴんだったそうですよ。険のあるのが難だが、鼻のぴんと高い、眼の大きい、全盛のころにゃすごいような器量だったそうです。残念ながらあっしゃその時分を知りませんがね。あっしの来たころにゃ、もう座敷牢へ入れられていて、いっぺんだけ牢をぬけ出してあばれているのを見たことがありますが。その時分にゃ、昔の面影は見るよしもなく、まるで鬼ばばあでしたね」 「いや、ありがとう。なかなかおもしろい話だったよ」  耕助は礼をいったが、そのときだった。突然峰々をふるわせて、きこえてきたのはピストルの音、つづいて二発、三発——わっと|鯨《と》|波《き》の声が谷から谷へとどろきわたる。     海賊の|砦《とりで》 「や! 金田一さん、見つかったらしいぞ!」 「ええ、行ってみましょう。なるべくけがのないようにつかまえたいものです」  磯川警部の一行は、いつの間にやら摺鉢山の八合目あたりまでのぼっていった。海賊の|砦《とりで》はすぐ頭のうえに見えている。月明かりの山の|細《ほそ》|径《みち》、一同は木の根や石ころにつまずきながら、息を切ってのぼっていく。 「旦那、気をつけてください。このへんから防空監視所や高射砲陣地になっていたんだから。|壕《ごう》が一面に掘ってあるんです」  磯川警部の背後から、だれかが息を切らしながら注意する。  なるほど、そのへんから|勾《こう》|配《ばい》が急にゆるくなって、傾斜のなめらかな台地になっている。そして、その台地のあちこちに、にょきにょきとそそり出した岩や、やせてひょろひょろした松の木などを利用して、|蜘《く》|蛛《も》の|巣《す》のように壕が掘ってあり、それらの壕には、むき出しのもあったが、なかには|掩《えん》|蓋《がい》におおわれて地下道になっているところもある。 「なるほど、こいつはやっかいだな。このなかにもぐりこまれちゃ、狩り出すのに骨が折れる」 「ピストルの音がしたのは、もう少し上でしたね」 「どうしたんだろう。急にしんとしてしまったじゃないか」 「とにかく行ってみましょう。気をつけて。相手は飛び道具を持っているんだから」  足音に気をつけながらのぼっていくと、急に大きな岩角から、数人の人間がとび出してきた。 「だれだ!」 「清水君じゃないか。いま、ピストルを撃ったのはきみかね」 「ああ、警部さんですか。ええ、向こうからぶっ放してきたもんですから、こっちも応酬したんです」 「そして、相手は……?」 「それがねえ、突然、消えちまいましたので……どこかそのへんの壕へもぐりこんだらしいですよ。ああ、ときに変なものを見つけましたよ。おい、きみ、それを出してみてくれ」  清水さんのことばに、うしろにひかえていた連中が、てんでに出してみせたのは、|鍋《なべ》、米の入った袋、みそ|瓶《がめ》、大根が二、三本、魚の干物に包丁がひとつ。ほかに|茶《ちゃ》|碗《わん》と|箸《はし》が|一《いっ》|対《つい》。——磯川警部は眼をまるくした。 「どこに——そんなものがあったんだ」 「向こうの壕のなかに」 「いや、おれのいってるのはそれじゃない。どこからこんなものを徴発して来おったろう」 「警部さん、それはわかっているじゃありませんか。本鬼頭からですよ」 「しかし、本鬼頭でも、これだけのものがなくなりゃ、気がつかぬというはずがない」 「そりゃ……もちろん、気がついているにちがいないんです。それを黙っていたというのは……あ、だれかのぼってきましたよ」  一同がふりかえると、いま、耕助たちがのぼってきた道を、こっちへやってくるものがある。しかもそれは一人だった。 「だれだ!」  清水さんが身構えしながら|大《だい》|喝《かつ》した。 「ああ、清水さんだね。私だよ。気になるから様子を見に来た。さっきピストルの音がしたようだが、悪者はつかまりましたかな」  それは村長の荒木さんであった。例によってきっと口をへの字に結んだまま、歩きぶりにも、物に動ぜぬ|悠《ゆう》|然《ぜん》たるところがあった。 「ああ村長さん、お通夜はすんだのですか」 「すみました」 「そして、本鬼頭のほうは……月代さんは大丈夫でしょうか」 「大丈夫ですよ。私が出るとき、御祈祷の声がしていましたよ。幸庵さんと了沢がみんなの帰るまで待つといってる」 「和尚さんは?」 「和尚は、リューマチがいたむというので、さっき寺へかえっていった。分鬼頭の連中も引きあげたが、しかし、なに、大丈夫、若い者が玄関に張りこんでいますからな」  耕助はにわかに不安がこみあげて、しきりに胸が騒いだが、そのときだった。向こうのほうでまたもや、ズドンとピストルの音。それにつづいて、いたいた、という叫び、あっちだ、あっちだとどなる声。 「そら、出た!」  一同は、すでに走り出している。わっわっという|鯨《と》|波《き》の声が、海賊の砦を取りまいて、|炬《たい》|火《まつ》の火が右往左往する。 「どこだ、|曲《くせ》|者《もの》はどっちへ逃げた?」 「あっ、旦那、向こうです、ほら、尾根を走っていきます。気をつけてください。源の野郎がけがをしました」  遠くのほうから声がした。 「けがをした? 撃たれたのか」 「そうです。でも、かすり傷だから、大したことはありません」 「よし、気をつけてやれ!」  海賊の砦は二段になっている。と、見れば上段の尾根づたいに背を丸くして走っていく姿が見える。その尾根にもいたるところに、にょきにょきと岩が出ており、やせたひょろひょろ松が生えているので、曲者の姿は見えたりかくれたりした。 「しめた、あっちへ行けばゆきづまりだ。向こうは深い谷になっている。こうなりゃ袋のなかの|鼠《ねずみ》も同様です」  清水さんは先頭に立って、上段の尾根へかけのぼった。なるほど、砦には格好の場所である。尾根に立って見渡せば、東の海が一望のうちにおさめられるのである。月影を砕いた波が、いぶし銀のように底光りしているなかに点々として黒い島影がちらばっている。夜霧にけぶった|漁火《いさりび》が、夢のようにまたたいていた。 「しめた、きゃつめ、とうとう行きづまりやがったぞ」 「清水君、危ない、むやみにちかづくな。|窮鼠《きゅうそ》かえって猫を|食《は》む。相手は|手《て》|負《お》い|猪《じし》同然だ」  警部のことばも終わらぬうちに、突然、ズドンとピストルが鳴って、どこかでカチッと弾丸のはねっかえる音がした。 「ひゃっ!」  悲鳴をあげたのは床屋の清公である。一同ははっと首をすくめて、|灌《かん》|木《ぼく》のなかに身を伏せると、岩を小楯にとりながら、と、みれば十数|間《けん》かなたの岩陰に、男がひとりうずくまって、こちらをねらっているらしい。岩陰になっているのと、灌木におおわれているのとで、顔はもちろん姿もよく見えなかった。男の左側は深い谷である。そこからはもう逃げようにも逃げ道はない。相手は進退きわまったのだ。 「おいピストルを捨てろ。おとなしくしろ」  だが、それに応酬するかのように、言下にピストルがズドンと鳴って、弾丸が一同の頭上をとおった。 「畜生、こうなっちゃしかたがない。清水君、撃ってみろ。だが、なるべく殺すな」  清水さんが一発撃った。すぐ相手も撃ちかえしてきた。そこへ応援に駆けつけてきたお巡りさんが、二、三発つづけざまにぶっ放した。  と、そのときである。突如、高い悲鳴が虚空をつらぬいたかと思うと、男の姿がもんどり打って、左に見える谷のなかへ転落していったのである。 「しまった!」  一同が谷をのぞくと、男の姿はあちらの岩角、こちらの灌木につきあたって、|毬《まり》のようにはねっかえりながら落ちていく。谷の向こうから、ワーッという歓声が起こった。 「とにかく下へおりてみよう」  一同は、|径《こみち》をもとめて木の根や岩角につかまりながら、斜めに谷をおりていった。ちょうど谷のその側面はまともに月光を浴びているので、それほど危険なわざでもない。一同はやっと谷底へたどりついた。谷といってもそこは水が流れているわけではなく、露出した岩から岩をつづって、一面に灌木がおいしげっている。 「どこだ、どこだ」 「たしかにこっちのほうだと思ったが……」 「あっ、あそこにだれかいる……」  叫んだのは清公である。なるほど十間ほど向こうの灌木のなかに、黒い影が立っている。その人影は身じろぎもしないで足下を見つめている。 「だれか!」  警部が声をかけた。だが、相手は返事もしなかった。依然として凍りついたように足下を見つめている。 「だれか!」  かさねて警部が|誰《すい》|何《か》した。 「返事をせぬと撃つぞ!」  警部の声に相手はかすかに首をふったが、そのとたん、耕助が灌木のなかでとびあがった。 「あっ、警部さん、撃っちゃいけない!」  耕助は|落《らっ》|下《か》|傘《さん》のように|袴《はかま》の|裾《すそ》をひろげながら、相手のそばへ駆け寄ると、 「早苗さん!」  そのとたん、相手は眼がくらんだようにくらくらと二、三歩たたらを踏んだ。耕助はすばやくそれを抱きとめると、 「あなたはなんだって……あなたはなんだって、こんなところへ来たんです」  早苗の蒼白い顔が下から耕助を見上げている。大きく見開かれた眼は、耕助の姿をすいこむように見つめているが、しかし、その実、なんにも見ていないのである。 「早苗さん」  耕助はその耳もとに口を当てて叫んだ。 「早苗さん、あなたはこの男を知っているんですか。これはほんとうにあなたの兄さんですか」  耕助は、足下にころがった男の死体に眼をやった。そのとたん、早苗の顔がベソをかくようにゆがんだかと思うと、 「ちがいました! 兄ではございませんでした!」  血を吐くような声だった。そしてひしと両手で顔をおおうた。  そのときである。あとから駆けつけて、死体を改めていた磯川警部が、ひざをはらって立ち上がると、妙な顔をしてつぶやいた。 「不思議だ。どこにも弾丸のあとはない。この男はピストルに撃たれたのじゃなかったのだ」  耕助はギクッとしたように、反射的に海賊の砦を仰いだが、そこからではあの岩角は見えなかった。月はいま頭のまうえにかかっている。……  ちょうどそのころ、本鬼頭の屋敷のうちでも、ひとつの事件が起こっていたのである。     |駒《こま》が勇めば花が散る  夜がふけるにしたがって、ひろい座敷の、しらじらとした寒さが身にしみる。  お通夜のあいだはまだよかったが、お開きになるとともに、分鬼頭の一家はかえっていく。村長の荒木さんは山狩りの模様が気になるからと出かけていく。和尚の了然さんまでが、リューマチがいたむといって寺へひきあげ、あとに残された山羊ひげの幸庵さんと、|典《てん》|座《ぞ》の了沢君のふたりきり。こうなると了沢君、羽毛をむしられ裸にされた鶏のような心地だった。さむざむとした心細さが身にしみるのである。 「幸庵さん、幸庵さん、あなたそんなに飲んでもよいのでござりますか。おけがにさわりはいたしませんか」 「ええて、ええて、大丈夫じゃて。酔うと忘れる。痛さも忘れる。憂いも辛いも忘れるじゃて、ケチケチしゃんすな。おまえのふところがいたむわけでもあるまいがな。あっはっは」 「いいえ、酒を|吝《おし》むではござりませぬ。そんなに召し上がってはおけがにさわりはしないかと思うて……それに今夜はただの晩ではござりませぬ」 「ただの晩ではない……あっはっは、そんなこと、おまえにいわれるまでもない。この幸庵、ようく心得とる。今夜は雪枝と花子のお通夜の晩じゃ。な、そうじゃろ。さればによってこの幸庵、|仏《ほとけ》の|冥《めい》|福《ふく》をいのってかく|酩《めい》|酊《てい》つかまつるう……じゃ。あっはっは」 「いえ。そのことではござりませぬ。わたしがいうのはそのことではござりませぬ」 「そのことではない? はて、そのことでないとすると、なんのことじゃな」 「幸庵さんはお忘れでござりますか。さっき警部さんや金田一さんが出ていきがけに、なんと言うてお頼みでござりました。あとのことはよろしく頼む。わけても月代さんに気をつけてと。……」 「あっはっは、なにかと思えばそのことか。そのことならば、了沢や、なにも気づかうことはないぞよ。この幸庵、|肝《きも》に銘じてようく覚えとるて」 「でも、そんなに召し上がっては……」 「ええて、ええて。大丈夫|金《かね》の|脇《わき》|差《ざし》じゃ。酒は飲んでも飲まいでも、勤めるところはきっとつとめるこの幸庵……あっはっは、了沢さんや、頼む、拝む、勝野さんに言うてな、もう一本。……もうこれきりじゃ。これでよす。だれがなんて言うてもこれでおしまいじゃ。さればによってもう一本、いや、もう半本。……頼む、拝む、これ了沢」  いわゆるあとひき上戸というやつである。飲まねば飲まぬですむのだが、ひとくち|杯《さかずき》をなめたが最後もういけない。もう一杯、もう半杯がかさなって、やがてもう一本になり、半本になり、あげくの果てにはずぶずぶの、前後不覚に寝てしまう。そこまでいかねば、飲んだような気がしない幸庵さんなのである。 「あれ、幸庵さん、冗談じゃない。あなた、まだ召し上がるおつもりでござりますか」 「そのとおり、そのとおり、まだ召し上がるおつもりじゃ。これ、了沢、そんな邪険な顔をしないで、ひとはしり台所まで|上使《じょうし》に行ってくれ。御上使のお入りイ、ヒヤー、テンテン。これはこれは御上使さまには、遠路御苦労に存じまする。して、御用のおもむきとは……いやなに、勝野どの、上使のおもむきようくきかれい。村瀬|山《や》|羊《ぎ》|髯《ひげ》|之《の》|守《かみ》幸庵どのには、今宵のもてなし、|御《ぎょ》|感《かん》あって、ぜひともいま一本御所望とある。早々つけて持ってまいれ……とな。あっはっは。あれ、なんじゃ、了沢、なんでそんな怖い顔をするのじゃ。ああわかった、そのほうお勝とぐるになって、この幸庵をほし殺そうというのじゃな。ええわ、もうよい、もう頼まぬ。うぬらがそんなに|吝《おし》むなら、幸庵じきじきに出向いていって、|樽《たる》ごと飲まにゃア承知ができない。……」  幸庵さん、片手を畳について|尻《しり》からさきに、やっこらさと起きあがったが、なにしろひどく酔うている。それに左がつかえないから中心がとれない。起きあがったと思うと脚がもつれて、ドスンバタンとしりもちついて、 「あ、いたたたたた!」  了沢君はため息ついた。 「幸庵さん、あなたは情けないひとですね。酔わないときのあなたは、ほんとうによいひとなのだが……しかたがない。それじゃわたしが行ってきます。その代わり一本ですよ。一本こっきりですよ。もうどんなにあとねだりしてもあたしは知らないから……」  泣く子と酔っぱらいには勝てないのである。了沢がふしょうぶしょう|銚子《ちょうし》をさげて台所へ来てみると、お通夜のあとの洗いものを山とつんだ台所で、勝野さんがひとりうろうろ、なにか探しているところだった。 「おばさん、なにをうろうろしているんです」 「ああ、了沢さん、あんたミイを知りませんか」  ミイというのは勝野さんの愛猫である。生涯に一度も子どもを産まなかった婦人の常として、勝野さんは日ごろから、猫をわが子のようにかわいがっている。 「ミイ……? 知りません。どこかへ遊びにいったんじゃありませんか。お勝さん、すみませんが、もう一本つけてくださいませんか。幸庵さん、あとひき上戸で困ってしまう」 「あれ、幸庵さん、そんなに飲んでもいいのかしら。きっとまたずぶずぶになってしまう。留守番にもなにもなりゃあしない」 「ええ、わたしもそれをいうんですが、ああなっては手がつけられない。|駄《だ》|々《だ》っ子も同じですもの。あと一本でやめさせますからつけてあげてください」 「ほんとにあのひとの酒も因果なことで……」  ブツブツいいながらお勝さんは酒をつけている。了沢はうすぐらい台所のなかを見回しながら、 「おばさん、早苗さんは?」 「早苗さん? おや、あのひとは座敷じゃなかったの」 「いいえ」 「まあ、わたしは座敷にいることだとばかり思っていた。それじゃ奥へ行って寝ているんでしょう。わたしがこんなに忙しくしていることを知ってるくせに、少しは手伝ってくれたらよいのに」  お勝さんはうらめしそうに愚痴をこぼしながら、ガチャガチャと大きな音をさせて|皿《さら》|小《こ》|鉢《ばち》を洗っている。  了沢はふいと胸にきざしてくる不安を覚えた。早苗さんはこんな場合、勝手に奥へひっこんで、寝てしまうような娘ではない。 「おばさん、早苗さんはいつごろから見えないのです」 「いつごろからって……そうそう、和尚さんがおかえりになるのを玄関まで見送って出て……それから見ませんよ。わたしはお座敷のほうにいることだとばかり思っていた。了沢さん、早苗さんになにか御用?」  お勝さんには早苗の姿の見えないことが、少しも気にならないらしい。それよりも愛猫のほうが心配らしく、しきりにそのことをいいながら、 「ほんとうにどこへ行ったんだろうね。このごろ夜遊びを覚えて困ってしまう。きっと|牡《おす》|猫《ねこ》の味を覚えたんだよ。人間も猫もおんなじだねえ、ああ、了沢さん、お銚子ができたようですよ」  了沢が無器用な手つきで、お銚子をぶらさげてかえってくると、幸庵さんは仰向けにふんぞりかえって|高鼾《たかいびき》であった。 「もし、幸庵さん、お銚子ができてきましたよ。もし、幸庵さん、幸庵さん、……ああ、よく寝ている。それならなにも、あとねだりをしなければよいのに……」  お銚子をそこへおいて、了沢君はぴったり|座《ざ》|布《ぶ》|団《とん》のうえに座ったが、ひろい座敷のうすら寒さが、いよいよ身にしむ感じである。ころもの袖をかきあわせて、火鉢をひきよせてみたが、埋もれ火も、もう残り少なくなっている。うっかり火箸でその火をかきたてているうちに、とうとうつつき消してしまった。  了沢君はとんでもないことをしたような気になって、ソーッとあたりを見回した。  幸庵さんは相変わらずよく寝ている。高くなったり、低くなったりする鼾にまじって、おりおり、リーンリーンと鈴の音が、遠くのほうからきこえてくる。庭のおくの祈祷所で、月代がいのりつづけているのである。  その鈴の音の、身にしむような寂しさにきき入っていた了沢君は、首筋に冷たいものでも落とされたように、ゾクリと|襟《えり》|元《もと》をかきあわせた。 「幸庵さん、もし、幸庵さん、お起きなさいまし。そんなに寝てしまっちゃ、しようがないじゃございませんか。もし、幸庵さん、ええい、しようがないなあ」  了沢君はいよいよ心細くなってくる。いても立ってもいられぬ心地である。リーン、リーン、……気の|滅《め》|入《い》るような鈴の音は、依然として庭のおくからひびいてくる。了沢君はわれにもなく、座布団のうえから立ち上がると、鈴の音に追われるように座敷を出て、表の玄関まで来てしまった。 「おや、了沢さん、どうしなすった。顔の色が悪いようだが、奥でなにかありましたか」  耕助の命令で居残ることになった島の若者が、二、三人、|長《なが》|屋《や》|門《もん》のうちがわで、|股《また》|火《び》をしながら、たくあんのきれはしかなんかで、|茶《ちゃ》|碗《わん》|酒《ざけ》をあおっていた。了沢君はなんとなく、地獄で仏に会ったような心地で、|下《げ》|駄《た》をつっかけてちかづいていくと、 「いえ、あの、別に……ああ、そうそう、あなたがた、早苗さんの姿を見やあしませんでしたか」 「早苗さん? うんにゃ、早苗さんがどうかしましたか」 「いえ、別にどうってことはありませんが、さっきから姿が見えないものだから」 「了沢さん、幸庵さんはどうしました」 「幸庵さんはお酒に酔うて寝てしまいました」 「はっはっは、おおかたそんなことだろうと思うた。そこで了沢さん、このときとばかりおまえさん、早苗さんの袖をひいたんじゃありませんか」 「あ、なるほど、こいつは図星だ。そこをピンシャンとはねられて、了沢さん、青菜に塩というわけかね」 「冗談いっちゃいけません」 「あっはっは、了沢さん、|赧《あか》くなったね。いいじゃないか、|袖《そで》をひこうが|口《く》|説《ど》こうが、おまえさんと早苗さんは|筒《つつ》|井《い》|筒《づつ》、振り分け髪の幼ななじみだ。おらあよく覚えているよ。学校にいる時分、おまえは泣き虫だったねえ。学校はできたが意気地なしで、なにかというとすぐピイピイ泣き出した」 「そうそう、それをおもしろがってわれわれずいぶんいじめたものだ。するとあの早苗さんだ。ありゃあまた女のくせにおッそろしく気が強い。おまえをいじめていると、すぐとんできて、だれかれの見さかいなしに|啖《たん》|呵《か》を切る。あまりおまえをひいきにするから、こっちもいささか|妬《や》け気味で、おらあ一度早苗さんにけんかを吹っかけたが、小っぴどく|頬《ほ》っぺたをひっかかれて、いや、さんざんさ」 「ほんとうにそういえば早苗さんは、あの時分山猫というあだ名があったね。変われば変わるもんだが、考えてみるとあの時分から、早苗さんはおまえに気があったんだぜ」 「バカなことをいっちゃいけません」 「なにがバカなもんか。あの時分、よく二人の名前を相合い|傘《がさ》かなんかに書いたものさ。了沢さん、おまえそう気が弱くちゃいけねえ。女人禁制てえのは昔のことよ。いまじゃどこの坊主でも、酒も飲みゃ女も抱かあ。ピンシャンしたってかまうことはねえ。そんなのは女の手よ。それに驚いてしっぽをまくようじゃ修業が足りねえ」 「そうとも、そうとも、いやじゃいやじゃというやつを、ぐっと抱きしめ、ものにするところに、色事のほんとの味があるというものよ。讃岐のこんぴら様のおれの女なども……」 「ちっ、またはじめやあがった」 「てめえ、それがいいたくて、話をここまで持ってきやあがったんだろう」  島の若者にとっては、酒と女よりほかに話題はない。しかも、歯に|衣《きぬ》きせぬその話しぶりの大胆にして露骨なる、そしてそれが大胆で粗野で露骨であればあるだけ、ある種の小説などよりも、はるかに|際《きわ》どい場面を描きながら、かえって情をそそられることもなく、平気で聞いていられるのである。  了沢君はかれらのほしいままな話をきいているうちに、不思議に気分の落ち着いていくのを覚えた。なにもかれらの愛欲の世界にあこがれるのではないが、久しく忘れていた、人間世界のあたたかいものに触れたような気がして、妙に心のあたたまるのを感じた。 「どうだ、了沢さん、おまえも一杯いかねえか」 「いいえ、わたしはいけません」 「なにもそう遠慮するこたあねえやな。|葷《くん》|酒《しゅ》山門に入るを許さずといったところで、どこの寺にも、|般《はん》|若《にゃ》|湯《とう》はあらあ。もっともここの了然さんは別ものだが」 「了然さんはいけねえ。ありゃあきびしすぎる。了然さんは年寄りだからあれでいいのかもしれねえが、いまどきあれじゃ、了沢さんがかわいそうだ。なア、了沢さん、いいから一杯飲みねえな。そして、たまにゃ里へも出てこい。寺でお経ばかりあげているより、たまに里へ出てきて、お女郎買いの話でもきくほうが、よっぽど修業になるぜ。あっはっは!」  さすがに了沢君は、いくらすすめられても酒は飲まなかった。酒は飲まなかったけれどかれは十分酔うているのである。かれらの話に酔うて、よい心地になっているのである。だから、勤めを怠っているうしろめたさを感じながらも、かれらのそばを離れる気がしなかった。ついうかうかと、そこにお|神《み》|輿《こし》をすえてしまった。正直者の了沢君は、今後何年生きるかわからないが、おそらくかれは生涯そのことについて、自分を責めることをやめないであろう。ほんのちょっぴり、任務を怠ったばかりに、あの大惨劇をひき起こした了沢君にとって、生涯、それは夢魔となって残るであろう。  了沢君の夢魔というのはこうである。  調子にのって話す若者たちの、露骨な色話をよい気になって聞いていた了沢君は、突然、奥のほうからきこえてくる、ただならぬ女の悲鳴にはっと腰掛けからとびあがった。 「なんだいありゃあ……」  悲鳴をきいたのは了沢君ばかりではなかった。色話にふけっていた若者たちも、茶碗をおいていっせいに腰を浮かした。  悲鳴はまだつづいている。それは泣き声とも|繰《く》り|言《ごと》ともわからぬ、ただワアワアという、前後首尾まっとうせぬ発音の|羅《ら》|列《れつ》のようである。 「ありゃあ……お勝つぁんじゃないか」 「そうだ、お勝つぁんだ。なにかあったにちがいねえ」  勝野さんというひとは、ひどく驚いたり、たまげたりすると、すぐ腰を抜かすくせがある。しかも抜けるのは腰ばかりではなく舌の根も抜けてしまうらしい。そんなとき、お勝さんは、ただワアワアとわけのわからぬ泣き声をあげるくせがあった。いや、本人にはわかっているのだろうが、舌の根が抜けているから、それが連絡のあることばとなって口から出ないのである。  了沢君は真っ青になってそれをきいていたが、急にガタガタふるえ出すと、 「行ってみましょう。皆さんも来てください」  若者たちも了沢君のうしろについて、玄関からなかへとび込んだ。お勝さんの声をたよりに、さっきの座敷へ来てみると、幸庵さんが|狐《きつね》につままれたような顔をして、きょとんと座布団のうえに起きなおっている。そのまえに勝野さんがべったり座って、ワアワアと泣きながら、なにやらしきりにうったえているのである。 「おばさん、どうしました。幸庵さん、なにかあったんですか」 「わしゃ知らん、お勝つぁんにゆり起こされて眼がさめたが、なにを言うているのかさっぱりわからん」  幸庵さんはきょとんとした顔で、あきれたようにお勝さんを見つめている。山羊ひげのさきをよだれがだらしなく伝うている。 「お勝さん、しっかりしねえか。なにがどうしたというんだよ。えっ、猫……? 猫がどうしたというんだ。おいおい、お勝さん、いい加減にしねえか。こっちは、こんなに心配してるんだ。猫どころじゃねえやな。なになに奥の|座《ざ》|敷《しき》|牢《ろう》……気ちがいがいねえと」  一同は、ぎょっとしたように顔を見合わせた。了沢君の|蒼《あお》|黒《ぐろ》い顔がいよいよ蒼黒くなった。 「おい、まあちゃん、銀さん、おまえたち奥へいって、ちょっと座敷牢を見てこい。座敷牢……知ってるだろう」  二人の若者はすぐ座敷から出ていった。 「お勝つぁん、なにもそれしきのことでワアワア泣くことはねえじゃねえか。よしんば気ちがいが抜け出したにしてもよ。この陽気だ。気ちがいだってたまにゃふらふら出歩きたくなるさ。なに、それだけじゃねえ? なにかほかにあったのか。猫……? ちっ、また猫のことをいやあがら、猫がいったい……えっ、月代さんが奥の|祈《き》|祷《とう》|所《しょ》で……?」  了沢君と若者は、ぎょっとしたように顔を見合わせた。歯をくいしばって、シーンと黙りこんでしまった。その耳にきこえてくるのは、リーン、リーンという鈴の音。 「おばさん、どうしたというんです。月代さんなら奥の祈祷所で鈴をふっているじゃありませんか」  だが、それに対して勝野さんは、はげしく首を左右にふった。そして必死となってなにかいおうとするらしかったが、必死となればなるほど|呂《ろ》|律《れつ》がみだれて、ことばはいよいよわからない。  そこへ座敷牢を見にいった二人の若者が、顔色をかえてかえってきた。 「いけねえ、座敷牢はもぬけの殻だ。気ちがいはどこにもいねえ」 「祈祷所へ行ってみましょう。祈祷所にもなにかあるにちがいない」  了沢君がいちばんに座敷からとび出した。そのあとから三人の若者もどやどやとつづいた。幸庵さんは相変わらず狐につままれたような顔をしてきょとんとしている。勝野さんは腰を抜かしたまま、ワアワアと泣きつづけている。  まえにもいったように祈祷所というのは、庭のおくの一段小高いところにある。神式とも仏式ともわからないような建て方で、三方にめぐらした廊下のうちがわには、杉の戸が半分ほどひらいている。正面の廊下には幅のひろい|階《きざはし》がついていた。  了沢君はその階の下まで駆けつけると、 「月代さん、月代さん」  と、呼んでみた。  返事はなかったが、その代わり、リーン、リーンという鈴の音が、はずむようにきこえた。 「月代さん、出ておいでなさい。みんな心配しているから、いい加減に出ておいでなさい」  しばらく返事を待ったが、相変わらず月代の声はきこえなかった。それでいて、鈴の音ばかりはリーン、リーンとはずんでいる。それがふうっと一同の胸に不安な影を落とした。 「いいから踏みこんでみましょう。なあに、かまうことはねえやな。しかられたらあやまるだけのことさ」  若者のひとりが階段を駆けあがると、がらりと杉の戸をひらいた。  祈祷所のなかは十畳敷きぐらいである。そして正面の奥いっぱいに、高さ三尺ばかりのひろい壇があって、壇のうえには大小さまざまの、醜怪なかたちをした仏像が、ところせまきまでにおいてあり、それらの仏像のあいだには、香炉、線香立て、|花《はな》|筒《づつ》、|燭台《しょくだい》、種々雑多な|鉦《かね》の類、いずれも古びて、くすんで、|妖《よう》|気《き》をおびている。壇のうえにはほのぐらいお|燈明《とうみょう》がふたところ、にわかに吹きこんできた風に、|狼《ろう》|狽《ばい》したようにゆらゆらゆれている。そして室内一面、眼にしみるような線香の煙。 「月代さん、月代さん、おまえどこにいるんです」  あたりのほの暗さと線香の煙で、しばらくはだれも視力がきかなかった。 「おい、だれかマッチを持ってやあしないか」 「おっとしょ」 「持ってるか。それは好都合だ。向こうの壇のうえにろうそくがあらあ。あれをとってこい」  若者のひとりは|渦《うず》|巻《ま》く線香の煙のなかを、すりあしで壇のほうへ行きかけたが、だしぬけに、ひゃあッと叫んでとびのいた。 「ど、ど、どうしたンだ」 「だ、だ、だって、こんなところに月代さんが……」 「月代さん……? おい、なんでもいいからろうそくをつけろ」  若者はガタガタふるえながらマッチをする。いくらすってもいくらすっても、手がふるえているからすぐ消えた。 「ちっ、意気地のねえ。おっ、そうだ、そこにお燈明があるから、それで火をつけろ」  やっとろうそくに火がついて、あたりがボヤーッとあかるくなったとき、 「|南《な》|無《む》……」  了沢君は両手をあわせて、ガチガチと歯を鳴らした。若者たちも凍りついたように動かなくなった。若者のひとりがかかげているろうそくだけが、ぶるぶるとひっきりなしにふるえている。  無理もないのである。それはなんともいいようのない異様なながめであった。かれらの足下には、月代が仰向けざまにひっくりかえっている。月代は|白拍子《しらびょうし》のように|水《すい》|干《かん》を着て、|緋《ひ》の|袴《はかま》をはいている。金色の小さい|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》をかぶっている。薄化粧をして、髪をおすべらかしにした顔は、この世のものとも思えぬほど美しかった。  だが、それは美しいと同時に、夢魔を誘う恐ろしさであった。なんとなれば、月代の細い首には、食い入るばかりに日本手ぬぐいがまきついているのであった。 「あの台のうえで……」  若者のひとりがなにかいいかけたが、すぐおびえたようにことばを切った。  だが、かれのいおうとしたことは、すぐだれの胸にもひびいたのである。それはこうだ。  壇のまえには畳半畳くらいの台がつくってある。台の高さは一尺くらい、月代はその台のうえに座って、祈念をこらしているところをうしろからしめられて、台からころげ落ちたにちがいない。しかも、しめられたときかなり抵抗したにちがいない証拠には、右の手が、|爪《つめ》もくいいるばかり、手ぬぐいの端を握っているのである。まるでわが手でわが首をしめたように。…… 「了沢さん、了沢さん」  |蝋《ろう》|着《づ》けにされたように、この恐ろしい月代の死体をながめていた若者のひとりが、ふいに了沢君の腕をつかんでゆすぶった。 「それはいい、それはいいんだ。どうせ月代さんはおそかれ早かれ殺されると、われわれは思うていたんだ。いえ、島の連中、みんなそう言うてたんです。こんどはいよいよ月代さんの番だと。……だから、おらあ別に驚きゃあしねえ。月代さんが殺されたって驚きゃあしねえ。だけど、あれはなんだ。月代さんの体のうえにふりかけてあるあれはなんだ」  別の若者が身をこごめて、月代の死体のうえからそれをつまみあげた。 「|萩《はぎ》の花……」 「わかってる。そりゃあわかってるんだ。おれだって盲目じゃねえ。だけど、なんだって月代さんの死体のうえに、萩の花なんかふりまいてきゃあがったんだ。ねえ、了沢さん、この祈祷所には、どこにも萩の花なんか|挿《さ》しちゃねえ。こりゃあてっきり犯人が持ってきたもんだ。なんだって犯人は萩の花を……あっ!」  突然、一同ははげしい雷の衝撃にでも会ったように、ピタリと体をふるわしてとびのいた。  いままで忘れていた鈴の音が、リーン、リーンと鳴り出したからである。  一同は|憑《つ》きもののしたような眼をそのほうへむけて大きくみはった。  壇の向かって右側には、いろとりどりの布が五、六本吹き流しのように掛けてあって、ゾロリと床までひきずっている。その布の一本の途中に月代の鈴がゆわいつけてあった。そしてその布の端には、勝野さんの愛猫ミイが……  |駒《こま》が勇めば花が散る。  猫が踊れば鈴が鳴る。  かれらがさっきから聞いていた鈴の音は、なんと猫が鳴らしていたのである。  山狩りの一行がひきあげてきたのは、それから間もなくのことであった。      第六章 夜はすべての猫が灰色に見える  耕助の心はみだれにみだれて、いまにも気が狂いそうであった。  あの|蒸《む》せっかえるような復員船のなかで、断末魔のくるしみのなかから、くりかえしくりかえし頼んでいった千万太のことば。 「獄門島へ行ってくれ……三人の妹が殺される……おれに代わって行ってくれ」  それは血を吐くように切なる願いであったのに、自分はとうとうその責めを、ひとつとして果たすことができなかった。本鬼頭の三人娘のうち、ただのひとりも救うことができなかった。  耕助の|頬《ほお》は苦悩のためにげっそりやつれて、いっぺんに十も二十も年をとったように見える。 「早苗さん」  耕助は力のない声で早苗をよんだ。 「…………」  早苗もまた、血の気をうしなった顔で、ふかい思いに沈んでいる。  三晩つづいた惨劇の夜はきびしく更けて、あの|祈《き》|祷《とう》|所《しょ》のまわりには、磯川警部や警官たちの、出たり入ったりする姿が見える。ものものしい緊張した空気のなかに、本鬼頭の大きな建物が息をころしておののいているようだ。  幸い気ちがいの与三松は、あれからすぐに八方へはしらせた、捜索のひとびとに見つかって、無事に|座《ざ》|敷《しき》|牢《ろう》へつれもどされた。めったに外へ出たことのないかれは、千光寺へのぼるつづら折れの途中、|地《じ》|神《がみ》様のまえまで行って息切れがして、倒れているところを見つかったのである。だが、この気ちがいがなにを知ろう。異常な今夜の冒険に、すっかり興奮して、ただわけもなく怒号するばかり。それが祈祷所へ筒抜けで、いっそうこの親と娘の因果を思わせた。耕助もいままでその祈祷所にいたのだけれど、嘔吐を催しそうな|悪《お》|寒《かん》を感じて、ふらふらと座敷へかえってきたのである。  早苗はひとりしょんぼりと、その座敷に座っていた。彼女の眼底には、いまもなおあの恐ろしい男の死に顔がやきつけられている。年ごろは三十前後であろうか、顔じゅうひげでうまった凶悪な男、汗とあかでよれよれになった軍服に白っちゃけた|軍《ぐん》|靴《か》、そしてその軍靴の裏には、たしかに|蝙《こう》|蝠《もり》形の傷があった。…… 「早苗さん」  と、耕助はもう一度呼んで、 「あなたはあの男を兄さんの一さんだと思っていられたんですね。一さんがこっそり島へかえってきて、かくれているんだと思っていられたんですね」  早苗ははじかれたようにふりかえったが、その顔にはまるで、子どもがベソをかくときのような表情がうかんでいる。 「あれは一昨夜のことだった。千万太君のお通夜の席から花ちゃんの姿が見えなくなった。そこであなたと勝野さんが、奥へ探しに入っていかれた。そのときでしたね。あなたがあの座敷牢のほうで悲鳴をあげられたのは。ところがすぐそのあとで病人のあばれる音がきこえたので、さてはまた、気の狂ったひとがなにかしでかしたのであろうとみんなは思いこんだ。いや、それのみならず、それから間もなく座敷へかえってきたあなた自身、われわれにそう思いこませるようにふるまわれた。しかし、うそだったのだ。あのときあなたが悲鳴をあげたのは病人のせいではなく、座敷牢のほとりを、怪しい男がうろついているのを見られたからなんだ。ね、そうでしょう。そしてその男というのが、さっきの男なんだ」  耕助はくらい眼をして、庭のほうを見つめている。しかし、その眼はほんとうはなにも見ていなかったのだ。 「あなたはなぜあのとき、それをハッキリいわれなかったか。なぜ病人のせいのように取りつくろわねばならなかったか。それはあなたがあの男を一さんだと思いこまれたからなのだ。フランスのことわざに、夜はすべての猫が灰色に見えるというのがある。兄さんの戦友が、間もなく復員してくるであろう兄さんの消息をもってきて以来、あなたにはあらゆる復員者が兄さんに見えた。しかも座敷牢のそばのうすくらがりに、意味ありげにたたずんでいる男の姿を見たとたん、てっきり一さんだと思われた。ところがその人は、あなたの顔を見ると|倉《そう》|皇《こう》として逃げ出した。なぜ逃げるのだろう。いや、それよりもなぜあのように、こっそり島へかえってきたのだろう……それをあなたは思いまどわれた。そこで取りあえず、あの場は病人のせいにしてとりつくろっておかれたのだ。ところが……」  耕助はそこでひと息入れると、 「その晩、千光寺でああいう事件が起こった。しかも殺された花ちゃんのそばには、座敷牢のそばにあったと同じような靴の跡があったときいたときのあなたの驚き。……ぼくにはよくわかるような気がする。あなたは大きなショックを感じた。と、同時にいよいよあの男を兄さんだと思いこまれた。兄さんがだれにも知らさずこっそり帰ってきたのは、花ちゃんたちを殺すためではあるまいか……あなたはそんなふうに考えられたのだ」  早苗は不意にはげしく泣き出した。それは世にも切ない、魂もついえるような涙であった。 「いいえ、あたし、あなたがおっしゃるほど、ハッキリした確信があったわけじゃないのです。だいいち、あのときちらと見た人が、兄かどうか確信が持てませんでした。夜はすべての猫が灰色に見える、ええそうですわ。いったんはあたし、兄さんと思いました。いいえ、現に小声で、兄さん? と呼んでみたんです。でもそのひとすぐ顔をそむけて逃げ出したので、ハッキリ確かめることはできませんでした。そして、そのことがあたしを苦しめたんですわ。兄さんだろうか、他人の空似だろうか。……あたし、それでどんなに苦しんだか……」 「それをなぜ、もっと早くぼくに打ち明けてくれなかったのです。あなたにそういう疑惑が残っていると知ったら、ぼくにも考えようがあったのに。……あなたの素ぶりを見ると、あの男が一さんだとしか思えなかった。復員便りもきかなくなったし、こっそりあの男に、食料や食品類をわたしたり……」 「いいえ、あれも直接わたしたわけじゃないのです。あたしにはあのひとが、兄か兄でないか、ハッキリ確かめるのが怖かった。でも、兄さんならまた、こっそり忍んでくることがあるかもしれない……そう思ったものですから、食料や食器類を包んだふろしき包みを、台所の、すぐ眼につくところへおいといたのです」 「すると果たして忍んできたんですね。そのときあなたは顔を見なかったんですか」 「ええ、なんだか怖くて……ただうしろ姿を見ただけでした」 「それでもあなたはやっぱり気になって、今夜も山狩りへ出かけていかれたんですね。いや、そればかりじゃない。あの座敷牢を開いて、病人を外へ出したのもあなたでしょう」  早苗ははっとしたように耕助の顔を見たが、すぐしょんぼりとうなだれた。 「あなたは利口なひとだ。もしあれが兄さんであった場合のことを考えて、疑いをほかへそらすために、気ちがいを外へ開放されたんですね。だが、そんな小細工をするよりも、あれが兄さんかどうか確かめてさえいてくれたら……」  耕助はくらい眼をして、 「それさえあなたがハッキリ確かめていられたら、少なくとも今夜の事件は起こらなかったかもしれない。月代さんだけは殺さずにすんだかもしれなかったのに……ぼくはあなたの素ぶりから、あの男を一さんだとばかり思いこんだ。それのみならず和尚も村長も幸庵さんもそれを知っていて、一さんをかばっているのだと思いこんだのです。それがぼくをまちがった道へつれていってしまった。……」 「耕助さん」  早苗は涙にぬれた眼をあげると、 「いったいあの人はどういう人ですの」 「それはさっき、警部さんがいったとおりですよ。あの男は水島の倉庫をやぶった海賊の一味で、警察のランチに追跡されて、海へとびこみ、この島へたどりついたのです。そして食物をあさってここへ忍びこんだところをあなたに見つけられ、一さんとまちがえられたのです。つまりあなたは全然関係もない男をかばっていたのだし、ぼくもまた全然関係もない男を追っかけていたんです」  耕助はみずから哀れむように、ひきつった笑いごえをあげた。 「それじゃ、花ちゃんや雪枝さんを殺したのは……」 「むろん、あの男じゃありません。そりゃあ、ああいう凶暴な男だから、つごうの悪いところを見つかったら殺しかねないやつでしょうが、それならばなぜ、梅の枝につるしたり、|吊《つ》り|鐘《がね》の下へ伏せたりするのでしょう。それに月代ちゃんが殺された時刻には、あいつ必死となって、海賊の|砦《とりで》を逃げまわっていたのですよ」 「じゃ、だれが……」 「そうです。改めてそれを考えなおさなければならなくなりました。この男が一さんでないとすれば、三人を殺すわけはないのだから、犯人は別にあることになります。しかし、ねえ、早苗さん、あの男もまんざらこの事件に関係がないともいえないかもしれないのですよ。あの男は犯人を知っていたのかもしれない。犯人の姿を見たのかもしれない。それで犯人に殺されたのかもしれない……」  早苗の顔には、急におびえの色がひろがった。 「さっきあの男の死体を発見したとき、警部さんのいったことばをきかれたでしょう。あの男は弾丸にあたって崖から落ちたのではなかった。あの男の後頭部には、恐ろしい裂傷があった。|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》もこわれていた。ところがあのへんにはどこにも、その傷に相当するような石ころや岩角はなかった。それのみならず……」  と、耕助は息をうちへ吸いこむと、 「その傷の状態というのが、花ちゃんの場合とたいへんよく似ているんですよ。つまりあの男は、花ちゃんを殴って|昏《こん》|倒《とう》させたのと同じ凶器で殴り殺されたのかもしれないのです」 「まあ、恐ろしい……」  早苗の顔からはすっかり光沢がなくなった。さむざむとケバ立った毛孔のひとつひとつが恐れおののいているように見える。 「そう、恐ろしいやつです。一晩に一人ずつ三晩つづけて……確実に、冷血に……一分の狂いもなく計画を遂行していったのです。ところでねえ。早苗さん」  耕助はさぐるような眼で早苗を見ながら、 「この島の人たちは、ずいぶん妙な考えを持っていますねえ。本家の千万太君が死んだから、三人の娘が殺されるのだ。……つまり一さんに本鬼頭をつがせるために……こういう考えは早苗さん、あなた自身にもいくらかあったのでしょう。だからこそ、ああしてあかの他人を兄さんとまちがい、あの男が三人を殺すのだと思われたのでしょう。問題はそこですがねえ。早苗さん、そういう考えにはなにか根拠があるんですか。千万太君が死んだら、三人の娘が殺されるという、……なにかそういうような話が、前からあったのですか」  早苗は大きな眼をみはって、じっと耕助の顔を見つめている。その眼のなかには、かすかな驚きと動揺があった。 「実はねえ、早苗さん、ぼくはここへ来たのもそのためなんですよ。千万太君ですら、そういう考えを持っていたんです」 「まあ!」  不意に早苗のくちびるから、鋭いおどろきの叫びがほとばしった。 「本家の兄さんが……そんなことをいったんですの……あの、兄さんが……」 「ええ、そう、ぼくがなぜこんな離れ小島へ来たと思います。千万太君の頼みによって、こういう悲劇の起こることを、未然に防ごうと思ってやってきたのですよ。千万太君はこういったのです。おれが死ねば、三人の妹が殺される。獄門島へ行ってくれ。三人の妹を助けてくれ。……問題はそこですよ。早苗さん、千万太君が死んだらだれが三人の妹さんたちを殺すのでしょう。いや、それよりも千万太君は、どうしてそれを知っていたのでしょう」  早苗の顔はいよいよ蒼くなった。くちびるまで紫色に朽ちて、カサカサに乾いていた。 「早苗さん、あなたはそれに心当たりはありませんか」 「わかりません」  早苗は恐怖の声をふりしぼった。 「そんな……恐ろしいこと、あたしにはわかりません!」  そしてそれきり口がきけなくなったように黙りこんでしまった。  そこへ磯川警部が入ってきた。 「早苗さん、これ、お宅のものでしょうね」  警部が出してみせたのは一本の日本手ぬぐいである。ひろげてみると、鬼の面のうえに本という字が染め出してある。早苗は大きく眼をみはって、警部の顔と手ぬぐいを見くらべていたが、 「ああ、その手ぬぐいで月代ちゃんを……」 「そう、月代さんは右手でしっかりこの手ぬぐいの端を握っていましたよ。|祈《き》|祷《とう》に熱中しているところを、うしろから|縊《くび》られたのですね。ところが、この手ぬぐいはかなり汚れているが、それほど古いものではない。ほら、こっちの切り口なんかまだ新しい。ちかごろだれかにこういう手ぬぐいを……」 「存じません」  早苗は言下にこたえたが、そのあとへつぎのように付け加えた。 「ちかごろ新しく手ぬぐいをおろした覚えはありませんし、また、ひとさまに差し上げた記憶もございません。でも、そんな手ぬぐい、島の人ならたいてい持っているはずですわ。|木《も》|綿《めん》類が自由なころには、盆暮れのほかに、祝儀不祝儀に配ったものですから。……」 「お宅にはまだこんな手ぬぐい、ほかにありますか」 「ええ、まだ二巻きか三巻きはあると思います。木綿類が統制になるというので、お祖父さまがたくさん染めさせておいたのです。でも、その後だんだん不自由になってきたものですから、配りものに使うことは見合わせていますし、うちでも倹約して、なるべく新しいのをおろさないようにしているんですよ」 「ああ、それじゃその手ぬぐいは、|反《たん》のまま染めてあるのですね」  耕助が口をはさんだ。 「ええ、そう、配りものに使う日本手ぬぐいは、みんなそうするんですわ。いるだけ切って使うんです」  金田一耕助は警部の手から手ぬぐいを受け取ると、あちこち調べていたが、そのまま黙って考えこんだ。     吊り鐘歩く  悲劇は終わった。もうこれ以上恐ろしいことは起こらないだろう。……獄門島のひとびとは、みんなそれを知っている。そして死人には気の毒だけれど、みんはほっとしたような気持ちだった。  だが、事件はこれで終わったわけではない。いや、これからがいよいよ、ほんとうの事件というべきかもしれない。ものごとには、はじめがあれば終わりがなければならぬ。そしていま、その恐ろしい終わりがちかづきつつあることを、島の人たちは感じている。  島のひとびとがそれを感ずるのは、にわかにはげしくなった本土との往来である。警察の船があとからあとからと島へついた。そしてそのたびにものものしい顔をした警察のひとびとが、どやどやと島へあがってきた。  警察のそういうはげしい動きに反して、耕助はまるで傷心したもののようである。寝られぬ一夜を明かした耕助は、放心したようにぼんやりと、警官たちの活発な動きをながめている。しかし心のなかではしきりになにかをつかもうとあせっているのだ。しかもそのものはすぐ眼のまえにぶらさがっているような気がするのだ。それでいて、つかもうとすればついと|昏《こん》|迷《めい》のなかへ逃げていく。なにかしなければならない。なにか打つ手があるはずだ。……それはじりじりとしめ木にかけられるように苦しいいらだたしさである。  奥では和尚の了然さんが、仏にお経をあげている。太い了然さんの声にまじって、|甲《かん》|高《だか》い了沢君のふるえるような声もきこえる。村長の荒木さん、医者の幸庵さん、それに分鬼頭の三人もいるはずだ。……  耕助はふと下駄をつっかけて庭へおりた。それから魂の抜けたもののように、ふらふらと勝手口から外へ出ていった。頭が熱してズキズキいたむ。潮風に吹かれてきたら、少しはよくなるかもしれぬ。  本鬼頭のまえのだらだら坂をおりると、そこに島の目抜きの場所がある。目抜きの場所といったところで、小さな店が五、六軒、ならんでいるだけの話だが。そこを通り抜けようとして、耕助はふと呼びとめられた。 「やあ、|旦《だん》|那《な》、どちらへいらっしゃるんで」  それは床屋の清公であった。見ると床屋には五、六人、島のものが集まっている。 「旦那、寄っていらっしゃいよ。また、たいへんなことができたというじゃありませんか」  耕助はためらった。 「いいじゃありませんか。いまもその話をしていたところなんで、|仙《せん》ちゃんが妙なことをいい出しましてね」 「妙なことって?」  耕助はふと足をとめた。 「親方、よせやい、そんなこと……」  あわててとめたのが仙ちゃんだろう。 「いいじゃねえか。そりゃあ、そんな話、うそにきまってるさ。吊り鐘が歩き出すなんて、そんなバカなこたアねえが、でも、こういう事件の起こったときにゃ、なんでもかんでもお耳にいれておくもんだ。ねえ、旦那」  別の男が口をはさんだ。 「吊り鐘が歩く……?」  なにかしらドキッとするようなものが耕助の胸へ来た。 「ええ、そうなんですよ。仙ちゃんが変なことをいい出したもんだから、それでみんなで騒いでいたところなんです。まあ、こっちへお入りなさいましよ」  清公にとっては耕助となじみであることが自慢であるらしく、どうしてもなかへひっぱりこもうという勢いだったし、耕助もまた、ふといまの話が気になった。 「そう、それじゃちょっとおじゃましようか」  耕助がなかへ入ると、 「そらそら、御順におひざのおくりあわせだ」  床屋へ集まっているとはいえ、だれひとりほんとうの用事で来ているものはない。昨夜の騒ぎを話の種に、ひまつぶしをしようという連中ばかりだ。だから土間にいるのは親方ひとりで、あとはみんな薄ぎたない畳をしいた座敷の端に腰をおろしたり、あがりこんであぐらをかいたり、寝そべったり、耕助が入っていくとそれらの連中、にわかに居ずまいを直して席をあけた。 「昨夜は皆さん、御苦労さまでした」  耕助があいさつすると、 「どういたしまして。旦那こそあれからまたひと騒動あったというんだからたいへんでしたろう。なんしろつづけざまだからね」 「ええ、まあ……ときにさっきの話ですがね。吊り鐘が歩いたとか歩かぬとか、それはどういう話なんですか」 「その話なら……おい、仙ちゃん、おまえからじきじき申し上げろ」  仲間に|尻《しり》をつつかれて、仙ちゃんは顔を赤くして、 「それがねえ、どうも変てこな話でしてねえ」  と頭をかきながら、 「いまも、みんなにわらわれたんですが、あっしにゃしかし、どうしても吊り鐘が歩いたとしか思えねえんで……実は一昨日の晩のことですがね。一昨日といやあ雪枝さんの殺された日ですが、あっしゃあの日沖へ出ていたんです。ところがそのかえりがけ、時刻ははっきり覚えていねえが、むろん日は暮れてました。さて、島を目指して|漕《こ》ぎもどしながらふと見ると、天狗の鼻のちょっと下の坂のところに、変なものがおいてある。おや、なんだろうとよく見て見ると、それがつまり吊り鐘なんで。……ええ、もうすっかり暗くなってましたからハッキリは見えねえんだが、すがた形でよくわかる。そのときにゃあしかしあっしも、別になんとも思わなかった。このあいだ若いものが、吊り鐘をかつぎあげたことは知ってましたからね。それに、そこからじゃ、|天《てん》|狗《ぐ》の鼻の出っぱなは見えねえもんで」 「えっ、それじゃあなたが吊り鐘を見た場所というのは、あの岩のうえじゃないのですか」  耕助は、にわかにひざをのり出した。 「そうです、そうです。だからおかしいんですよ。さて、それからしばらく漕いでるうちに、あっしゃまたなんの気もなくうえを見た。こんどはあの天狗の出っぱなが見えるんですが、するとそこにちゃあんとあの吊り鐘があるじゃありませんか」  耕助はまじまじと仙ちゃんの顔を見つめている。その顔色からして、いかにかれが熱心に、仙ちゃんの話に耳をかたむけているかわかるのである。仙ちゃんもだいぶ得意になって、 「そのときにゃああっしもドキッとしましたね。あの吊り鐘、吊り鐘としちゃ重いほうじゃねえが、図体が図体ですから、ひとりやふたりの手で、あっさり持って歩けるというものじゃありません。あれをさっき見た場所から岩のうえまで運ぶとすれば、こいつやっぱり相当の騒ぎです。|夕《ゆう》|凪《な》ぎのちょうど静かなときだったから、そんな騒ぎがあったら、舟まできこえねえという法はねえのに、ちっともそんな|気《け》ぶりはなかった。だからあっしにゃどうしても、吊り鐘が自分でノコノコ歩いたとしか思えねえんで」 「すると、そのときにはもうさっきの場所には吊り鐘はなかったんですね」 「それがねえ、そこからじゃもう、さっきのところは見えねえんですよ。いまから考えるとちょっとの手間だ。漕ぎもどして確かめてみればよかったんだが、なんだか気味が悪くてねえ、つい、そのままかえっちまったんで」 「しかし、坂の途中で吊り鐘を見たというのは、まちがいないんでしょうね」 「ええ、そりゃあまちがいはありません。かなり暗くなっていましたが、形でわかります。たしかに吊り鐘がおいてありましたんで」 「この島には、吊り鐘がふたつありますか」 「とんでもない。戦争中はひとつもなかったくらいで……」 「あの吊り鐘はふるいのでしょうね」 「ええ、ほんとうはずいぶん古いんですが、いちどヒビが入ったので、本鬼頭の嘉右衛門さんが盛んなころ、どこかで鋳直させたという話です」 「そうよ。それはおれも覚えてる。十五、六年もまえのことだったかな。広島か呉かへ持っていって、鋳直してきたんだ。旦那、吊り鐘がふたつあるなんてことはありませんよ。仙ちゃんきっと夢でも見たんだ。あんな騒ぎがあったもんだから……」 「馬鹿アいえ。おれの話は雪枝さんの騒ぎが起こるまえのことよ」  耕助の胸ははげしく騒ぎ出した。なにかある。なにかそれに事件のなぞをとく|鍵《かぎ》がある。…… 「ところでいまも話が出ましたが、嘉右衛門さんという人ですがねえ、ずいぶん全盛だったらしいですね」 「へえ、そりゃアもう太閤さんだから。まあ、ああいう全盛はこれからさき、見ようたって見ることはできますめえよ」 「その代わり死ぬときにゃ気の毒だったらしいな。分鬼頭に天下をとられるのを気にやんでね。あれじゃとても|成仏《じょうぶつ》できめえという話でしたよ」 「病気は卒中だとか……」 「ええ、|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》というやつですね。終戦のときにも一度倒れて、半身|利《き》かなくなっていたんです。たしか左手がきかないでしばらくぶらぶらしていたが、二度目に倒れて、こんどは一週間ほど寝たっきりで、いけなくなってしまったんだそうです。そうだ、そういえばそろそろ一周忌が来るんじゃねえか」  左手が利かなくなっていた……? 耕助はまた、なにかしらドキリとするようなものにぶつかった。 「ええ、そうですよ。半身利かねえもんだから、いっそう気がいらだったんですね。だから二度目に倒れたころは、あの元気なじいさんがすっかりおいぼれてね、見るも哀れなざまだったそうです。だから盛んなときも太閤さんだったが、死ぬときも太閤さんだったといっているんです」  耕助はまた黙って考えこんだが、するとそのとき親方が口を出した。 「ときに旦那、昨夜のことはどうなんです。月代ちゃんのこと。……一つ|家《や》でしめ殺されたって評判ですが、ほんとうですか」 「一つ家……」 「いや、あの祈祷所のことですよ。あれを一つ家というんです」  一つ家……一つ家……耕助は不意にまた、なにかしら恐ろしいものにぶつかって、ドキッとしたように|瞳《ひとみ》をすえる。 「あれはなんでも嘉右衛門さんがつけた名だそうだ。ほら、月代ちゃんやなんかのおふくろと角突きあっていた時分、あいつは一つ家の鬼ばばあみたいなやつだというところから、あの祈祷所を一つ家といい出したんです」  一つ家……一つ家……一つ家に遊女もねたり萩と月……  突然、耕助は恐ろしい勢いで立ち上がった。その勢いがあまりすさまじかったので、一同はびっくりして顔を見直した。 「だ、旦那、どうかしましたか」 「ああ、いや、よいことを聞かせてくれた。ありがとう。親方、また来る」  びっくりして、眼をまるくしている連中をあとに残して、耕助はふらふらと清公の床屋をとび出した。それはまるで、酔っぱらいのあしどりのようであった。 「おやおや、先生、どうしたんだろう。なにをあんなにびっくりなすったんだ」 「きっとなにか見当がついたんだぜ。おれたちの話のなかから、なにか発明したところがあるにちがいねえ」 「うえっへ。こいつは少々気味が悪いなあ」  そうなのだ。耕助はたしかにつかんだのだ。いままでとざされていた暗雲のなかから、さっとほとばしり出る一道の白光をとらえたのだ。 [#ここから2字下げ] 一つ家に遊女も寝たり萩と月 [#ここで字下げ終わり]  この句の場合の一つ家は、同じ家にという意味だから、ひとついえに[#「ひとついえに」に傍点]と読むのがほんとうだろう。しかし字からいって一つ|家《や》と読めないことはないし、そしてまた、現にそう読むものだと思っているひともある。  月代の死体のうえにばらまかれていた萩の花、あれにはそういう意味があったのか。そして、白拍子は遊女である!  おお、なんということだ。なんという恐ろしい。気ちがいじみたこの|道《どう》|化《け》。……おお、大地がゆれる。海がもえる。空がきらめく。……  耕助は悪酒に酔うたようなあしどりで、本鬼頭の玄関までかえってきたが、そこでなかから出てきた磯川警部にばったり出会った。 「金田一さん!」  磯川警部がおどろいて叫んだ。 「どうしたんです。顔の色が真っ青ですよ」  奥からまだ了然さんや了沢君の読経の声がきこえてくる。耕助は不意にガチガチ歯を鳴らした。それからうわずった声でささやいた。 「警部さん、来てください。ぼくといっしょに来てください。あなたに見ていただきたいものがある!」  磯川警部はびっくりして耕助の顔を見直した。しかし、それ以上なにも尋ねようとはしなかった。無言のまま靴をつっかけると、耕助のうしろから本鬼頭をとび出した。  耕助は本鬼頭を出ると、ひた走りに走って千光寺の坂をのぼっていった。千光寺にはむろんだれもいなかった。耕助は書院へとびこんだ。 「警部さん、これを読んでください。この|屏風《びょうぶ》の左にはってある色紙を……」  警部はいっとき|唖《あ》|然《ぜん》とした。金田一耕助、ひょっとすると気が狂ったのではないかと恐れた。耕助が指さしたのは、いつか和尚が、島は冷えるからの、といって出してくれた枕屏風である。 「警部さん、ぼくにはその色紙がどうしても読めなかった。それさえ読めていたら、もっと早くこの事件の真相に気がついていたかもしれないんです。読んでください。早く読んでみてください」  耕助はまるで、|地《じ》|団《だん》|駄《だ》をふむような調子だった。警部はとまどいしたような眼を、耕助の指さす色紙におとした。 「ああ|其《き》|角《かく》ですね」 「そうです。しかし、それは其角のなんという句なんです」  警部はしばらく色紙のおもてを凝視していたが、 「ずいぶん、ひねった字を書いたものですな。なるほど、これじゃ句を知らぬ者には読みきれない。これは其角でも有名な句で、|抱《ほう》|一《いつ》にもこの句のもじりがあるくらいです。これはね、|鶯《うぐいす》の身を|逆《さかさま》に|初《はつ》|音《ね》かな、というんです。抱一はこれをもじって、鶯の身をさかさまに初音どんという句をつくっている。吉原かなんかで|花《おい》|魁《らん》が階段のうえから、新造か|禿《かむろ》を呼ぶところを句にしたんでしょうな」 [#ここから2字下げ] 鶯の身をさかさまに初音かな…… [#ここで字下げ終わり] 「それだッ、け、け、け、警部さん!」  耕助はガタガタとふるえ出した。なにかしら冷たいものが、背筋をつらぬいて走る感じだった。 「花ちゃんが梅の枝にさかさ|吊《づ》りにされていたのは、その句の見立てだったんです。雪枝さんが吊り鐘に伏せられていたのはこっちの発句、むざんやな|冑《かぶと》の下のきりぎりす、……それなんです。そして昨夜の一件はもう一枚の色紙、一つ家に遊女も寝たり萩と月……」  警部も|茫《ぼう》|然《ぜん》として眼玉をひんむいた。 「そうです、そうです。警部さん、あなたのいおうとしていることはよくわかる。しかし、気ちがいなんだ。獄門島の住人は、みんな気ちがいなんだ。気がちがっているんだ。気がちがっているんです。気が……」  そこで耕助は、不意にはたと口をつぐんだ。そしていまにもとび出しそうな眼で、枕屏風のおもてをはげしく凝視していたが、突然、どっとわらい出した。 「気が……気が、……気がちがっている!」  耕助はゲタゲタととめどもなくわらい出した。腹をかかえてわらいころげた。涙があふれて頬をつたったが、それでもわらいやめなかった。 「気が……キが、……そうだ、たしかにちがっている。ああ、おれはなんというバカだったろう」  花子の殺された直後のこと、梅の古木のほとりに立って了然さんのつぶやいたことば。 「気ちがいじゃが仕方がない」  あのことばの真の意味に、耕助はそのときはじめて気がついたのである。     忠臣蔵十二段返し 「嘉右衛門さんのことをききたいといわれるのかな」  ひとたらしの玉露の香を、口中にふくみながら、|伊《いん》|部《べ》|焼《やき》の湯飲み|茶《ぢゃ》|碗《わん》をおいて、儀兵衛さんはゆったりと耕助を見る。  小鼻の両わきからくちびるの端へかけてのしわのふかい、大きなうけ口の顔は、いかにも|因《いん》|業《ごう》そうな印象をひとにあたえるし、本鬼頭がわのひとびとからは、げじげじのようにいみきらわれている儀兵衛さんだが、めんとむかって話してみると、さすがにこのひとも、一方の旗頭だと思わざるをえなかった。  分鬼頭の奥座敷。あけはなった障子のそとには、谷をへだてて本鬼頭のおおきな|瓦《かわら》屋根が見える。さわやかな朝風が対座した儀兵衛さんと耕助をめぐってながれる。  耕助はゆうべ一睡もしていない。一晩じゅう|輾《てん》|転《てん》反側しながら、|発句屏風《ほっくびょうぶ》から発見した、あのおどろくべき暗示を基礎として、もう一度頭のなかで、この事件の最初の一ページから読みなおしてみた。すると、いままで読み落としていた、いくつかの行間の文字が鮮明な活字となって、あらわれてくるのに気がついて、耕助はいまさらのように、大きなおどろきと恐れを感じずにはいられなかった。  夜が明けたとき、耕助の|頬《ほお》はげっそりと肉が落ちていた。|瞳《ひとみ》が病的な熱っぽさで、ギラギラと光っていた。 「金田一さん、あなたどこか悪いのじゃないか。熱でもあるのじゃありませんか」  朝御飯の知らせに茶の間へ行くと、さきに来ていた磯川警部が、びっくりしてそう声をかけたくらいである。警部が来てから耕助も、本鬼頭の屋敷のうちに寝泊まりしているのだ。  耕助はしかし、それにこたえなかった。まずい朝飯をながしこむようにのみくだすと、ものといたげな警部の視線をさけるようにして、本鬼頭をとび出した。そしてやってきたのが分鬼頭であった。 「儀兵衛さんにぜひともお伺いしたいことがありまして……」  取り次ぎに出たお志保さんも、耕助の顔色に気がついた。はぐらかすようないつもの微笑をあわててひっこめると、すなおにその旨を取りついだ。そしていまこうして耕助は、儀兵衛さんとむかいあっているのである。 「嘉右衛門さんというひとはえらい人でしたな。島のもんはあのひとを、太閤さんとよんでいたが、たしかにそういうところのある人でした」  儀兵衛さんの声にはふかいひびきがある。一句一句、語尾に力をいれて話す口のききかたにも、派手ではないが、手がたいこのひとの性格がうかがえるようで、そういうところにもこの人が、|権《ごん》|現《げん》様にたとえられる原因があるのだろう。 「あんたもこの島へ来るまでには、いろいろ島のうわさをきかれたことだろう。そして来てみて案外ほかとちがったところのないのにおどろかれたことと思う。しかし、いまから二、三十年まえ、わたしどもの若いころはひどかったな。それこそ獄門島という名にふさわしい、そして、海賊と|流《る》|人《にん》の子孫だといわれてもしかたのないような手のつけようのない、風儀の悪い島でしたな。それがここまでになったというのは、みんな嘉右衛門さんのおかげなのじゃ。嘉右衛門さんはべつに学問のある人じゃない。また、社会教育家でもないから島の風儀をよくしようと格別骨を折ったわけでもない。ただ、あの人は島を富ませてくれましたのじゃ。島の住民の生活を豊かにしてくれましたのじゃ。貧乏こそはあらゆる罪悪の根元、貧しいと恥をわすれて、どんな風儀の悪いことでもやる。それが嘉右衛門さんのおかげで、だんだんくらしが豊かになってくると、人間おのずからつつしみが出てくる。せんにはとても及びもつかぬとあきらめていた、ほかの島々より、かえってこっちのほうが豊かになると、風儀のうえでもほかの島にまけまいと、おのずとはげみが出てくるものじゃ。こうして嘉右衛門さんは、しだいに島の気風をかえていったのですな、と、いって嘉右衛門さんは、けっして島のもんのために働いたというのではない。島を富ませようとはじめから考えていたわけじゃない。いわば自分の欲で、自分が金持ちになりたいから、骨身をけずって働いたまでのことじゃが、こういう島では網元が豊かになれば、手についている漁師もしぜんよくなるわけじゃ。また、一軒の網元がよくなれば、ほかの網元も負けん気になって相手のやりかたをまねるからこれまたしぜんよくなる道理。嘉右衛門さんという人は眼さきのきく人で、またいったんこうと思い立ったら、どんなことがあってもやりとおすという人じゃった。それがこのまえの大戦の好景気にのって、どんどん手をひろげていったから、とうとうこのへんきっての網元になりおわせた。わたしなどは、嘉右衛門さんのおこぼれをひろって、まあここまで来たようなものじゃ。どうじゃな、これですこしは嘉右衛門さんのことがわかったかな」  儀兵衛さんは|蒼《あお》くすんだ眼で耕助をみる。たかぶりもせぬ代わり、へりくだりもせぬ、いたって虚心|坦《たん》|懐《かい》な瞳の色だった。 「なるほど、それでだいたい太閤さんのいわれはわかりましたが、それほどの人でも、晩年はずいぶん不幸だったという話ですが……ことに臨終のさいの|懊《おう》|悩《のう》は、見ていられないくらいだったという話がありますが……」  儀兵衛さんは相変わらず、ものに激しない眼の色で、耕助の顔をじっと見ている。そして、ふかいひびきのある声でこういった。 「それについて島のもんは、わしのことをとやかく言うているようじゃ。あんたもおききなすったろう。わしもその点については、全然根のないことだとはいわぬ。たしかに、嘉右衛門さんの晩年には、わしらのあいだに|溝《みぞ》ができていた。また、その溝は大きくなるばかりだった。しかし、それはどうにもしかたのないことで、仕事のうえではわしは嘉右衛門さんに|一《いち》|目《もく》おいていたし、なんとかついていこうと骨を折ることができたが、あの人の趣味というか、道楽というか、それにはどうしてもわしはついていけなかった。それが嘉右衛門さんを不きげんにしたのじゃな」 「嘉右衛門さんという人は、ずいぶん豪勢なあそびをした人だそうですね」 「そう、なにしろ気っぷのよい人だから、よう|儲《もう》けもしたがよう使いもした。景気のよいときには金を湯水のごとく使いすてる。そういうときには、島のおもだったものが一座せぬときげんが悪いのじゃが、わしにはどうしてもそういう道楽についていけなかった。自分でおもしろうもないのに、座につらなっておたいこをたたくわけにもいかぬ、やせても枯れてもわしも網元、分鬼頭の主人じゃ。それでついつい、そういう座から欠けることが多かったから、それが嘉右衛門さんをおこらせ、また、はたからみるといかにも腹黒いように思われたのじゃ。しかし、ひとがなんと言うたところでしようがない。こればかりは肌合いのちがいじゃからな」 「嘉右衛門さんは晩年、|雑《ざつ》|俳《はい》に凝っていたというじゃありませか」 「そう、|冠《かむり》づけというのかな。いったい、嘉右衛門さんという人は、勝野さん一人で満足していたことでもわかるとおり、ああいう人としては女色に|恬《てん》|淡《たん》なひとだったが、昔から、なんというか、|似《え》|非《せ》風流心の強い人でな、ひところ千光寺の和尚などと、発句などやっていたが、床屋の清公がながれてきてからは、冠づけに熱をあげはじめた。わしも一度断わりきれなくて、|運《うん》|座《ざ》につらなったことがあるが、いやどうも、やはり肌合いのちがいというのか、苦々しいばかりでちっともおもしろうない。いったい風流というものは、白露のさびしき味を忘るるなと、|芭蕉《ばしょう》翁もいましめているくらいのものだが、嘉右衛門さんや清公のは、さびしいどころか騒々しいばかり、わしは一度でごめんこうむったが、するとこんどは何々見立てというものに凝りはじめた」 「なんですか。その何々見立てというのは?」  耕助はどきりとしたような眼つきになった。なにかしら暗中でもとめていたものに、はじめてぶつかったような気持ちなのである。 「つまり、いろんなものに見立てるのだな。わしは一度しか出なかったからよう知らぬが、わしの出たときは見立て料理合わせというやつで、題は|忠臣蔵《ちゅうしんぐら》十二段返し。|大《だい》|序《じょ》から討ち入りまで、あらかじめ二、三段ずつ題をわたしておいて、題をわたされたやつはそれに見立てた料理をつくるんだな。わしは『討ち入り』をわたされて大弱りに弱っていたら、床屋の清公がやってきて、討ち入りだから雪をきかせて|笹《ささ》の雪を出せばよいと教えてくれた。あとでわかったところによると万事その調子で、床屋の清公がみんなに教えてまわっているのだ。なんのことはない、嘉右衛門さんと清公があそんでいるようなものだから、馬鹿馬鹿しくなって、わしはそれも抜けてしもうたよ」  見立て……見立て……嘉右衛門さんにはそういう趣向ずきの性癖があったのだ。 「なるほど、つまりそれは風流ではなくて、江戸末期の|通《つう》|人《じん》趣味なんですね。ところで、千光寺の和尚さんや村長、それに幸庵さんなどもそういう会へ出たんでしょうね」 「もちろん、あの三人は常連だった。千光寺の和尚は、年こそ嘉右衛門さんより下だったが、気持ちからいえば兄貴分みたいなもので、嘉右衛門さんも一目おいていたし、また、和尚のほうでは、駄々っ子をあやすぐらいの気持ちで、嘉右衛門さんがなにか思いつくと、あいよあいよと付きあっていなすったようだ。それにくらべると村長や幸庵さんの気持ちはだいぶちがう。これはもうわが身かわいさにおたいこをたたいていたといわれてもしかたがあるまい。わしにはそれがいやだった」  儀兵衛さんの声には、はじめて感情のうごきがあらわれた。強くはないがどこか吐きすてるようなひびきがあった。 「嘉右衛門さんはあの三人を、よほど信用していられたのでしょうね。後事を託していかれたくらいだから」 「まあ、そうじゃろう。わしとのあいだに溝ができた以上、島で話し相手になるのはあの三人きりだからな。しかしなあ、金田一さん、嘉右衛門さんが臨終で、あんなに苦しまれたというのは、なにも、わしのことばかりじゃない。なに、家のなかさえうまくいっていたら、わしなど眼中にある人ではなかったが、なんしろ与三松さんのことがあるでなあ。これを思えば与三松さんがお小夜という女に手をつけたのが、そもそも本鬼頭のつまずきのはじめじゃったなあ」 「そうそう、そのお小夜さんという人についてお伺いしたいのですが……」 「お小夜か、あれは気ちがいでしたな。あんたは知るまいが、この中国筋にはカンカンたたきという筋のものがある。四国の|犬《いぬ》|神《がみ》、九州の|蛇《へび》|神《がみ》、それとは少しおもむきがちがうが、ふつうの者と交わりができぬものとしてある。いわれを話すと古いが、なんでも|陰陽師《おんみょうじ》|安《あ》|倍《べ》の|晴《せい》|明《めい》が、中国筋へくだってきたとき、供のものがみんな死んでしもうた。そこで晴明さん、道ばたの草に生命をあたえて人間とし、これをお供にして御用を果たしたが、さて京へかえるとき、もとの草にもどそうとすると、そのものどものいうことに、せっかく人間にしていただいたのだから、このままでおいてくだされと頼んだそうだ。そこで晴明さんもふびんに思って、そのまま人間にしておくことにしたが、もとをただせば草だから、たつきの業を知らぬ。晴明さん、そこで|祈《き》|祷《とう》の術を教えて、これをもって代々身を立てよといいきかされたというのじゃが、その筋のものを草人、一名カンカンたたきといって、代々祈祷をわざとしている。根が草のことだから、人交わりはできぬというので、ふつうのひとはいみきらう。お小夜はその筋のものだというのだが、うそかほんとかわしは知らぬ。なんでもいま村長をやっている荒木が、どこかで調べて来おって、それを嘉右衛門さんに吹っこんだものだから、嘉右衛門さんはいよいよお小夜をいみきらうようになったのじゃな」 「村長が、しかし、なぜそんなよけいなおせっかいをしたものでしょう」  儀兵衛さんはふいと渋いわらいをうかべると、 「かわいさあまって憎さが百倍……はっは、荒木真喜平、いまでこそ村長におさまって、しかつめらしい顔をしているが、昔はあれで相当のものじゃったな。お小夜なども与三松さんと張り合ってだいぶいざこざがあったもんじゃ」  耕助はまた、暗中でなにかにぶつかったような心地で、どきりと|瞳《ひとみ》を光らせた。 「あのひとが……?」 「そうじゃよ。人は見かけによらぬもの。しかし、お小夜を憎んだのは村長ばかりじゃなかったな。幸庵さんなどもその当時患者はすっかりお小夜にとられる。お小夜がやぶのなんのと陰口をたたくものだから、すっかりさびれて大弱りだった。しかし、まあ、だいたいお小夜のほうが悪かったな。わしはべつに深いかかりあいはなかったが、それでもお小夜という女はきらいだった。あんな女にひっかかった与三松さんをいまでも気の毒な人と思うている」  耕助はしばらく無言のまま、じっとなにか考えていたが、急にまた思い出したように、 「ときにそのお小夜という女ですがねえ。この島で道成寺を演じたといいますが、そのとき使った吊り鐘はその後どうなったでしょう」 「吊り鐘……?」  儀兵衛さんは不審そうに|眉《まゆ》をひそめて、 「吊り鐘といったところで、芝居の道具だから、竹に紙をはってこさえたものだが……」 「そうです、そうです、そのこさえものの吊り鐘ですが、それはその後どうなったでしょう」 「そう、そういえばあの吊り鐘は、本鬼頭の蔵のなかにあったはずじゃが……さあて、それからどうしたか、仕掛けで、パッとまんなかから割れるようになっていたが……」  仕掛けでパッとまんなかから割れる吊り鐘……ああ、それにちがいない。耕助はのどの奥がひっつるような気持ちだった。 「いや、ありがとうございます。たいへん参考になることをきかせていただきました」  耕助がしずんだ調子で礼をいうと、儀兵衛さんはおだやかに、 「いや、あなたがたの職業もたいへんですな。ずいぶん頭をつかうことでしょう」 「いやあ」  耕助は力なくわらって、 「警察の連中がやってきたので、すっかり素性がばれちまいまして」 「警察のひとがやってきたので……?」  儀兵衛さんはふいと|眉《まゆ》をひそめると、 「それはどういうわけかな。わたしはずっとせんから、あんたのことは知ってましたよ」 「な、な、な、なんですって?」  耕助は突然、脳天から|楔《くさび》をぶちこまれたような驚きを感じた。 「ぼ、ぼ、ぼ、ぼくのことを御存じだったんですって? だ、だ、だ、だれがそんなことを……」 「村長だよ。いや、わしは村長からじかにきいたわけじゃない。助役からきいたのじゃが、金田一……珍しい名字だからな。村長はすぐ、ずっとせんの、……なんといったかな、そうそう『本陣殺人事件』……あれを思い出したらしい。役場にある古い新聞のとじこみをひっぱり出して調べているところを、助役が見たそうじゃ。そのとき、村長はだれにもこのことはいわぬようにと口止めしたが、助役はわしにだけ、こっそり耳打ちしてくれてな。しかし、妙だな、あんた、いままでそのことに気がつかなかったのかな」  村長が自分のことを知っていた。村長が知っていたからには、和尚や幸庵さん、少なくとも和尚だけは知っていたにちがいない。  おお、なんということだ? 耕助にとって文字どおりそれは青天の|霹《へき》|靂《れき》であった。      第七章 見落としていた断片 「了沢さん、了沢さん、ちょっとあなたにお尋ねしたいことがある」 「はい、金田一さん、なんでござりますか」 「花ちゃんが殺された晩のことですがねえ。あれは千万太君のお通夜の晩のことでしたね」 「はい、さようでござりました」 「あの晩、ぼくは和尚さんにたのまれて、ひとあしさきに寺を出て、|分《わけ》鬼頭へ使いにいきましたね。そしてそれから|本《ほん》鬼頭へ行こうとあのつづら折れのふもとまで来ると、うえからあなたと和尚さん、それから竹蔵さんの三人がおりてきましたね。覚えていますか、あのときのことを……」 「はい、よく覚えております。しかし、それがどうかしましたか」 「あのときあなたは、寺からずっと、和尚さんや竹蔵さんといっしょでしたか。つまり寺を出て、ぼくに出会うまでずうっとふたりといっしょでしたか」  了沢君は不思議そうな眼で耕助を見る。 「金田一さん、あなたがなぜそんなことをお尋ねになるのか知りませんが、それなら、いいえとお答えするよりほかはありません」 「いいえ……? それじゃあなたは、和尚さんや竹蔵さんといっしょに、あそこまで来たのじゃなかったのですか」  耕助はすこしせきこんでくる。了沢君はいよいよ不思議そうに眉をひそめて、 「寺を出たときはいっしょでした。しかし、山門を出るとすぐ、和尚さんが忘れものを思い出されて、とってきてくれとたのまれたのです。忘れものというのは経文をつつんだ|袱《ふく》|紗《さ》づつみでした。方丈の二月堂のうえにあるからとおっしゃるのです。わたしはすぐ引っ返しましたが、二月堂のうえに袱紗づつみはありません。和尚さんが思いちがいをされたのであろうと思って、そこらじゅうを探してみましたが、袱紗づつみはどこにも見えません。とうとう探しあぐねて、寺を出て、つづら折れのふもとまで来ると、そこに和尚さんと竹蔵さんが待っていられて、すまん、すまん、袱紗づつみはふところにあったよ、と和尚さんがわらわれたのです。あなたに出会ったのはすぐそのあとのことでした」  耕助はなやましげな眼つきをして、 「すると、竹蔵さんはずっと和尚さんといっしょだったのでしょうか。竹蔵さんにはつづら折れの途中で会いましたが、あのひとは寺まで行ったのですか」 「いいえ、山門を出たところで、竹蔵さんに出会ったのです。わたしはそれからすぐに寺へ引き返しましたが竹蔵さんはもちろん、和尚さんといっしょだったと思います」 「いや、ありがとうございます。ときに和尚さんは?」 「分鬼頭へ行くといって出られました」 「分鬼頭へ……? なんの用事だろう」 「|鶴《つる》|見《み》の本山から|允《いん》|可《か》がおりたので、あした伝法の儀式をあげて、寺をわたしにゆずるとおっしゃいます。それについて、いまではなんといっても分鬼頭が、島いちばんの網元ですから、了解を得に行かれたのです」  了沢君はいまにも泣き出しそうな顔色だった。 「寺をゆずる? 寺をゆずって和尚さんはどうなるのですか」 「作州のおくにある隠居寺へひっこもるといっていられます。まえからそういう話になっておりましたが、なにもこんなに急がなくても……わたしはどうしてよいかわかりません」  了沢君は途方にくれた面持ちである。  耕助はそれをなぐさめて寺を出たが、そのあしどりには力がなかった。  つづら折れの途中まで来ると、道ばたに|地《じ》|神《がみ》様の|祠《ほこら》がある。耕助はその祠に立ち寄って|狐格子《きつねごうし》のあいだからなかをのぞいていたが、なにを見つけたのか、急に大きく眼をみはった。いそいであたりを見回すと、狐格子をおしてみる。格子には|鍵《かぎ》がかかっていなかったとみえてなんなくひらく。耕助はうすぐらい祠のなかにふみこんだ。  たしかにちかごろ、この祠のなかへ入ったものがあるにちがいない。床のほこりがふみあらされて、しかもひとひら、色美しい花弁が落ちている。造花の花弁——花かんざしのひとひらなのである。それをひろって手帳のあいだにはさむと、耕助はゾクリとはげしく身ぶるいをし、それからそっと地神様の祠を出た。  坂をくだって本鬼頭まで来ると、そこには相変わらず、ものものしい顔つきをしたお巡りさんが出たり入ったりしている。三人娘の仮埋葬は昨夜のうちにすませたが、本葬の日取りは未定である。 「千万さんのお葬式もすまないのにこんなことになって……それに、亡くなられた御隠居様の一周忌ももうまぢか、なにもかもいっしょになって……」  と、昨夜勝野さんがなげいていたのを思い出し、耕助は|暗《あん》|澹《たん》たる気持ちであった。  台所のほうへまわると、さいわいそこに竹蔵がいた。耕助はそっとかれを物かげへまねいて、 「竹蔵さん、竹蔵さん、ちょっとあなたにお尋ねしたいことがある」 「はい、お客様、なんでござりますか」 「花ちゃんの殺された日の晩のことですがね、あの日の夕方、千光寺へのぼるつづら折れの途中で、あなたと会いましたね、覚えていますか」 「はい、よく覚えております」 「あれからあなたは坂をのぼっていかれたが、山門のところで、和尚さんと了沢さんに会われたそうですね。了沢さんはそのとき、和尚さんに忘れものをたのまれて寺へ引き返されたそうですが、さてそのあとのことです。あなたはずっとつづら折れのふもとまで、つまり分鬼頭から引き返してきたぼくと出会うまで、和尚さんといっしょでしたか」 「はい、いっしょでござりました」  竹蔵は不思議そうな眼で耕助を見る。 「ほんとうに? かたときも和尚さんのそばをはなれませんでしたか。竹蔵さん、このことは非常に大事なことなのだから、よく考えて正確に答えてください」  竹蔵はおびえたような眼をして耕助を見ながら、しばらく考えていたが、 「ああ、そういえば……そうです、そうです。坂の途中で和尚さん、|下《げ》|駄《た》の鼻緒を切らせて、……わたしがすげてあげるというのを、いいから先に行ってくれといわれたので、わたしはつづら折れのふもとまで、先にやってきたのでござります。すると和尚さんがあとから追っかけてこられて、話をしているところへ了沢さんもやってきたのです。それで三人そろって歩き出したところへ、あなたが分鬼頭のほうから来られたのでござります」  耕助の胸はずうんと重くなってくる。どうにも救いようのない気分なのである。 「ところで、和尚さんが下駄の鼻緒を切らせた場所ですがね。地神様より上ですか、下ですか」 「いいえ、ちょうど地神様のまえでした。和尚さんは祠の縁側に腰をおろして、下駄の鼻緒をすげていらっしゃいました」  耕助の胸はいよいよ重くなる。ぼんやり光のない眼で、あらぬかたをながめていたが、やがてまた思い出したように、 「そうそう、それからもうひとつお尋ねがあるんだが、あのとき、ほら、はじめに坂の途中で出会ったとき、あなたはぼくにどこへ行くかと尋ねましたね。そこでぼくが、和尚さんにたのまれて、お通夜のことを分鬼頭へ知らせにいくんだというと、あなたは妙な顔をしましたね。あれはどうしてですか」 「ああ、あのとき……それはかようでござります。お通夜のことなら分鬼頭で、ちゃんと知っているはずなのでござります。現にあのまえの日、和尚さんのおことばで、わたしがあいさつに行ったのでござります。それをまたあなたが知らせにいくとおっしゃるので、変に思うたのでござりますが、なにかまたほかに、用事があるのだろうと思うたものだから、そのまま別れたのでござります」 「いやわかりました。いろいろありがとう。ときに、警部さんがいたら、ちょっとここへ来てもらいたいのだが……」  竹蔵はすぐに警部をよんできた。 「金田一さん、なにか……?」 「ええ、ちょっとぼくといっしょに来ていただきたいのです。竹蔵さん、なにかこう、長い|竿《さお》のようなものはありませんか。さきに|鉤《かぎ》がついているような竿がほしいのだが」  竹蔵はすぐに手ごろの鉤竿をさがしてきた。 「お客さん、これでようござりますか」 「ああ、けっこう、竹蔵さん、あんたもいっしょに来てください」  本鬼頭を出ると、坂をくだって三人は入り江へ出た。途中島の連中が、妙な顔をして三人を見ていたが、耕助はふりむきもしなかった。  船着き場へ出ると、耕助は、 「竹蔵さん、舟が一|艘《そう》ほしいのだが」  と、竹蔵をふりかえった。 「ようござります。すぐ持ってまいりますで、ちょっとお待ちください」  竹蔵が舟を|漕《こ》いでくると、耕助と磯川警部が乗り込んだ。 「金田一さん、いったいなにをやらかそうというのかな」 「いまにわかります。手品の種明かしをしてお眼にかけようというのですよ。竹蔵さん、ほら、あの岩の下……吊り鐘のおいてある|天《てん》|狗《ぐ》の鼻の下へ漕いでいってくれませんか」  海はしずかに|凪《な》いでいる。秋もようやくふかくなった瀬戸の内海は、|碧玉《へきぎょく》をといて流したように、美しくきらきらとかがやいている。舟のなかでは警部も耕助も無言である。しかし、その無言の底には、一種のきびしい緊張の気がながれている。耕助の頭のなかに、ようやく事件の真相が、凝結しはじめていることを、磯川警部も気がついているのである。  舟は間もなく岩のふもとの|淵《ふち》へ来た。まえにもいったように、そこは潮だまりになっているとみえて、吹きよせられた|海《かい》|藻《そう》が、潮をおおうてゆっさゆっさとゆれている。耕助は岩のうえに吊り上げられた吊り鐘に目をやりながら、 「ああ、竹蔵さん、そのへんでいいのです。そこらで舟をとめて、ひとつその竿で水のなかをさぐってみてくれませんか」 「お客さん、なにをさぐるのでござりますか」 「おもしのついた綱がこのへんに沈んでいるはずなんです。綱のさきには軽いものが結びつけてあるから沈んでしまったとは思えない。ひとつかきまわしてみてください」  竹蔵は鉤竿を逆にとって、じゃぶじゃぶ海のなかをかきまわす。耕助と警部はふなべりから身を乗り出して、竿のうごきをながめている。警部の息遣いがしだいにあらくなってくるのが耕助に感じられた。 「あっ!」  突然、竹蔵がひくい声で叫んだ。 「あった? よし」  耕助は身を乗り出すと、 「竹蔵さん、この竿はぼくが持っているから、あんたすまないが海へ入って、綱を切ってくれませんか。あんたを使っちゃすまないのだが……」  耕助はふところから、大きな海軍ナイフを取り出した。 「へえ、ようござります。なあに、そんなこと|造《ぞう》|作《さ》ござりません」  くるくると着物をぬいで、ふんどし一本のたくましい赤裸になると、竹蔵は海軍ナイフを口にくわえて、鉤竿づたいにしずかに海のなかへ入っていった。  すぐその姿は海藻の下にかくれたが、やがてゆるやかな波紋が底のほうからわきあがってきたかと思うと、間もなく竹蔵の姿がふたたび海面に浮きあがってきた。 「お客さん、これを……」  握っていた綱の端を耕助にわたすと、竹蔵は身軽に舟にはいあがる。綱の端を握った耕助は、さすがに緊張した顔色だった。 「警部さん、いよいよ手品の種明かしですよ。鬼が出るか|蛇《じゃ》が出るか」  耕助が綱をたぐるにしたがって、不思議なものがゆらゆらと海面にあらわれてきた。はじめのうち、警部にも竹蔵にも、それがなんだか見当もつかなかったが、間もなくその|全《ぜん》|貌《ぼう》がわかるに及んで、警部も竹蔵も眼をまるくして驚いた。 「あっ、つ、吊り鐘!」  警部は息をはずませる。 「そう、吊り鐘……しかし、吊り鐘は吊り鐘でも、これは張り子の吊り鐘です。まんなかからパッと二つにわかれる吊り鐘、月雪花、三人娘のおふくろが、道成寺の芝居に使った吊り鐘です。親が芝居に使った吊り鐘が、娘を殺す道具に使われたというのもなにかの因縁というものでしょうか」  耕助の声音にはふかいなげきがこもっている。手品の種を見やぶったときの、勝ちほこったよろこびはどこにも感じられなかった。……  ちょうどそのころ、分鬼頭を出た了然さんは、岩の上までさしかかっていた。了然さんはなにげなく、岩鼻に立ち寄って下をのぞいた。気脈が通じたのか耕助も、そのときひょいと上をあおいだ。岩の上の了然さんと、岩の下の耕助の視線がかっきり出会ったとき、 「南無……」  と、つぶやいて了然さんは岩の上で合掌した。     伝法の儀式の後に  その翌日。  獄門島には一日じゅう、こまかい霧雨がふりつづいた。そして、その霧につつまれた千光寺の本堂では、了然さんと了沢君のあいだに、おごそかな伝法の儀式がとりおこなわれた。  曹洞宗における伝法の儀式は、ふつう一週間かかるものとされている。  紅幕をはりめぐらせた本堂に、余人をまじえず師弟相対して、弟子はここに初めて師匠より秘伝を口授され、大事、嗣書、|血脈《けちみゃく》を謹写することをゆるされるのである。弟子がそれらを謹写するさい、一字書いては立って三拝するというのだから、ひまのかかるのも道理である。しかも、この儀式が終わるまでは、あらたに法をつぐひとは、|上厠《じょうし》以外に絶対に席をたつことをゆるされず、もし必要とあらば、|薪《しん》|水《すい》の労も師匠がとり、給仕のごときも、師匠が逆に弟子にむかって行なうのである。  このことは、あらたに法脈をつぐひとの、雑念を去るためであろうが、同時に、法をつたえてしまえば師も弟子もともに釈迦牟尼仏の法弟であり、いわば同格であるということを意味しているらしい。  しかし、了然さんはどういう考えがあったのか、そんなしちめんどうなことはやらなかった。かれはその日一日で、了沢君に法をつたえ、了沢君はここにあっぱれ、釈迦牟尼仏八十二代目の法弟ということになったのである。  たった一日のことではあるが、しかし、伝法の儀式を終わって本堂を出てきたとき、了然さんの顔色には、さすがに疲労の色があらそえなかった。|厠《かわや》を出て手を洗いながら、了然さんが寺内をすかしてみると、ほのぐらい霧雨のなかに、あちらにひとり、こちらにふたりと、ものものしく武装したお巡りさんがかぞえられた。  了然さんはそれを見ると、ほうっと熱いため息をもらしたが、しかし、それくらいのことで取りみだすようなひとではなかった。しっかりとしたあしどりで書院へ入ると、 「お待ちどおさま」  ことばすくなにあいさつして、ずっしりと座についた。  書院にはふたりの客が待っている。耕助と磯川警部である。ずいぶん待たされたとみえて、ふたりのあいだの|莨盆《たばこぼん》には、煙草の吸いがらが山のように盛りあがっている。 「ああ、いや、おすみになりましたか」  磯川警部は座り直した。なんとなくひきしまった声音である。 「ええ、すみました。おかげさんでな」 「和尚さん、了沢君はどうしました」 「了沢かな。あれは分鬼頭へあいさつにやりました。なんとゆうてもこれからは、儀兵衛どんにうしろ|楯《だて》をたのまねばならんからの。本来ならば儀兵衛どんに、こっちへ来てもらうのじゃが、あんたがたが話があるというものじゃから……金田一さん、話というのはどういうことかな」 「和尚さん」  耕助はそれだけいってあとがとだえた。語尾がふるえて、くちびるの端がわなわなと|痙《けい》|攣《れん》した。しばらくかれは息をのむように、無言のまま和尚の顔をながめていたが、やがてつとその眼をそらすと、 「和尚さん、きょうはあなたを縛りに来ました。いろいろお世話になったのに、こんな羽目になったのを残念に思います」  ほとんどすすり泣くような調子であった。和尚はすぐには答えない。磯川警部も無言のまま、ふたりの顔を見くらべている。味の濃い沈黙が、水のように書院のなかにみなぎりわたる。 「わしを縛りに……? なんのとがで……」  和尚は落ち着きはらっている。その質問も質問というよりは、耕助をためすようである。 「花ちゃんを殺したとがで……和尚さん、花ちゃんを殺したのはあなたでしたね」 「花子を殺したとがで……金田一さん、それだけかな」 「いいえ、まだある。和尚さん、海賊の|砦《とりで》で海のギャングを殺したのもあなたでしたね」 「海賊の砦で海のギャングを……うん、それから……」 「それだけです。花ちゃんと身元不詳の海賊と、……あなたの殺したのはこのふたりです」  磯川警部が驚いたように耕助の顔を見直した。警部はまだ、詳しい話をきいていないらしい。 「それだけ……?」  和尚は淡々として、 「金田一さん、それじゃ雪枝や月代はどうなるのかな。あれはわしのせいじゃないのかな」 「いいえ、ちがいます。和尚さん、あれはあなたのしわざじゃありません。雪枝ちゃんを殺したのは村長の荒木真喜平氏だし、月代ちゃんを殺したのは、医者の村瀬幸庵さんなんです」 「金田一さん」  磯川警部がせぐりあげるような声でさえぎった。そしてそれきりあとはことばも出なかった。あまり大きな驚きに、あとのことばがつづかなかったのである。だいぶたってから、 「そ、そりゃ……ほんとうですか」  ほとんどききとれないくらいの声である。 「ほんとうなのです、警部さん、花ちゃんを殺したのは和尚さんだし、雪枝ちゃんを殺したのは村長さん、そして最後に月代ちゃんを殺したのは医者の村瀬幸庵さんなんです。いや、そう考えるよりほかに、この事件の説明はつけようがないのです。変わった事件です。恐ろしい事件です。和尚と村長とお医者さん、この三人がひとりずつ、月雪花の三人娘を殺していったのです。しかし、そうかといって警部さん、この三人を共犯者だと考えられたらまちがっていますよ。ひとつひとつの殺人の場合、犯人は絶対にひとでを借りずに、独力で事を行なっているのです。だからこれは見ようによっては三つの独立した事件が、あいついで起こったと見られないこともないのです」 「しかし、そんなバカな! 三人娘が順繰りに、こんなにうまく殺されたのを、三つの独立した事件だなどと……」 「そうです、むろん、この三つの事件を統率している意志はあります。和尚と村長と幸庵さんを使って、それぞれの殺人を行なわせた人物はほかにあります。ほんとうをいうとそのひとこそ、この一種の殺人事件の真犯人なんです。その人物にくらべれば、和尚や村長や幸庵さんは、単なる殺人機械にすぎないのです」 「だれです、そりゃ……その恐ろしい人物は……?」 「去年、亡くなった嘉右衛門隠居!」  突然、雷にうたれたように、警部の全身は硬直した。感覚をうしなった|頬《ほ》っぺたが、しびれたようにピクピク痙攣した。和尚はしかし、相変わらず、淡々たるものである。眼を半眼に閉じた表情は、|微《み》|塵《じん》だにも動揺しない。 「そうなのです。すべては嘉右衛門さんの|修《しゅ》|羅《ら》の|妄《もう》|念《ねん》から出発しているのです。ぼくはバカだったのだ。この島へついたときから、いやこの島へつくまえから、そのことに気がついていなければならなかったのです」  耕助は精気をうしなって、虚脱したような表情で、和尚と警部を見くらべながら、 「和尚さん、警部さん、ぼくがなぜこの島へ来たと思いますか。ぼくは本家の千万太君にたのまれて、こんな事件の起こるのをふせぐためにやってきたのですよ。と、いうことは千万太君は、こういう事件が起こるだろうということを、あらかじめ知っていたことになるのです。千万太君はこういった。ぼくが死んだら三人の妹たちが殺される。……獄門島へ行ってくれ、いとこが……いとこが……と、そこまでいって息が絶えたのです。ところが、それとは別に、千万太君がまだそれほど悪くならないまえに、しきりにぼくに、獄門島へ行くことをすすめ、紹介状を書いてくれたのですが、問題はその紹介状のあて名にあるんです。それは和尚と村長と幸庵さんと、この三人の連名になっていた。千万太君はなぜこの三人をあて名にえらんだか、……と、いうよりも、なぜもっと身近なひとをえらばなかったか。……なるほど与三松さんはあのとおりの状態だから、紹介状のあて名としてふさわしくないかもしれないが、ではなぜ嘉右衛門さんをえらばなかったか。なぜ、嘉右衛門さんにあてて、紹介状を書かなかったのか。……これを考えれば、こんどの事件のなぞはすぐにも解けたはずだったのです」  耕助の瞳にはうすじろくにごったかげろうがただよっている。  それは自分自身を責めさいなむ自虐のくらい影だった。 「なるほど、嘉右衛門さんは老人だから、もう生きていないかもしれない、と、千万太君は考えたのかもしれぬ。しかし、それならばあて名の三人にだって同じことがいえるはずなんだ、和尚にしろ村長にしろ幸庵さんにしろ、けっして若いという年ごろじゃない。いや、それを考えたからこそ、千万太君はあて名を三人にしたのでしょう。そのなかのだれかが亡くなっていても、あとのだれかで用が弁じるように。……では、それならばなぜ嘉右衛門さんを敬遠したのだろう。嘉右衛門さんは自分の祖父だ。しかも獄門島の主権者なんだ。だれが考えても、一応嘉右衛門さんにあてて紹介状を書き、しかるのちに、念のために、和尚や村長や幸庵さんに紹介状を書くべきではないでしょうか。それだのに、千万太君はこの理の当然のことをやらなかった。嘉右衛門さんを敬遠した。なぜだろう。すなわち千万太君は嘉右衛門さんを恐れていたのではあるまいか。嘉右衛門さんこそ、三人の妹たちを殺す元凶であることを、知っていたからではありますまいか」  耕助はことばを切って煙草を一本取りあげた。マッチをする手がふるえている。吸いつけたものの、その煙草を指にはさんだまま両のこぶしをひざにおいて、 「千万太君は事変がはじまると間もなく召集されて、最初は中国へ派遣された。それから南の島々を経めぐったのち、最後にニューギニアの果てにながれついていたのです。家郷の通信も、ながいあいだ途絶えていたはず、いやたとい通信があったにしたところで、妹たちが殺されるかもしれないというような手紙が来るはずがない。それにもかかわらず千万太君は、自分が死ねば妹たちが殺されるということを知っていた。どうしてそれを知ったのだろう。すなわち、国をたつまえ、家を出るまえにそんな話があったとしか思えないじゃありませんか」  指にはさんだ煙草から、ホロリと長い灰がひざにこぼれる。耕助はしかし気がつかない。くらい眼をして畳のおもてをながめながら、 「ぼくの眼にはいまつぎのような情景がうかびます。本鬼頭の奥まった座敷に、三人の男が座っている。ひとりは老人、嘉右衛門隠居です。そしてあとの二人は老人の孫の千万太君と一さん。千万太君には召集令が来ています。そして一さんにも同じような赤紙が来るであろうことが予想される場合なんです。しかも、嘉右衛門隠居亡きのちの、本鬼頭の屋台骨を背負って立つべき与三松さんは気が狂っている。しかも、本鬼頭と仲の悪い分鬼頭は、いまやまさに、本鬼頭をしのぐべき運勢にある。そのときにあたって、頼りに思うひとりの孫は戦争にとられ、もうひとりの孫も、いつなんどきとられていくかもしれないのだから、嘉右衛門さんとしては、右をむいても、左をむいても、絶望的な悲痛以外は、何物もかんじられない場合でしょう。そこで、嘉右衛門さんはふたりの孫になんといったか。それはおそらくつぎのような意味のことばだったろうと思います。本家の千万太君が生きてかえれば、なにもそこにいうことはない。しかし、もし千万太君が死んで、一さんだけが生きてかえった場合には、本鬼頭の家は一さんに継がせる。しかし、それには月雪花の三人娘がいてはじゃまになるから、これを殺してしまう。……」  耕助の声はかすかにふるえたままポツンととぎれる。とぎれたまま、しばらくあとのことばが出なかった。磯川警部は無言のまま耕助の横顔に驚異の眼をみはっている。了然さんは相変わらず、眼を半眼に閉じたまま、淡々として座っている。  耕助はのどにからまる|痰《たん》を切った。 「いや、恐ろしいことです。およそ人間ばなれのした感情です。しかし、島の住人というやつは、だれもかれも常人とちがった感情でうごいているのですし、嘉右衛門さんとしては、本鬼頭の将来に対する心配も手伝っていたのでしょう。月雪花の三人娘、そのうちのだれがあとを継いでも、本鬼頭の家はつぶれてしまう。……嘉右衛門さんはそれを心配したのでしょう。かてて加えて、三人娘の母なるひとに対する、昔の憎悪も手伝っていたのでしょう。だから千万太君が死ねば一さんにあとを継がせる。千万太君も一さんも死ねば、早苗さんにあとを継がせる。どっちにしても三人娘は死ななければならなかったのです」 「いいや、それはちがう」  突然、ふとい、|錆《さ》びのある声がさえぎった。了然さんである。了然さんは相変わらず、半眼に閉じたままの顔で淡々と、 「ああ、いや、話の腰を折って悪いが、そこのところはちがっている。嘉右衛門さんには女の子は眼中になかった。月代であろうが、雪枝であろうが、花子であろうが、そしてまた早苗であろうが、嘉右衛門さんには五十歩百歩としかうつらなかったのじゃ。だから、千万さんも一さんも死んだ場合にはしかたがない。月代に養子をとって本鬼頭を継がせるつもりじゃった。早苗のために三人娘を殺そうとまでは、考えていなかったのじゃな」  耕助の顔に、不意にふかい驚きの色がひろがっていた。その驚きのなかには、なにかしら悲痛なものさえまじっていた。 「和尚さん」  と、すこし呼吸をはずませて、 「それじゃ、千万太君が死んで、一さんが生きている場合にだけ、こんどのような事件が起こったのですね。もしふたりとも死んでいたら、三人娘は殺されずにすんだのですね」  和尚は無言のままうなずいた。耕助と磯川警部は顔を見合わせている。二人の視線のあいだには和尚の知らないなんともいいようのない、いたましい悲哀がみなぎっている。 「運命じゃな。なにもかも運命じゃな」  了然さんはなにも知らずに、相変わらず薄眼を閉じたままつぶやいた。 「わしは吊り鐘をもらいにいった。吊り鐘は|鋳《い》つぶされもせずに残っていよった。そのかえるさに舟のなかで竹蔵から、一さんの生きていることをきいた。すぐそのあとじゃったな、金田一さん、あんたが千万さんの死を知らせてくれたのは、……なにもかも運命じゃな。千万さんの死と一さんの生還、そして吊り鐘……わしは嘉右衛門さんの執念が、生きてわしらを見まもっているのをまざまざと感じた。三つのうちのどれひとつ欠けていても、三人娘は殺されずにすみよったのじゃが、そろいすぎたよ、条件が……千万さんの死、一さんの生還、そして吊り鐘……」  耕助と磯川警部はまた顔を見合わせた。救いようのない暗いため息が、期せずしてふたりのくちびるをついて出た。  和尚は相変わらず淡々として、 「金田一さん。わしは出家じゃ。坊主じゃ。しかし、あんたも知ってなさるだろうと思うが、わしはそれほど迷信ぶかいほうでもかつぐほうでもない。しかし、三つの条件がピタリとそろうたときには、やっぱりゾッとする気持ちじゃった。なにかしら眼に見えぬ大きな力が、われわれをうごかしているのを感じたのじゃ。それに嘉右衛門隠居にはいろいろな義理もある。それになんじゃ」  と、和尚はすごい微笑をうかべ、 「あの三人の娘というのが、そもそも、殺して惜しいような人間でもなかったのでな。あっはっは。ああ、いや、しかし、話の腰を折って悪かった。金田一さんや、さあ、あとをつづけておくれ」  了然さんは超人である。いや、この年齢になって、あらゆる物欲から解脱したところへ、大きな仕事をしおおせた安心感から、こせこせした悪あがきをしない、あまりに大きな人格ができあがっているのかもしれない。 「警部さん、和尚さんもきいてください」  耕助は沈痛な声で話をはじめた。 「ぼくはいま生意気なことをいいました。この事件の背後に、嘉右衛門さんの影が、大きくぶらさがっていることを、早くから気がついていたようなことをいったかもしれません。しかし、それはうそなのです。ぼくがそれに気がついたのは、万事が終わったあとでした。しかも、それに気がつくように、みちしるべをつけておいてくれたのは、ほかならぬ和尚さんなんです。和尚さんはぼくの素性を知っていた。そしてフェヤ・プレーの精神からぼくの鼻先に、事件のなぞをとく|鍵《かぎ》、すなわちあの|発句屏風《ほっくびょうふ》を出しておいてくれたのです。それだけに万事が終わってしまうまで、ぼくにその鍵がとけなかったのは、もちろん自分の不明のせいもあるが、もうひとつには和尚さん、あなたのペテンにひっかかったせいもあるのです」  了然さんの眉がはじめてピクリとうごいた。けげんそうに耕助の顔を見直した。耕助はいそいでことばをつぐと、 「いや、和尚さんはけっして、ぼくをペテンにかけるつもりはなかったのだが、ぼくはそれをすっかり誤解してしまったのです。そしてそのことが最後の土壇場まで、ぼくを袋小路のなかへひきずりこんでいたのです。だがそのことをお話しするまえに、最初の花ちゃん殺しから、順を追って話してみましょう。警部さんはまだ詳しいことを御存じないのだから」  耕助は茶碗の底に残った、赤茶けた茶を口にうつした。黒い茶カスが舌のうえにホロ苦かった。了然さんは気がついたように、方丈から|鉄《てつ》|瓶《びん》と|急須《きゅうす》を持ってくる。     「気ちがい」の錯覚 「花ちゃんが殺されたのは、千万太君のお|通《つ》|夜《や》の晩でしたね。あの晩、花ちゃんは六時十五分前後に家を出ている。そしてそれきり和尚さんが、梅の古木に逆さ|吊《づ》りになっているところを発見するまで、だれも彼女の姿を見たものはないのです。このことがぼくを悩ませた。六時十五分前後に家を出た花ちゃんが、まっすぐに寺へのぼってきたとしたら、当然だれかに会っていなければならぬはずなんです。それだのに実際はだれも彼女を見たものはない。花ちゃんはいったいどこにいたのか。そして、いつ千光寺へのぼってきたのか。……ここでぼくは白状します。ぼくはある先入観から、ひとつの大きな盲点にぶつかっていたのです。それは千光寺の梅の古木の枝にさかさ吊りなっていた花ちゃんは、当然、千光寺|境《けい》|内《だい》で、殺されたものであろうという考えかた。もうひとつは、犯人が花ちゃんを殺す、そしてさかさ吊りにする、この二つの行動はあいついでなされたもの、すなわち花ちゃんを殺しておいて、すぐその場の梅の古木につるしたのであろうという考えかた。この二つです。この盲点のために、ぼくはずいぶん長いあいだ、花ちゃん殺しの真相から目かくしされていた。そしてそういう二つの考えかたが、なんの根拠もないものであり、花ちゃんが、千光寺以外のところで殺されて、のちになって寺へはこびこまれたこと、したがって、殺された時刻と、梅の古木にさかさ吊りにされた時刻とのあいだに、かなり大きなへだたりがあっても、ちっともさしつかえがないことに気づくまでには、相当の時間がかかったのです。だが、そのことに気づいたとたん、ぼくは眼のなかのほこりがとれたように、花ちゃん殺しの真相を見抜いたのでした」  耕助はそこでことばをきると、了然さんのくんでくれたお茶にのどをうるおしながら、 「あの晩、花ちゃんは六時十五分前後に家を出た、そして、すぐその足でつづら折れをのぼり、坂の途中にある|地《じ》|神《がみ》様へおもむき、|祠《ほこら》のなかにかくれていたんです。おそらく、それが犯人、すなわち和尚さんの指令だったんでしょう。和尚さんはむろん、鵜飼君の名前を利用されたのでしょう。鵜飼君の名で手紙をかき、それを直接花ちゃんにわたされたのでしょう。鵜飼君に頼まれたとか、なんとかいって、……哀れな花ちゃんは、人を疑うすべを知らない。とりわけ相手が和尚さんであれば、疑う理由なんか少しもなかった。そこでいそいそ家を出かけ、手紙に指令された祠のなかで、胸をワクワクさせながら、鵜飼さんのお見えになるのを、いまかいまかと待っていたのです。だから六時二十分ごろ寺を出たぼくが、地神様のまえをとおったときは、花ちゃんはすでに祠のなかにいたんです。さて、ぼくが坂を下っていったあと、すぐに竹蔵さんが坂をのぼってくる。その竹蔵さんは山門のところで和尚さんに出会った。そのとき、了沢君は和尚さんの命令で、ありもしない忘れものを寺へとりにかえっていたんです。そこで和尚さんと竹蔵さんがつれだって、つづら折れをくだってくる。この竹蔵さんの出現は、計算にないことだったので、和尚さんはちょっと困られた。和尚さんは一人で坂を下りたいために、ぼくを分鬼頭へ先発させ、了沢君に忘れものをとりにかえらせた。ところがそこへ竹蔵さんが現われたので、しかたなしにわざと下駄の鼻緒をきることによって、竹蔵さんをひとあしさきに追いやられた。さて、こうしてひとりになった和尚さんは、地神様の祠をたたいて花ちゃんを呼ぶ。花ちゃんはもとより疑うことを知らないから、ひょいと頭を出したところを|鉄《てつ》|如《にょ》|意《い》で……和尚さん、あなたの如意は凶器としてまことに格好のものですね。……その如意でガンと一撃、花ちゃんが声もたてずに倒れたところを、念のために手ぬぐいでひとしめ、あとは|狐格子《きつねごうし》をしめるだけのこと。だからその間二分とはかかりゃしない。それからあなたは|悠《ゆう》|々《ゆう》と坂をくだって竹蔵さんといっしょになる。そこへ了沢君がおりてくる。そして三人いっしょに歩き出したところへ、ぼくが分鬼頭から引き返してきて出会ったというわけです。警部さん、これでみてもわかるとおり、殺人というような場合、それが簡単であればあるほど成功率は高いんですね。実際、なんという大胆な、なんという無技巧なやりくちでしょう。しかも、ぼくにしてみればつづら折れのふもとで出会ったとき、和尚さんと了沢君と竹蔵さんと三人いっしょだったために、寺を出たときからずうっとそうであったろうと考え、その途中で和尚さんがあんな恐ろしいことをやってのけただろうとは、どうしても考えることができなかったのです」  了然さんは無言である。相変わらず淡々たる面持ちできいている。だが、無言であるということがいちいち耕助のことばを承認していることになるのだろう、磯川警部はむしろ一種の敬意をもって、和尚の顔を仰がずにはいられなかった。 「こうして花ちゃん殺しは|成就《じょうじゅ》しました。しかし、和尚さんの仕事はそれで終わったわけではない。いやいやそれからあとの仕事こそ、和尚さんのほんとうの仕事だったというべきなのです。花ちゃんの死体を寺へはこんでいって、梅の古木にさかさ吊りにしなければならない。それを省いては和尚さんにとって、花ちゃん殺しはなんの意味もなくなるのです。だが、この仕事も和尚さんは、花ちゃん殺し同様、いや、それ以上の大胆さと無技巧さでやってのけました。お通夜の席で花ちゃんの|失《しっ》|踪《そう》が問題となり、みんなで手分けして心当たりを探すことになったとき、和尚さんは実にしぜんに、手配りをきめ、自分ひとりでひとあしさきに寺へかえることになりました。その手配りがあまりしぜんだったので、だれひとり和尚さんの真意を|忖《そん》|度《たく》できるものはなかったでしょう。しかも和尚さんは、急げばだれの眼にもふれないうちに寺へかえれたものを、けっしてそんな不自然なことはやらなかった。わたしたち、ぼくが了沢君や竹蔵さんとつづら折れのふもとで落ち合ったとき、和尚さんはまだつづら折れの途中だったが、ああなんということでしょう。そのとき和尚さんの背中には、花ちゃんの死体が負われていたのです」  耕助はかすかに身ぶるいをする。磯川警部は眼をみはる。了然さんは相変わらず、ゆったりとした面持ちできいている。  耕助はごくりと息をのむと、 「あのときのことを思い出すと、ぼくはいまさらのように和尚さんに敬意をはらわずにはいられない。むろん|闇《やみ》がすべてをくるんでいた。われわれは和尚さんの姿も、和尚さんの背中に負われた死体も見ることはできなかった。われわれの見ることのできたものは、ただ、和尚さんの提灯のあかりだけだった。しかし、それかといって、殺人犯人が、死体を背負うて、ああも悠々と歩けたというのは……それはだれにでもできる芸当じゃない。われわれ……われわれと和尚さんとの距離は、最初に見たときより、少しでも大きくなるどころか、反対にしだいにせばまっていたくらいですからね。さて、ほどよいところで山門を入った和尚さんは、梅の古木に花ちゃんをさかさ吊りにする。これこそは花ちゃん殺しの眼目で、これなくしては、花ちゃんを殺した意味が半分以上なくなるのです。なぜならば、屏風にはってあった其角のあの句、|鶯《うぐいす》の身を|逆《さかさま》に|初《はつ》|音《ね》かな。……花ちゃんの死体をその句に見たてることが、花ちゃんを殺すこと同様に、いや、それ以上に、和尚さんにとっては大事なことだったのです。いまや、和尚さんはその見立てを完成された。そこで、急いで山門へとび出してきてわれわれに叫びかけ、そしてこんどは|庫《く》|裏《り》のほうへとってかえされたが、そこではじめて和尚さんは、自分の筋書きにない|闖入者《ちんにゅうしゃ》のあったことを発見されたのです」  耕助はほっと深いため息をついて、 「この闖入者は、和尚さんにとっても、意外な障害だったでしょうが、ぼくにとっても大きな惑いの種となりました。和尚さんはこの男が禅堂にひそんでいるのに気がつき、それに逃げるチャンスをあたえるような行動をとられた。ぼくはそれをこういうふうに解釈したのです。和尚さんはその男を知っているのだ。知っているから逃がしてやったのだ。と、いうことはその男こそ犯人なのだ。……と、ところが事実はそうではなかった。その男は和尚さんともこの事件とも、なんの関係もない男であった。ただ、その男は和尚さんが花ちゃんをさかさ吊りにするところを見たかもしれないのだ、いや、さかさ吊りにするところを見ないまでも、和尚さんがかえってくるまでそこに死体がぶらさがっていなかったことを知っているのだろう。和尚さんはそれを恐れた。だからあとのことはなんとか才覚することにして、とにかくその場だけはその男の、つかまえられるのを防がなければならなかった。そこでかれに逃げ出すチャンスをあたえられたのです。そして後日、あの山狩りの夜、その男が捕らえられようとする寸前に岩陰から鉄如意で、殴り殺してしまわれたのです」  和尚は相変わらず淡々としている。耕助の語りくちも淡々としている。それは恐ろしい殺人行為を指摘したりされたりしているふたりとは、だれの眼にも見えなかった。なにかしら、超越しきったものがそこにあった。 「さて、このことが起こるまえにもうひとつ、和尚さんはぼくをペテンにかけるようなことを口ずさまれた。ああいや、和尚さんはけっしてそんなつもりじゃなかったのですが、ぼくがそれを勝手にまちがった意味に解釈し、そのために長いあいだ、闇夜をさまようていなければならなかったのです。それはこうです。さかさ吊りになった花ちゃんの周囲にわれわれが群がっているとき、和尚さんはつぎのような意味のつぶやきをもらされた。気ちがいじゃが仕方がない……。そのときの和尚の様子、声の調子からして、それはいかにも|衷心《ちゅうしん》からほとばしり出た嘆きのようであった。そこにはかまえた態度や、技巧的な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》は|微《み》|塵《じん》も感じられなかった。心中にわだかまっている嘆きが、思わず口をついて出た。……と、そんなふうにしか感じられなかった。だから、このことばは信用してもよいと考え、そして、そのことばの意味から、気ちがい、すなわち|座《ざ》|敷《しき》|牢《ろう》のなかにいる与三松さんのことがぼくの念頭にうかびあがった。つまり、与三松さんがなにかこの事件に関係があるのではあるまいか……と。これがまた、長いあいだぼくに誤った道をたどらせる大きな要素になったのです。そして、そのことばのほんとうの意味に気がついたときには……万事はすでに終わっていた。……警部さん、和尚さんのそのときつぶやいたことばは、ほんとうは『気ちがいじゃが仕方がない』ではなかったのですよ。キがちがっているが仕方がない、といわれたのです。それをぼくは勝手に気ちがいと要約し、それを狂人と解釈したのです。しかし、そのとき和尚さんのいわれたキは、気持ちの気ではなく、季節の季だったのです。すなわち、そのとき和尚さんは『季がちがっているが仕方がない』と嘆かれたのです。では、なぜそのようなことを嘆かれたかというと、和尚が花ちゃんの血と肉で見立てた句、『鶯の身をさかさまに初音かな』という句は、あきらかに春の句である。ところが、いまは秋である。そこで、和尚さんは『季がちがっているが、(これも嘉右衛門さんの遺志とあらば)仕方がない』と、いうふうに嘆かれたのです。つまり和尚さんのちがっていることを嘆かれたキというのは、実に俳句の季題だったのです」  和尚のおもてにはおだやかな微笑がひろがってくる。耕助はそれに眼をとめると、 「ああ、和尚さんはわらっていられる。しかし、和尚さんにわらわれたのはこれがはじめてではないのです。このことがあった直後、あの|闖入者《ちんにゅうしゃ》を探しに本堂に入ったとき、ぼくは、そのことばの意味を和尚さんに詰問しました。和尚さんははじめ、ぼくの質問の意味がよくのみこめないようでしたが、間もなくぼくのコッケイな勘ちがいに気がつくと、両手で顔をおおい、肩で大きく呼吸をしていられた。そのときぼくは、自分の質問が、いたいところをついたので、和尚さん、大いに驚き恐れたのだろうとウヌボレていたんですが、いずくんぞ知らん、あのとき和尚さんはわらっていられたのです。ぼくの変てこな勘ちがいに、腹をかかえて|哄笑《こうしょう》していられたのです。そして、それを勘づかれたくないために、両手で顔をかくしていられたのです。ぼくは……ぼくは、この偉大な和尚さんの眼から見れば、まったく赤ん坊のような存在でしかなかったのです」 「いやいや、そうでない、金田一さん」  和尚はようやくわらいをおさめると、なだめるように耕助を見る。その眼にはどこか、慈父のようなおだやかな色がある。 「あんたはけっして赤ん坊ではない。あんたは偉大じゃ、すぐれたひとじゃ。ようまあ、そこまで見抜かれたものじゃ。嘆くのはおよし。あんたでのうてもだれだって、こんどのような事件はふせぎようが、あるまい。さあそれでは、あとをきかせておくれ。それでだいたい花子の場合はかたづいたようだから、こんどは雪枝と月代のばんじゃ。ひとつ、それを説きあかしておくれ」 「雪枝ちゃんが殺されたとき、いちばん問題になったのは……」  と、耕助がいくらかつかえながら語り出した。 「いつ、雪枝ちゃんの|死《し》|骸《がい》が吊り鐘のなかへ押しこまれたかという時間の問題でした。清水さんの話によると、八時四十分ごろそこをとおりかかって、懐中電燈で吊り鐘をしらべたときには、|振《ふ》り|袖《そで》なんか出ていなかったという。それから清水さんと村長は坂をくだって分鬼頭へおもむき、十分ほどして引き返してきたのですが、吊り鐘のそばをとおるとき、ザーッと雨が落ちてきたといいます。したがって、死骸が吊り鐘のなかへ押しこまれたのは、絶対にそれからあとではない。なぜならば、吊り鐘のなかに座っていた雪枝さんは、吊り鐘からはみ出した振り袖をのぞいて、どこもぬれていなかった。いや、背中にいくらかしめり気をおびている以外、どこもきれいに乾いていたのです。だから、死体が吊り鐘のなかへ押しこまれたのは、雨が本降りになるまえ、と、すると清水さんと村長が、はじめに吊り鐘のそばをとおり過ぎ、分鬼頭へ行っていたあいだであろうか。そのあいだは往復の時間も加えて十四分あります。十四分あれば、なるほど吊り鐘の力学を演じて、雪枝さんの死体をなかへ押しこむには十分です。ぼくもはじめはそう考えていたのですが、しかし、よくよく考えてみると、どうもこれは、不自然に思われる。幸庵さんの推定では、雪枝さんの殺されたのは、六時から七時までのあいだということになっている。かりに雪枝さんの殺されたのが七時としても、なぜ一時間半以上も待って、そんな|際《きわ》どい時間を利用しなければならなかったのだろう。それに清水さんの話では、はじめに吊り鐘をしらべているあいだに、ポツリポツリと降り出したということです。そうすると、死体はやはり多少でも、ぬれたあとがなければならぬはずなのだが、まえにもいったとおり、少しもそんな|痕《こん》|跡《せき》はなかったのです。なぜだろう、なぜだろう、なぜだろう……そう考えているうちに、ぼくはふと、死体はもっとそれよりまえ、すなわち清水さんと村長が、最初にそこをとおりかかったときよりまえに吊り鐘のなかへおしこまれていたのではあるまいか。そう考えることがなにかにつけていちばん自然なのですが、さて、そうなると困るのは清水さんと村長さんが懐中電燈でしらべたとき、振り袖なんかのぞいていなかったということです。あの振り袖は道のほうへ向かって出ていたのですし、パッと眼につく色彩だから、いかにほの暗い懐中電燈の光でも、そんなものがはみ出していたら、見落とすはずはないのです。これにはぼくも弱りました。なにかしらそこにトリックが|弄《ろう》されているように思われる。だがそのトリックは……と、思い悩みつづけているところへ、清公の床屋できいたのが、あの晩もうひとつ吊り鐘が坂の途中にあったという話、それから月代さんたちのおふくろさんが、昔、道成寺の芝居でつかった、まんなかからパッと二つに割れる張り子の吊り鐘が、本鬼頭の土蔵のどこかに残っているはずだという、分鬼頭の儀兵衛さんの話……この二つが、さっとぼくの頭をさしつらぬいたのです。手品の道具立てがわかれば、種明かしをされたも同じこと。あとはもうトリックを見破るのはなんの造作もないことでした。すなわち、雪枝さんの死体を吊り鐘へおしこめ、振り袖だけをはみ出させておく。つまり、あの振り袖は犯人の手落ちではみ出していたのではなく、わざとああしてのぞかせておいたのです。そして、そのうえからもうひとつ、張子の吊り鐘をおっかぶせて、本物の吊り鐘を振り袖もろともかくしてしまう。……だから、あの晩、清水さんが懐中電燈でしらべたのはなんと張り子の吊り鐘だったのです」 「その吊り鐘を金田一さん、あなたは昨日、海の底から見つけ出したのじゃな」  耕助の息切れを救うように、了然さんがポソリとそばから口を入れる。そして、耕助の湯飲み|茶《ぢゃ》|碗《わん》に茶をついでやった。 「そうです。その吊り鐘の|竜頭《りゅうず》には、太い綱が結わいつけてあり、綱のさきには大きな石がしばりつけてありました。それから、あの|崖《がけ》の出っ張りのすぐしたの道には、石が滑りおちたような跡がありました。そこでこういうことになるのです。本物の吊り鐘のうえにおっかぶせられた張り子の吊り鐘の竜頭から、下へたらした綱のさきに大きなおもしをつけて、それを崖下の路傍においておく。そうしておいて、まず清水さんに、張り子の吊り鐘を見せておく。その吊り鐘の下からは振り袖なんかはみ出していない。さて、そのあとで崖下の路傍においてあるおもしを突き落とす。張り子の吊り鐘はおもしの重みにひきずられ、仕掛けでパッとまんなかから割れると、スッポリと本物の吊り鐘から抜けて、そのまま海へ落ちていく。あとには本物の吊り鐘の下から雪枝さんの振り袖がのぞいている。……ぼくは昨夜それとなく、清水さんにきいてみました。すると清水さんの答えるのに、そういえば、懐中電燈でしらべた吊り鐘は、翌朝見た吊り鐘より、少し大きかったように思う。夜と朝とで、そんな気がしたのかもしれないが、……と。これで、なにもかもわかりました。だが、それでは犯人はなぜ、そのようにややこしいことをやらなければならなかったのか。……これはもういうまでもありません。時間にアリバイをつくるためです。八時四十分ごろ、清水さんがとおり過ぎたときには、吊り鐘の下からは振り袖はのぞいていなかった。したがって、雪枝さんがそこへおしこまれたのは、それよりのちのことであると思いこませるためです。では、だれがいちばんこのトリックで、自分のアリバイをそれとなく強調しているか。……それと同時に、だれがいちばん、おもしを突き落とすチャンスを持っているか。ここまで考えてきたとき、ぼくは、あまりの恐ろしさに気が狂いそうでした。この二つの条件を同時にみたしうるひとは、村長よりほかにありません。村長は清水さんといっしょに、張り子の吊り鐘をしらべている。村長は清水さんといっしょに、おもしのおいてあった坂をくだっている。なにしろあたりは真っ暗だから、清水さんにさとられずに、おもしを突き落とすチャンスだってあったにちがいない。……そこでぼくは昨夜それとなく、清水さんにきいてみたのですが、それに対する清水さんの答えというのはこうでした。あの崖をおりてから間もなく、村長が小便をするというので、清水さんは、ぶらぶらさきに行ったそうです。村長が立ちどまったのは、たしかにあの崖の下、おもしの跡のあったあたりであり、そういえば、なにかボシャンと、海へ落ちこむ音をきいたような気がする。ソロソロ海が荒れかけて、波の音と風の音が強かったので、ハッキリとはききとれなかったが……と」  耕助はそこでことばをきった。そして放心したような眼で、しばらくぼんやり障子の外をながめていたが、警部のあとをうながすようなせき払いに、また、ポツリ、ポツリと語り出した。 「それは恐ろしいことでした。気の狂いそうな発見でした。花ちゃんを殺したのは和尚さんであり、雪枝さんを殺したのは村長である。あまり気ちがいじみて、自分でもそれを信じるのが怖かったくらいです。しかしいかにぼくの感傷がそれを拒否しようとしても、厳然たる事実はうごかすことはできません。和尚が花ちゃんを殺したのだ。そして村長が雪枝さんを殺したのである。と、すれば月代さんを殺したのは幸庵さんではあるまいか……そう考えていたとき、ぼくはまったく気が狂いそうでした。だが……月代さん殺しが、幸庵さんであってはいけないという根拠はどこにもなかった。いやいや、逆に、幸庵さん以外に、月代さんを殺すチャンスを持ちえたひとはひとりもいない。……」 「しかし、金田一さん、それはチト無理ですよ」  磯川警部がはじめて口をひらいた。 「なるほど。幸庵さんには月代ちゃんを殺すチャンスはあったかもしれない。しかし、肉体的にそれは不可能ですよ。なぜって幸庵さんは左腕を折って用をなさなくなっている。それだのに月代さんは、日本手ぬぐいで絞め殺されたのです。片手でひとを絞殺するということは……」 「けっして不可能じゃありませんよ、警部さん」  耕助はもの憂い声で、 「あの手ぬぐいは、御存じのとおり、|反《たん》のまま染めてあるのです。そして、月代さんの向かっていた祭壇の右側にはいろとりどりの吹き流しのようなものがぶらさがっていました。ホラ、鈴と猫とがむすびつけてあったあれです。あの吹き流しのなかへ一本、つなぎ染めの手ぬぐいをまぜておいても気のつくはずはありません。幸庵さんはその手ぬぐいの端を右手で握って、祈祷に夢中になっている月代さんのうしろへ忍びより、すばやく首に巻きつける。そして、うんとそれをひっぱれば、……手ぬぐいの他の端が|鴨《かも》|居《い》に固定しているのだから、片手でも十分絞め殺すことができるのです。そして、月代さんが絶息したところを見計らって、手ぬぐいを|適《てき》|宜《ぎ》の長さに切っておく。警部さん、あなたはあの手ぬぐいが、かなりよごれていたにもかかわらず、切り口だけが新しかったことを覚えていらっしゃるでしょう。こうして片腕の幸庵さんが、日本手ぬぐいでひとを絞め殺すという、不可能犯罪ができあがったのです」  日は暮れた。シーンとしずまりかえった書院のなかに、磯川警部の荒っぽい息づかいばかりが、切ないほどに耳につく。警部はねっとり吹き出した、額の汗をぬぐいながら、しゃがれ声で、やっとこれだけのことをいった。 「いや、どうも! いったい、これはどういうことになるんだ。和尚といい、村長といい、幸庵さんといい、それじゃ獄門島にゃ犯罪の天才が集まっているというわけか」 「いいえ、それはちがいます」  耕助がしずかにそれを訂正した。 「さっきもいったとおり、和尚さんも、幸庵さんも、単なる殺人機械にすぎないんです。この恐ろしい三つの殺人事件の考案者は、ほかでもない、亡くなった嘉右衛門隠居なのです。警部さん、あなたもおききになっているでしょう。嘉右衛門さんは死ぬまえに、中風で倒れて左がきかなくなっていた。それから思いついた月代さん殺しの方法を、幸庵さんはそのままうけつぎ、わざと左の腕を折ったのです。だが、そのことについては、和尚さんが詳しく語ってくださるでしょう」  耕助はそこでポッツリことばをきった。     封建的な、あまりに封建的な  日が暮れて、あたりは小暗くなっている。書院のそとには細かい雨が、しとどに降りしきっている。警部は立って、つと、電気のスイッチをひねった。つめたい、しらじらとした電気の光が、水のように書院にながれて、縁さきのぬれた八つ手を光らせる。  了然さんは相変わらず、眼を半眼にとじたまま、虚心の像のように座っていたが、大きなくちびるが、ゆったりうごきはじめた。 「太閤さんの御臨終……と、島のもんは言うている、嘉右衛門さんの最後が、いかに哀れな悲痛なものだったか、あんたもよう知っているはずじゃな」  なにもかも超脱しきった、水のような淡々たる調子である。ひくいが、ひびきのある了然さんの声が、|縷《る》|々《る》としてつづくのである。 「無理もないのじゃ、|肝《かん》|心《じん》の跡取り|息《むす》|子《こ》は、バカをつくしたあげくがあの調子、大事な孫はふたりとも、戦争にとられて生死もわからぬ。あとに残ったのは女ばかり、それも本家の三人ときたら、みんな一人まえではない。そこへもってきて分鬼頭のお志保が、鵜飼という若い衆をつかってチョッカイを出す。嘉右衛門さんは死ぬにも死ねぬ。終戦のときに一度倒れて、半身不随みたいになったのを、そのときはまあ助かったが、十月のはじめにまた倒れて……こんどはだれの眼にももういけないと思われた。本人も覚悟したらしかったが、|修《しゅ》|羅《ら》の|妄執《もうしゅう》とはあのことじゃな。本鬼頭のゆくすえを思いやれば七転八倒、地獄の|業《ごう》|火《か》に焼かれる苦しみじゃ。いたいたしゅうて眼もあてられぬ。それが息をひきとる二日まえに、わしと村長と幸庵を|枕《まくら》もとに呼びよせてな、変なことをいいだした。いまでも、こうして眼をつむると、嘉右衛門どののその声が耳の底に残っているような気がする。それはだいたい、つぎのようなことばじゃった。……みんな、きいてくれ、わしはゆうべ不思議な夢をみた。月代と雪枝と花子を殺す夢じゃ。それがまた、なんともいえぬ美しい殺しかたでな。……嘉右衛門どのはそう言うて、ものすごい笑いをうかべた。そして、わしらが顔を見合わせているのも委細かまわず語り出したのが、いま金田一さんが説明したような三つの殺しじゃ。嘉右衛門さんは恐ろしい執念でくりかえしくりかえしそれを話した。夢を見たというがそうではあるまい。はじめに倒れたときから、いやいや、ずっとそのまえから、長い長い年月をかさねて、くふうにくふうをかさねてきたところであろう。かねて千万太が死んで一が生きてかえったら、自分の手で三人娘を殺してしまうと、わしら側近のものにだけ、おりにふれ、冗談のようにもらしていたが、冗談ではなかったのじゃ。語り終わって嘉右衛門さんは、これはわしの手でやらねばならぬところじゃが、こういう体ではもうかなわぬ。それに余命いくばくもない。達者なうちにやるべきじゃったが、それには、千万太も一も消息がわからぬ。わしじゃとて、無益な|殺生《せっしょう》はしたくないから、いままでひかえてきたが、いま死ぬにあたってこのことばかりが心残りじゃ、これ、和尚、村長、幸庵どの。わしをふびんと思うたら、わしの志をついでくれ。千万太が死んで、一が生きてかえったときには、じゃまになる三人娘を、いま言うたとおりのやりかたで殺してくれ、それがなによりのわしへの供養じゃ。……嘉右衛門さんは涙をながして、わしら三人を拝むと、枕の下から取り出したのが三枚の色紙じゃ、さあ、これをおまえたちに形見にする。これを見たら、わしの遺言を忘れるようなことはよもあるまい。嘉右衛門さんはそこでまた、ひとりひとりの殺しかたをくりかえしくりかえし説明すると、なあ、頼むぞ、拝むぞ、もし、わしの遺言に違背したら、|七生《しちしょう》までもたたってみせると、わしには其角を、村長には冑の下のきりぎりすを、それから幸庵には萩と月を手渡した。この三枚の色紙は、さきごろ一双の|屏風《びょうぶ》に張って、金田一さんの枕もとへとどけておいたから、あんたも御覧になったろう。わしがなぜあのようなことをしたかといえば、村長からあんたの素性をきいたからじゃ。村長はあんたの名前を覚えていた。古い新聞をひっぱり出して、やっぱりまちがいのないことを確かめた。金田一耕助というのは、有名な探偵じゃそうなときいて、さては千万さんからなにかきいてやってきたなと勘づいた。そこでわしは、おまえさんになんの手がかりもあたえずに、決行するのは|卑怯《ひきょう》と思うた。おまえさんがほんとにえらい探偵なら発句のなぞをとくじゃろう。それが解けねばおまえの不明じゃ。名探偵のねうちはない。どっちにしても勝負どころのあの色紙を、かくしておくのは卑怯と思うたで、村長や幸庵の反対をおしきって、ああいうことをやったのじゃが、結果は、まんまとわしらの負けじゃ。じゃがよい。負けてもよい。負けてもすがすがしい。……はっは。話がわきみちへそれたが、さて、嘉右衛門どんの遺言だが、あんたでもあのときの悲痛な様子を見たら、よも、いやだとはいいきれまい。わしは涙をポトリと落とした。あの|剛《ごう》|毅《き》な嘉右衛門さんが、こうもみじめになるものかと思うと、ひとの執念のあさましさというよりも、哀れさに泣いたのじゃ。そこでわしはこう言うた。隠居、安心せえ。千万さんが死んで一さんが生きてかえるようなことがあったら、きっとおまえのいうとおりにしてあげる。たとい未来は地獄に落ちようとも、花子の死体をきっと梅の古木にさかさ吊りにしてみせる。本尊薬師|如《にょ》|来《らい》も、御照覧あれ、このことばにうそいつわりはござらぬ。村長と幸庵は恐ろしさにしりごみしたが、それでもしぶしぶ誓いを立てずにいられなかった。嘉右衛門さんは安心したのか、二日ののちに眼をつむったのじゃ」  耕助も磯川警部も黙然としてきている。それはさながら戦国の世の、武将の末路をきくような、哀れにもはかない物語である。  和尚もしだいにしずんだ色になり、 「|弔《とむら》いがすんで間もなくのこと、わしは村長と幸庵と三人きりで話をしたことがある。そのとき幸庵が、和尚おまえあんな約束をしたが、ほんまにやるつもりかと、心配そうにわしに尋ねた。わしはそのときカラカラ笑うて、なんの、嘉右衛門どのは気が狂うていたのじゃ。嘉右衛門さんの志をつごうにもつげぬところがあるじゃないか。なぜ、なぜつげぬ。どこにつげぬところがある。吊り鐘じゃよ。この島に吊り鐘などどこにある。嘉右衛門どのは気が狂うていたから、吊り鐘を供出してしもうたことを忘れていたのじゃ。吊り鐘がのうては、むざんやな冑の下のきりぎりすもやれぬ。してみれば村長だけは約束を守らずともすむ。村長が約束をやぶってよいならば、わしらとて、破って悪いという法はあるまい。それで、村長も幸庵も肩の荷をおろしたように安心したが……それだのに……それだのに」  了然さんの顔色には、はじめて苦痛の色がひろがった。 「一年たってついさきごろ、呉から吊り鐘をとりにこいと言うてきた。わしはドキリとした気持ちで、なんとやら不吉な胸騒ぎを覚えたが、ほっておくわけにもいかんから、ともかく出向くと、吊り鐘は|鋳《い》つぶされもせずに残っていた。そこでもらいさげの手つづきをして、さてそのかえるさじゃ。さっきも言うたとおり、一さんの生還、千万さんの死、わしはどかんと頭をブン殴られた心持ちじゃった。村長も幸庵も同じ思い、いやいや、わしよりももっと恐れおののいたのじゃ。そこでどうする、どうしたものかと、三人寄ればその評議じゃ。わしはしかしもう心がさだまっていた。なにもかもがそろいすぎた。これも嘉右衛門どのの|想《おも》いのなすわざであろうと恐れたのじゃ。それにまた、一年のあいだ後見して、とっくりと見てきた三人娘、あれはもうさかりのついた|牝《めす》|猫《ねこ》みたいなもので、ここで鵜飼という男を、なんとかしたところで、第二、第三の鵜飼があらわれるであろうことは、火をみるよりもあきらかじゃった。これはもう、死なせたほうが本人たちのためにも慈悲、世間のためにもなろうと思うた。そこでわしは村長と幸庵にこう言うた。おまえたちはどうでも好きなようにせえ。わしは約束どおり決行する。おまえたち、警察へ訴えたければ訴えてもよい。その代わり、嘉右衛門どのの|恨《うら》み、わしのたたり、きっと思い知るときがあろうぞ。ふたりともまだほんとうにしてはいなかったが、わしが花子を殺して、さかさ吊りにするに及んで、ふたりは驚き、おののき、狼狽した。わしの決意の固さをはじめてふたりは知ったのじゃ。あのふたりには、死んだ嘉右衛門どのの恨みより、生きているわしのたたりが怖かった。そのわしが決行したからには、……ふたりもとうとう観念した。まず村長がやり、ついで幸庵がやってのけた。わしはふたりを哀れに思う。いざとなったら、みんなの罪を背負うてやるつもりじゃったが、……」  了然さんはふかいため息をつくと、耕助のほうをふりかえった。 「金田一さん」 「はい」 「村長や幸庵はどうしたな」  耕助は磯川警部と顔を見合わせた。 「その村長はゆうべのうちに島から逃げ出しました。和尚さん、あなたが逃げるように注意なすったのですね」  和尚はホロにがい微笑をうかべると、 「昨日あんたが張り子の吊り鐘を、海からひきあげるのを見て、こりゃもういけぬと思うた。あそこまで見通しのおまえさんじゃ。罪をひきうけるのなんのと、そんなチャラ臭いことできぬと知った。そこで村長と幸庵に注意に行ったが、幸庵め、例によってズブズブに酔うていたのでそのままかえった。そうか、村長は逃げたか。そして幸庵はどうしたな」 「その幸庵さんは……」 「その幸庵は……」 「さっき、気が狂うて……」 「気が狂った……?」  了然さんは張りさけるように眼をみはった。が、やがてしずんだ色になり、ほうっと太いため息をついた。 「そうか。……いや、そうあろう。あれはいたって気の小さい男だから、キナキナ思いつめたあげくに……」 「いいえ、そればかりではありません。きょう、笠岡の本署から、清水さんのところへ電話がかかってまいりまして……」  耕助の語尾がふるえて消えた。了然さんは不思議そうに眉をひそめて、 「笠岡の本署から電話が……? 金田一さん、それがなにか幸庵と関係があるのかな」 「和尚さん」  耕助はあつい息を吐いた。 「これはいいたくないことです。いわずにすむならすませたい。笠岡からかかってきた電話というのは、神戸で復員|詐《さ》|欺《ぎ》がつかまって、ビルマから復員した男だそうですが、戦友の留守宅を、かたっぱしからかたって歩いていたんです。そいつのいうのに、生きていると知らせてやると、留守宅のよろこびも格別で、ごちそうもお礼もフンパツするが、死んだというとそれほどでもない。そこで一計を案じて、戦死した戦友でも、生きているように報告することにきめたという。……」  了然さんの顔に、ふいに動揺があらわれた。大きく、息をはずませながら、 「き、金田一さん、そ、それじゃもしや一さんは……」  耕助は和尚の顔を見るのがつらかった。この一言こそ、和尚がきずきあげた自慰の楼閣を、むざんにつきくずすものである。 「そうです、戦死したのだそうです。しかし、それを正直にいうと、謝礼のたかが少ないと思うたので……ああ和尚さん!」  不意に和尚が立ち上がったので、耕助と磯川警部は、あなやとばかり身をうかせた。  和尚はしばらく微動だにしなかった。大きく見開かれた眼は、生命なきガラス玉のごとく、光をうしなってぼんやりにごっていた。和尚はなにかいおうとした。しかし、ことばは出ずにただくちびるがパクパクうごいたばかりである。和尚は耕助を見、それから磯川警部を見て、ゆっくり首を左右にふった。……と、思うと、左右の|頬《ほお》にみみずのような血管がおそろしくふくれあがって、顔色が、気味悪いほどギタギタと紅潮してきた。 「南無……嘉右衛門どの」 「あっ! 和尚!」  左右から駆けよる耕助と、磯川警部の手をはらいのけるようにして、和尚はどうと、朽木を倒すようにひっくりかえった。  それが了然さんの最期であった。      エピローグ 金田一耕助島を去る  耕助はいま島を去ろうとしている。船着き場まで、清水さんと竹蔵と、床屋の清公が送ってきた。このごろの|日《ひ》|和《より》ぐせか、きょうもまた細かい雨がけむっている。 「清水さん、村長の行方はまだわかりませんか」 「わかりません。ひょっとすると、どこかで人知れず、自殺したのじゃないかと、島のもんは取り|沙《ざ》|汰《た》しています」 「そうですか」  それきり話はとだえて、一同は黙々として、船着き場に立っている。耕助はいま、木枯らしにふかれるようなわびしさを抱いている。  いい知れぬ悲哀が、胸のうちにみちている。  |小《こ》|糠《ぬか》|雨《あめ》は、ふりしきる。|霏《ひ》|々《ひ》として一同のうえにふりそそぐ。…… 「なんでえ、なんでえ、なんでえ!」  突然、床屋の清公が|啖《たん》|呵《か》をきった。 「なんだってみんな、こんなにしょげこんでいるんだ。|旦《だん》|那《な》がおたちになるというんだ。もっとうきうきできねえものか。旦那も旦那だ。なにをそのようにしずんでいなさるんだ。旦那、島にいてこそ早苗さんもべっぴんだが、東京へ出てごらんなせえ、あんななあザラだ。なにもそんなにしょげることはねえやな。ほい、竹蔵さん、早苗さんにゃ内緒だぜ」  清公のことばはいくらか図星をさしている。昨日耕助は早苗さんにむかって、東京へ出る気はないかと誘うてみた。この唐突な申し出に、早苗さんはびっくりして、つぶらな眼をみはったが、やがてそのことばのうらにある意味をくみとると、しだいに眼を伏せ、そしてつぶやくようにこんなことをいった。 「いいえ、あたしはやっぱりここに残ります。兄さんも本家の兄さんも死んでしまって、これからさき、どんなむつかしいことになりますか、それはあたしもよく知っています。島も革命ならば日本も革命、網元だとて昔の甘い夢は見られますまい。でも、むつかしければむつかしいほど、あたしは踏みとどまらねばなりません。ちかごろ島にも復員で、おいおい若いひとがかえってきます。そのなかからよいお婿さんをさがし出して、かなわぬまでも本鬼頭を守りそだてていきましょう。そうでもしなければ、お祖父さまの魂は、この家の|棟《むね》をはなれることができないでしょう。島で生まれたものは島で死ぬ。それがさだめられた|掟《おきて》なのです。でも……ありがとうございました。もうこれきりお眼にかかりません」  早苗さんは顔をそむけて、よろめくように立ち去った。…… 「竹蔵さん、本鬼頭をたのみます。和尚も村長も幸庵さんも、みんなみんないなくなったのだから……」 「旦那、わたしゃ骨が|舎《しゃ》|利《り》になっても……」  竹蔵は袖で眼をこすった。  やがてなじみの白竜丸が入ってくる。 「じゃ、皆さん、ごきげんよう」 「旦那、お元気で」 「金田一さん、ところがきまったら知らせてください。村長がつかまったら知らせます」  |艀《はしけ》が出ようとするところへ、あわただしく|桟《さん》|橋《ばし》をかけおりてきたものがある。復員姿の鵜飼章三で、|傘《かさ》もささずにぬれそぼれているのが哀れである。 「あっはっは、鵜飼さん、おまえとうとうお払いばこになったね。さりとは分鬼頭のおかみも現金な」  床屋の清公の毒舌である。  鵜飼は顔を真っ赤にして、消えてなくなりそうに肩をつぼめ、そそくさと艀のなかへとびうつった。 (そうだ、それでいいのだ。ここは他国もののながく住むべきところではない)  艀がしずかに|漕《こ》ぎ出すとき、ゆるやかに霧雨をついて、鐘の音がながれてきた。  了沢君がわかれのあいさつに、|鐘《かね》をついてくれるのである。恐ろしい思い出のあるあの鐘を。……  耕助は艀のなかにつと立ち上がると、 「南無……」  と、霧雨けぶる獄門島にむかって合掌した。 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月) 金田一耕助ファイル3 |獄《ごく》|門《もん》|島《とう》  |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成13年10月12日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp ■(C)  Seishi YOKOMIZO 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『獄門島』昭和46年3月30日初版発行          平成13年8月10日改版10版発行